転:急 ≪抜刀≫
ぱっと、陸歩は視界に色が戻るのを感じる。
耳には音が押し寄せる。
止めていた呼吸を吸い込んだ途端、鈴剣が何倍も重くなった気がした。
「――は、」
剣のたった一振りに、全身の力が持っていかれた。
ぜぇぜぇと荒い息を繰り返す。
目眩すらも。
主の異変に気付いたイグナが、ただちに口元へ酸素供給を行った。
だが彼女の献身があっても、陸歩の肺はしばらく満足しない。
疲労で手足の筋肉が強張っている。
無限の体力を持っているはずの陸歩が、束の間、ガス欠を起こしていた。
こんなことは炎熱の異能を宿してから、初めてではなかろうか。
先の一閃には、それだけの集中が要った。
それだけ、極限を絞り出した斬撃。
「リクホ様」
「おう。――手応え、ありだ」
振り向きつつ、未熟ゆえに途切れさせてしまった残心を、いまさらながら取り繕う。
ザナムゥに張っていた水が潮のように引いていく。
背中を向けている羅刹。
そのままアインは、ゆっくりと膝をついた。
フランベルジュを地面へ突き立てたのは、杖として縋るためか。
どんな傷を与えても瞬時に回復していた戦の鬼が。
今、夥しい血を足元へ零している。
アインは咳き込み、赤を吐いた。
総身に衝撃が響く。びりびりと。斬られた余韻……ではない。
まだ斬撃が継続しているのだ。
彼の肉体の自然治癒能力は、術だのとは無縁の単なる身体機能ゆえ、今も正常に働いている。
なのに、傷が塞がらず、血も止まらないのは――今なお斬られているからだ。
まさにこの胸の上で、十字の剣閃が生きていて、真新しく刻み込んでくる。
「か、っはっ、」
認めなくてはいけない。
侮っていた。ジュンナイリクホという剣士を。
この一刀だけでも、並みの人間には生涯到達し得ない領域に違いない。
アインの背中の震えが大きくなる。
「はっ、は、っは、は、っはは……はははははあはははっ!」
血もそうだが、なにより笑いが溢れて止まらなかった。
瞼の裏に、いつもの光景が、いつもよりずっとくっきりと浮かぶ。
剣を志した者の、どこまでも続く地平。
そこに引かれた一本の線。――それは今、よくよく見れば大地に刻まれた刀傷であり、赤黒い肉と骨を晒していつまでも血液を流している。
そのこちら側。アイン自身の立つ側に、剣を携えて踏み込んできた、機甲鎧の剣士。循内陸歩。
彼と羅刹の間は、さらにもう一本、線が隔てている。
剣士の境界を描く線が、不思議なことにいつもと違い、今日は二本。十字になっているではないか。
その線を挟んで、陸歩と自分は切っ先を向け合っていて。
自分の背後に、塔が落ちてきた。
そして何かを訴えるように、軋む。
「――は、っは」
……アインは我に返った。
時間にすれば瞬きひとつにも満たない。だがその刹那に紛れもなく、彼は意識を飛ばし、夢を見ていた。
痛みと失血で、不覚にも朦朧とするなんて。
こんなことは故郷を出てから、初めてではなかろうか。
「……訂正させてくれるか、リクホ」
「なにを」
アインはフランベルジュを離し、篭手に刺さった次の鍵に指を掛けつつ、陸歩に背を向けたまま目を伏せた。
「俺は、見誤っていた。
お前のその剣は、辿り着き得る剣だ」
辿り着き得る剣。
どこへ、とは陸歩も問わない。
そのどこかを、剣士としての彼はおぼろげながら、すでに悟り始めている。
「……まだまだ、修行の途中だよ」
「そうか。
――じゃあ、もっと行こうぜ! 俺とぉ!」
これから鍵を引き抜いた。
掌へ、挿す。
「頂まで!」
響く開錠音。
アインの全身から白煙が上がる。
熱だ。
羅刹が今度、解放したのは、体力。
エネルギー、あるいはカロリーと言い換えてもいい。
その量は彼の代謝を爆発的に高め、体温を上昇させ、身体を濡らしていた水を一瞬で蒸発させた。
陸歩が絶技にて刻んだ刀傷も、埋まっていく。
さらに鍵をもう一本。
瞬間、アインの左右の腕だけが、スケールを間違えたかのように巨大化した。
もはや二の腕と肩の境が、きちんと連続しているかも怪しい。
それはすぐに、見間違いだったかのように元の自然に戻るが。
両腕から発散される重厚な気配は、さっきのが誤認でないと主張する。
今、解放されたのは、力。膂力。
さらに、鍵を、もう一本。
「――あれはっ」
陸歩は息をのむ。
頭上を覆うように、空に巨大な扉が現れた。
下を向いた扉が開かれ、ぬるりと落ちてくるものは、塔かと思われる。
それは、剣だ。
あまりにも長大かつ巨大な剣だ。
建造物と比肩するサイズの、剣。塔剣。
これこそがアインの雄剣。
雌剣であるフランベルジュを一旦鞘へ収めて腰に戻した彼は、背後へ轟音とともに突き立った塔剣の軋みを、はっきりと聞いた。
血に飢えた己が魔剣の高ぶりを。
そしてふと、思い出して。
「魔女高弟十六人衆が一人。
『塔剣』のアインヴァッフェ・イリュー」
名乗りを口に登らせた。
あ、と陸歩も。
応える。
「トレミダム海神流天海剣、門下。循内陸歩」
「わりぃな。本当は一番最初に交わすべき礼儀だった」
「いや。こちらこそ」
お互い、もはや気兼ねはない。
アインは陸歩への失望など、もはや一欠片も残してはおらず。
陸歩もアインに、撤回を迫ることはもう済んだ。
あとは互いに、死力あるのみ。
ここからが本番。
決闘の第二幕。
開演。




