転:序 ≪糸口≫
習慣とは偉いもので、リンリャは早朝、いつもときっかり同じ時間に目を覚ました。
「ん……」
全身が重い、けだるい。
昨晩は大舞台だったのだ。
リンリャは身体が休息と睡眠を欲しているのを、強く感じる。
今日くらいは好きなだけお休み――祖母もそうは言ってくれてるけど。
「羊舎、見に行かなきゃ……」
どうせ羊の面倒は、代わりの誰かが見てくれているのだろう。
が、だからこそリンリャは寝てられない。
自分が休んだ分だけ働く人がいると思うと、生真面目な彼女は、ちっとも休まらないのだ。
布団を抜け出す。
立ち上がると。
「っととっ、」
途端によろけて壁に手を突いた。
四肢は眠る前にすでに、普段使いのものに戻している。
バランスを崩したのは義肢の調子云々でなく、やはり疲れているのか。
ゆっくり、一つずつ。
リンリャは肩を回し、肘を回し、手首を回し、指を屈伸し。
膝を回し、足首を回し、指を屈伸し。
感覚を、全身へと巡らせていく。
「よし」
おかげでだいぶ目も覚めた。
リンリャは窓を開け放ち、胸いっぱいに朝の空気を吸い込んでから、まずは着替えを始める。
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世界樹から草原へ降りるまでに、リンリャはすれ違った全員から声を掛けられた。
そのほとんどが昨夜奉じた剣舞への褒め言葉である。次から次へと感想を寄せられるのは、大変面映ゆい。
そして決まって、来年も、来年も、と言われる。
「はい。出来たら、来年も」
答えれば、誰もが唇を薄く噛んで、重々しく頷いた。
やさしい、ひとたち。
途中からは裏道も使い、こっそり第一階層まで降りて、草原に出たとき。
「あら?」
リンリャは青年と少女の姿を見つける。
陸歩のほうは、どこからか持ってきた木剣で素振りをしている。
風を斬る様はなんとも豪快なこと。
舞い散る汗が爽やかな朝日に煌めき、その真摯な稽古姿は、何か、心惹かれるような、あれ、彼、輪郭が輝いているような……。
イグナのほうは、こちらは図書館から借りてきたと思しき大量の本を積み、慎ましく正座で読み進めていた。
今朝はいつもと違うおしゃれなのか、赤い髪にバンダナを巻いている。
それにしても二人とも、てっきりまだ客間で休んでいるかと思ったのに。
先に外出していたとは気づかなかった。
「おはようございます」
近寄ってリンリャが声をかけると、片や木剣を地面に突き立て、片や本を閉じ、順番に挨拶が返ってきた。
「おぉ。おはよ、リンリャ」
「おはようございます」
「リクホさん、剣のお稽古ですか。精が出ますね」
「まぁね。師匠からの宿題でね」
額に汗した陸歩は歯を見せて気さくに笑い、自らの襟元をパタパタと、しきりに風を送っている。
半袖のシャツから垣間見える彼の腕や胸や腹、その筋肉は一目で分かるくらい頑健で、リンリャは不覚にも心拍が上昇した。
「あ……えっと。イグナさんは、お勉強ですか。何を読んでるんです?」
「特に何と限定することもなく。この世界の知識は、全てが興味深いですから」
今まさに手にしている一冊を掲げて見せてくれるが。
表紙には『空間断裂面における境界罫線の応用概論第二』。
難しい、ということだけが分かった。
イグナは頭のバンダナを解き、陸歩へと渡した。
実用主義の彼女はそれを、おめかしに身に付けていたのではなく、主の手拭いのつもりで用意していたのだ。
受け取った陸歩は顔の汗を拭き、人心地につく。
「だぁー。ふぃー。ありがとうイグナ。
……しっかし毎回こうして素振りしてるけどさぁ。ちっとも上達してる気がしないよ。師匠が言うにゃオレ、剣を腕で振り回してるらしいんだけどさ。リンリャ、分かる?」
「えぇと、確かにリクホさんは、肩から先はパワフルで申し分ないですけど、腰の動きは小さいように見えましたね」
「……腰?」
陸歩は首を傾げる。
腰。
上下に、縦に木剣を振るっているのに、腰の動きとはこれ如何に。
リンリャはすっかり先生の顔で、人差し指を立てて説くには、こうだ。
「儀剣、轟剣、崩剣、舞剣……剣に数多の流派はあれど、その極意はみな同じです。
すなわち、切っ先へと全身の力を集約すること。
リクホさん、大きな荷物を押すとして、棒立ちになりながら手だけで押すのと、肩や腰を入れて全身を使うの、どちらがより力が入ります?」
「そりゃあ、全身のほうが」
「ね。それを掌でなく、剣先でやるんですよ。
ただ剣には剣の力の込め方があって、それは生得の感覚とは異なるものなので、身に付けるのに時間が掛かるんですけど」
ほうほうと、陸歩は感心しきりだ。
対してリンリャは我に返った。一席ぶってしまった自分の生意気に赤面する。
「はぁー。さすがだなぁ、リンリャ」
「すみません、つい気取ったことを」
「いやいや。やっぱ一角の人は違うね」
「一角だなんて、そんな」
「昨日の剣舞だってすごかったぜ。イグナ、剣もう一本くれ」
イグナの差し出す木剣を左手で持ち、陸歩は二刀を構えた。
そして、思い出せる限りで、昨晩のリンリャの舞いをなぞる。
「こうだっけ?」
しかしその様は、足をもつれさせた酔っ払いというか、勢いの失せた独楽というか。
よたよたとしてあんまり見栄えが悪い。
眺めているほうは、また眠くなってくるようだ。
「リクホ様、そこで蹴りです……逆です。左足です」
「そこで手首を返して……あー違うんですリクホさん、そういうことじゃなくて……」
「難しいなぁ!」
口をへの字に曲げた陸歩は、一度木剣の両方をリンリャへ持たせ、素手となって動きを確かめた。
剣の長さ分が減って多少はマシになるが、それでもまだまだへっぴり腰には変わらない。
「くっそ、全然ダメな。リンリャ、お手本見せてくれない?」
「えぇっ、そんなっ」
「お願いっ! この通り! なぁ、イグナも見たいよな」
「是非に。リンリャさんの剣舞は、素人のワタシにも鮮やかでしたので」
「ほらほら! 頼む、少しでいいから!」
「うー……じゃあ、本当に少しだけ」
「やった! ありがと!」
剣を順手に持ち直したリンリャは、深く息を吸う。
それだけで彼女の表情は鋭利を帯びた。
決然と空を薙ぐ、二刀。
そこからは昨晩の再現だ。
剣は腕の延長であり、手が足が一つの淀みもなく躍動し、その軌跡がいくつもの弧を描く。
十重に。二十重に。閃光が如き斬撃は、残像をその場に強く留めた。
やがてリンリャは二刀でもって、下弦に空気を切り裂いて、飛び立つ鶴の姿で残心する。
木剣の刀身をまとめて持って、一礼。
「お粗末様です」
「いやぁ、すごい。すごいよ」
陸歩から、称賛と感嘆を込めた拍手が響いた。
だが、その感情豊かな両手とは対照に、表情は硬い真顔のままであり、瞳の奥に至っては鬼気すら迫る色が渦を巻く。
「やっぱり、すごいな。……本当に、なめらかだ」
含みを持たせた言葉。
リンリャも彼の台詞と、視線の向かう先から察し、苦笑いを返した。
「生まれたときから、ですから」
彼女の腕。
彼女の脚。
今この距離でいても、完全に生身にしか見えない。
昨晩の換装した姿がなければ、とても気付かなかったろう。
陸歩は彼女の肢体に、思わず喉が鳴るのを自覚した。
劣情からではない、もちろん。
そんなものよりも、もっとずっと、貪るように求めたものが、目の前に……。
「……もし。よかったら、なんだけど。見せてもらえないかな」
リンリャは逡巡を見せてから、おずおずと右手を出した。
「はい、どうぞ……きゃっ」
その手だけでなく左手をも、陸歩は電光の速さで捕まえた。
リンリャが取り落とした木剣が地面を転がっても気にも留めず、彼は少女の手を覗き込む。
リンリャはしきりに掌を揉みしだかれ、また陸歩の吐息がかかり、その感覚がむず痒く、肩をもじもじとさせた。
「り、リクホさん?」
「すごい。これ、骨格どころか筋繊維の編み方まで忠実なんじゃないのか?
関節がボールでも回転軸でもないなんて……。
体温と同じ温度が保たれてるな、どうやってるんだ?
爪の長さが微妙に違ってるけど……まさか伸びてるの? 代謝してんの?
おいイグナ! 見てみろよ!」
声音こそはしゃいでいるものの、陸歩の目はいよいよ血走っていた。
さすがにリンリャも怖くなり、手を引っ込めようとするが……その気も、すぐに失せてしまう。
彼が、泣いているように見えたからだ。
いや、涙も伝っていなければ、潤んですらいないのだけれど。
それでもリンリャは、彼の目の下に、殉教者の隈を視る。
それもやはり見間違いで、でも、そうとしか、
「足も見せてくれないかっ!」
「え、えぇ……」
虚を突かれたため、少女のイントネーションはyesでもnoでもない形となったが、彼は許可を取り付けたものとして止まらない。
すぐさまリンリャを抱き上げた、いわゆるお姫様抱っこというやつ。
そのまま彼女を草の上に座らせた陸歩は、足からポイポイとサンダルを剥ぎ取っていってしまう。
「やっ、リクホさん! 待ってリクホさん!」
いかに靴といえど、男に脱がされては少女は真っ赤だ。
しかも彼はその、思いの他ひんやりとした手でもって、足の裏や足首や、すねに触れて回るのだから。
スカートは膝上までたくし上げられてしまい、リンリャは太ももから先だけは守ろうと必死だった。
「すごいぞ! 継ぎ目が判らないっ。
足と脚が、部分で分けられていないなんて。
触覚ってどうなってるの? これは?」
足の裏を人差し指でなぞられて、リンリャは呼吸を乱して悶える。
「く、くすぐったいです!」
あまつさえ陸歩は、鼻を近づけて来て。
「匂いは……」
「やだやだ! 嗅がないでください!」
ここでいい加減イグナが見かねた。
「リクホ様、お戯れが過ぎます」
そして主の襟首を後ろから、むんずと掴み、青空めがけて高々と放り投げる。
陸歩にしてみれば急に天地が逆さまになった認識で、驚きに声を上げて、それでやっと正気付いた。
着地、と同時にシームレスに土下座。
「ご、ごめん! リンリャ、申し訳ない! オレ、あああ……」
赤面しきったリンリャは、スカートに脚全部を隠し、彼のつむじをしばらく眺める。
ため息。
「もう。そんなに興味を持つ人も、なかなかいないですよ」
這って戻った陸歩は、そのまま再土下座だ。
「ごめんなさい。申しわけない。リンリャがあんまりキレイで、つい」
「そっ。……あぁ、私の手足が、ってことですよね」
「オレさ、カラクリの勉強をしてるんだ。それで、つい夢中に……」
「もう怒ってないですから。はい、土下座やめて。それにしても、ずいぶん熱心でしたね?」
土下座を解いた陸歩の髪には、草があちこち付いている。
イグナが精密な手つきでそれらを取り除いていく中、彼は重たく口を開いた。
「故郷に、身体をなくした姉がいるんだ」
「お姉さん。お気の毒に。なくされたのは、手ですか? それとも脚?」
「全部」
全部。
その単純にして明快な答えが、むしろ分からない。
陸歩は、泣き笑いのような色を見せた。
「全部だよ。身体全部。残ってるのは、頭だけだ」
「そんな……」
リンリャは思わず口元を押さえた。
そんなことが有り得るんだろうか。
それは、生きていらっしゃるのですか――いくらなんでも、リンリャは訊けない。
陸歩は俯きつつ、強く歯を噛む。
「オレは、どうしても、あの人に自由に動ける身体をあげたくて」
「そう、だったんですか」
「リンリャ、その義肢は、誰が作ったの?」
再び上げた彼の、その瞳は、赤熱を帯びていて。
わずかにリンリャは気圧された。
「あ、えっと。クレイルモリーの職人さんですよ。ここドゥノーのカラクリは、たいていがクレイルモリー製ですし」
クレイルモリー。
陸歩とイグナは顔を見合わせる。
「それって、地名、だよな?」
「あぁ、はい。知りませんか? 北部にあるカラクリ技術の盛んな街で。
たまに大陸巡業する『クレイルモリーの人形一座』っていったら、大人にも子どもにも大人気で」
「――イグナ! 地図くれ!」
「かしこまりました」
すぐさまイグナが羊皮紙を広げ、まだ何も描かれていないそこへ、鉛筆を走らせる。
瞬く間に出来上がっていくのは、カシュカ大陸の全図だ。
「お待たせいたしました」
「わ、すごい。イグナさん上手。……えっと、この辺りですね。ドゥノーから足で行くと、十日くらいでしょうか」
陸歩は示された場所を凝視した。
「ここに、天衣無縫のカラクリ技師が」
「えぇ。カラクリの聖地とも呼ばれる場所ですから。
なんでも、ここには……せ、生殖、によらない身体作製の技があるのだとか」
「……っ! イグナ!」
「はい。クレイルモリー。第一目標に設定いたしました」
イグナは頷き、それから、励ますようにニッコリと笑った。
「おめでとうございます。手掛かりですね、リクホ様」
「あぁ! 行くぞクレイルモリー!」
性懲りもなく陸歩は、リンリャの両手を握った。
そして上下にブンブンと振り、精いっぱい感謝を表現する。
「リンリャ! ありがとう、ありがとう! オレ、君と出会えて本当によかった!」
「ど、どういたしまして?」
肩越しに振り返った彼は、世界樹の先、山々のさらに先を、じっと見つめる。
クレイルモリー。
そこに、求める答えが。




