序:破 ≪受付≫
この頃では陸歩の筆記もずいぶん上達した。
語彙は増え、文法の誤りも減り、受付用紙の記入も今はイグナ任せにせず自分で鉛筆を走らせている。
これも読書の習慣の賜物か。
だが。
「『イトケウス』って……どう書けばいいんだろうな?」
誰も知らない単語。
当然陸歩にも見当がつかず、さて、いかように綴ったものか。
イグナが肩を竦めながら助言をくれる。
「音をそれらしく書くよりないのでは」
「だなぁ」
この世界の文字は、表音と表意が混じっているため難しい。
陸歩はとりあえず、イトケウス、と読めるように字を並べて、仮にでっち上げた。
「じゃあ、これで、お願いします」
「お預かりします」
カウンターの中で、受け取った看守は内容を検める。
不備がないことを認めると、引き出しから木札を取り出して、毛筆でさらさらと書き写し始めた。
最後に、それぞれの頭へ番号と記号をスタンプ。これで管理しているのだろう。
「では、ご確認を。
お探しの知恵はこちら三点でよろしいですね。
――『イトケウスという単語について』。
――『この世ならざる物体、形状:錠前について』。
――『変質した祭器の力を引き出す方法について』。
お間違えはありませんか」
陸歩はイグナと顔を見合わせる。
少女は「問題ありません」と頷いた。
陸歩はキアシアとも顔を見合わせる。
こちらは「キアはなんか知りたいことないの?」という意味で。少女は「大丈夫」と頷いた。
「はい、この通りで」
「畏まりました」
すぐに奥からもう一人、看守が出て来て、木札を受け取って下がった。
あれらは獄中の掲示板に下げられ、賢者たちの目に触れる手筈だ。
だが心当たりのある誰かが名乗り出てくれるまで、どれくらいかかるか。
待ち時間は、ここガラム・カインの宿泊施設を使うこともできる。
それもだいぶ興味があったのだが、陸歩たちは相談の上、扉の樹で別の街へ飛ぶことに決めていた。
看守が手続きを進め、一本の鍵をカウンターに置く。
「こちらがガラム・カインの鍵になります」
これがあれば折々にこの街へ戻り、状況を確認することが出来る。
しかし、高価な扉の樹の鍵。
まさかタダでは譲渡も貸与もしてくれない。
事前に説明を受けていた通りに従って、陸歩は篭手の中から、鍵を一本取り出した。
「カシュカ大陸北端にある、ゼポって街の鍵です」
「お預かりします」
こうやって、代わりの鍵との交換で、ようやく借り受けることが出来るわけだ。
ひとまずはこれにて、待機するしかない。
この街が空振りのようなら、また新たに手段を考えなくてはいけないが。
ここまで辿り着くのに吹雪の中を行軍する必要があったため、みんな少なからず消耗している。休息が必要だ。
カウンターの看守に礼を言って、陸歩たちは荷物と一緒に待っているアインの元へ戻った。
「おまたせ」
「……んー」
彼は何故か、この広くほとんど人のいないロビーにあって、わざわざ壁際の卓に陣取っている。
暖炉からも遠く、鼻水が滴るほど寒いのに。
そうして濁った分厚い窓ガラスから、空ばかりを眺めていた。
「アイン?」
「……んー」
「おい、どうした?」
「……んー」
本当にどうしたんだコイツ、と陸歩が少女たちに目配せすると。
イグナのほうはことりと首を傾げているが。
キアシアは、なんとなく察した風である。
やがて、アインは苦々しげに、ぽつりと呟いた。
「……灰色の雪は、嫌いだ。ガキの頃を思い出す」
そういえば、正体は巨人であるこの男は、北方の出身だったか。
陸歩自身はまだそちらの大陸へ脚を伸ばしたことはないが、噂ではそこは、ここよりもずっと空が低く、薄暗い土地だとか。
悪天候時のノイバウン大陸と、よく似ているのかもしれない。
「アイン。
行こうぜ。腹も減ったし」
「……だな」
よし、と立ち上がった時、男は再び羅刹だった。
その鋭い、切っ先のような視線。
陸歩は思わず鈴剣へ手が伸びる。
まさかコイツ、ここで、突然、
「よう、冬眠してなくていいのかぁ?」
アインがそう声をかけたのは、陸歩のさらに背後。
慌てて振り返ると。
見知った蛇頭の亜人がそこにいる。
彼の肩や、連れの鴉には雪が被っており、今まさに到着したところであることが伺えた。
あ、と陸歩は声を上げた。
「リャルカ、リャルカ・エナムガっ」
「やぁ、君たち」
それから、と蛇は舌を出した。
「かつての同胞よ。
ジュンナイリクホについた、とは聞いていたが。奇妙な気分だ」
「そうか? 俺はいつかこうして、お前らと敵になるんだって、そんな気がずっとしてたぜ」
「やれやれ。雪とは別で寒気がする」
「いつもの進捗報告か」
と、割り込んだのは陸歩だ。
リャルカが「然り」と長い首で頷く様は、なんとはなしに面白い。
「あぁだが、ちょっと待ってほしい」
言って、蛇はカウンターへ向かっていった。
看守と言葉を交わし、用紙を受け取って、記入を始めたではないか。
……もしや。
「いやいや、お待たせ」
「……。修理作業、手詰まってんだろ」
ずばり言ってやると、あからさまに目を逸らすリャルカ。
こいつ。
かつてザナムゥでの交渉では、あれだけ大きなことを言っていたくせに。
神器を直す術を探したら、結局我々の元へ行き着く、とかなんとか。あれはなんだったのか。
「誤解しないでくれ、ジュンナイリクホ。方法は我々のほうで心得ている。ただ、それを実現するための、実際の手段を固めるのに、念のため専門家の意見を求めに来たまで」
「…………、」
「本当だとも。ほら、ここにもきちんとその旨は記載してある」
差し出された巻物を受け取る。
陸歩はため息を吐いた。
前回も前々回もそうだったから、紐を解く前から分かる。中身は明らかにわざと難解にするため専門用語が羅列され、勿体ぶった固い言い回しが多用されているに違いない。
今ここで目を通すものではあるまい。
何しろ、空腹だし、頭が疲れている。文章を読んだとて目が滑ってろくに入らない。
手の中の巻物を振って見せながら、陸歩は。
「オレたち、場所変えるけど」
「そうかね? では私は、すまないがお暇させて頂いて、」
「温泉に行くんだ。
リャルカ、一緒にどうだ?」
む、と蛇は心魅かれた様子である。
鱗の身体を厚着で覆って、それでもリャルカは寒さによってか、目がとろんとしている。
アインが一番最初に彼へ投げかけた揶揄も、あながち的の外れたものでないのだろう。
変温の肉体であるリャルカを今、襲っている眠気は強烈なはずで、温泉と聞けば揺れない訳がない。
「うー……む……実に、その、有難いお誘いだが」
「その街の名物は燻製と清酒だ。好きか?」
「好物だ」
即答だった。
なら決まりだな、と陸歩が手振りで同行を促す。
懐柔工作、なんて仰々しいつもりはない。ただ少し、向こうの手の内と腹の内と、近況が知れれば御の字。




