起 ≪帰郷≫
陸歩の流派は右手も左手も、等しく水のように柔軟に用いるのが理想であるため、ある意味例外。
通常の剣士の場合、剣以外の普段の生活において、どちらの手で持つか触れるかは大変に気を遣うものであるらしい。
例えば扉を開けるとき。
向こう側に敵が潜んでいることを懸念して、すぐに剣が取れるよう、利き手は絶対に使わないのだそうだ。
まだ世が戦乱の渦中にある頃に生まれたセオリーだが、これはもはや剣士にとって常識というか、作法みたいなもので、平時から必ずそうする。
鍵を挿すのも逆の手。
ノブを掴み、回すのも逆の手。
右利きならば必ず左で、だ。
さらに、鍵束である篭手は腕時計と同じで、利き手でないほうにする。右利きなら左。
となれば鍵を取るなら当然、右手。
アインはそれをわざわざ左手に持ち替える。
こんな不自然な手間の理由は、彼が剣士だから。
「――それじゃ、開けるぜ」
アインは、篭手で摘まんだ鍵を、茶化すように振ってみせる。
居合いの構えで鈴剣に手を添えながら、陸歩は重く頷いた。
魔女の手下のうち、剣士でない連中は、他のどんな理由で左手に鍵を持つのか。と、頭の片隅で小さく思いながら。
イグナもすぐ後方で両腕を緩く広げて、いつでも武装を展開できる体勢、主をバックアップできる体勢だ。
キアシアは他の三人が作る陣形の、射線の抜ける点を見据えて、拳銃で既に狙いを付けている。
突入の物々しさは、無理もない。
鍵に仕込まれたトリックをついに解き明かし、魔女の根城へ飛ぼうというのだ。
しかもカナとフェズが先に、このビックキップから扉を使って脱出しており、今頃はとっくにボスへ、陸歩たちが攻め込んでくることを報告しているはず。
当初は立ち塞がる気概を見せた、高弟二人。
羅刹もフランベルジュを抜き放ち、喜色を浮かべ、すわ修羅場……という状況だったが。
鴉が一声、啼いたのだ。
そこにどんな意味が込められていたのか、陸歩たちにはカァとしか分からなかったが。
カナとフェズは口惜しそうにしながらも、撤退の意思を示し、身を翻した。
ほとんどその背を追いかけてきた形だ、現在の陸歩たちは。
「アイン。ゆっくりだぞ、警戒しろよ」
「誰に物言ってやがる――いくぜ」
扉が、開く。
粉雪の舞うビックキップへ吹き込んだ、春香る風。
その匂いに――陸歩は。
無意識を強く刺激される……。
まずアインが先行して扉を潜った。
卓越した踏み込みだ。一歩目から全力疾走と同じスピード、からの一歩で完全に停止。
フランベルジュを正眼に、襲い来るものがあれば直ちに迎え撃つ構え。
陸歩は羅刹の背へ、自らの背をぶつけるように、後ろ向きに突っ込んだ。
鈴剣を抜き放ち、アインと合わせて360度に睨みを利かせる。
ドアからはキアシアが銃口だけを覗き込ませていて、イグナの各種センサーを頼りに上空を警戒。
万全なるそれら一切は――徒労だった。
「…………あん?」
やはり一番最初はアインが、戦闘態勢を解く。
愛刀の腹を、篭手の甲でこすりながら。
すいとイグナが、おずおずとキアシアも、扉を潜り、辺りを見回して眉をしかめた。
ダンブリールからの旅の道中で、魔女の住処の所在地は、アインからあらかじめ聞いている。
月面、だというではないか。
にわかには信じられないが。
失われし太古の禁術や、新たに編み出した悍ましい呪いを操る、この世の理の外にいる魔女だ。空に浮かぶ大陸へ根を下ろすくらいは、やってのけても不思議でないのかもしれない。
何より、アインが嘘を吐く理由も特にない。
今となっては、羅刹は元同胞たちを狩ることを一番の楽しみにしていて、陸歩の行き先をその方向へ誘導しようとしている節が多々見受けられる。
目指すは月。
しかし、ロケットを含む飛行技術は神の逆鱗に触れる。
だからこそ陸歩たちは、扉の樹以外の方法では辿り着くことは適わないことを悟り、鍵師の隠れ里に助けを求めたのだ。
そのつもりでやって来た場所は。
地表のどこかと、なんら変わらない景色。
「ここが……月?」
キアシアの疑わしげな呟き。
夜空に浮かぶ伝説の大陸にしては、あまりにも普通というか。
対してアインは「いや」と頭を振る。
「どこだぁここ。知らねぇぞこんなとこ」
何処かの片田舎、という趣だが。
それはアインやキアシアが知り得るどんな景色とも、雰囲気の異なる街。
当たり前だ。
彼らにとってはここは、どんな大陸よりも、月よりもなお遠い場所。
イグナは主を、気遣う素振りで伺う。
陸歩は。
ちっ、と舌を打った。
「くそ。懐かしい」
今しがた出てきた扉。
それは樹の幹に成ったものでなく、建物……校舎の出入り口だ。
ヨジローと、シズと、三人だけで何年も通った学校。
振り返った彼は、たっぷりと見回して、大きく息を吸い込んで、ため息をついた。
「レドラムダのダンジョンでも、こんなことあったよな」
「はい、リクホ様」
イグナだけが同意を返した。
キアシアは、ピンと察する。
ここは陸歩の故郷。
群馬の端っこ。
無論、帰ってきたわけではないだろうが。
この場所、この空間を作ったのが、魔女だとするならば。
「行こう」
「行くって、どこへ」
首を傾げるアインに、陸歩はついてこい、と手振りで示す。
目をつぶってたって辿れる道だ。
「世界の中心へ、だよ」
若干の照れが生じ、オレにとってのだけどな、と小声で付け加えた。




