転:破 ≪麗水≫
普段、生活の中に当たり前のように存在する、水。
しかし検めれば、これほど摩訶不思議な物質もない。
無色透明、無味無臭、
わずか零度~百度という温度の変化で個体・液体・気体に姿を変え、
衝撃に対して瞬間的に硬化し、
常に平らになる作用を持ち、
水素・酸素という可燃性・助燃性の化合物でありながら、火を消し止める。
省みれば、数々の神秘が込められている、水。
そしてこの世界においては、重大な性質が、もう一つ。
鍛冶屋が剣を打とうというとき、用いる鋼は、二つの観点から着目される。
剛性と柔性だ。
剛性――すなわち鋼の硬度の指標。
柔性――すなわち鋼の伸びやかさの指標。
前者が高いほど頑丈な刃となり、また剣士が込めた技に強く反応を示すが、翻って剣術を通伝させることは難しくなる。
後者が高いほどしなやかな刃となり、剣士は技を伝えやすくなる。反面、剣術が刃の中で定まるのが難しく、効果は薄くなってしまうのだ。
剣士の技量や実力に合わせて、これら剛柔を的確に配合するのが鍛冶屋の腕の見せ所であるが。
水はこの、剛性と柔性を併せ持った物質である。
剣術を伝えやすく、かつ技に強く反応を示す。
それと同時に、術を伝えづらく、かつ技の効果が薄くなる。
剣士の能力によっては至高の刃となり得ながらも、もっとも技を阻む障害ともなる存在。
今、陸歩の周囲を水が、紺碧と呼べる密度で逆巻く。
飛沫あげる、その一筋一筋が、刀剣の鋭さ。
水が湧く。
まるで、際限などないように。
赤錆の荒野から、海が滲みだすように。
ザナムゥ一帯を湖に変え、足を洗ってくる大量の水に、アインは目を眇めた。
イグナが持ち込んだよりも嵩が増えているのは、彼女がこの街の地下に水源を見つけ、主へモニターで示したからだ。
これら全てが今、陸歩の手中。
それら全てを、手懐けるだけの彼の技量。
「……まぁ、ちょっとしたもんだろうけどよ」
左手で顎を撫でつつ、アインが呟く。
渦を描き、徐々に流れの速くなっていく水が、彼の膝までを舐めていく。
しかし今のアインの重さは、その程度では揺らぐほどのこともない。
操る水量は一角のもの。
だがそこに通された陸歩の剣気は、さしたる大きさではなかった。
あの剣か――アインはそう当たりを付ける。
今や蒼に染まった鈴剣の刃。色濃く魔剣の匂いがする。流体操作を後押しする能力を持っていると見てほぼ間違いないだろう。
陸歩は混じり気なしの剣術で、これを起こしているわけではない。
アインは、水をバシャバシャと立てながら、陸歩へと歩んでいく。
なにやら必殺と思しき構えで、気と技を練っている、彼へ。
「もう一回言おうか。
お前に、その剣は、向いてねぇ」
別段、挑発の意図は無かった。ただの事実だ。
しかし陸歩は反応し激昂し、剣を乱すだろうな……という予想も、アインにはある。
「――――、」
陸歩は、聞こえなかったのだろうか。
すでに聞く耳を閉じたのだろうか。
聞くべきでないところを聞かぬこと、これもまた、剣術における聴勁である。
鈴剣の刃は澄み切り、逆巻く流水は完璧に束ねられ、細波さえ生じなくなっていく。
ぴんと、辺りの水面が張り詰め始めた。鏡のように。
へぇ、とアインは少し感心し、心中で陸歩への評価を一つ上げる。
そのときだった。
ぞくり、と冷たさがアインの足元から頭まで駆け巡った。
水に浸っていたから身体が冷えた、なんて悠長な理由ではない。
靴のすぐ傍を、居もしない魚が撫でていった……。
その姿なき魚の正体は、陸歩の剣気。
斬るという、純然たる、意志。
「……ははっ」
羅刹は嗤う。歓喜に。
「意地っ張りだなぁ、リクホぉ!」
向かぬ剣をそれでも極め、行きつくところまで行こうというのか。
そういう愚直は洒脱であり、子どもっぽくもあり、格好いい。
そんな剣士が、難敵が、アインは、あぁ、愛おしい。
斬ってしまいたくて仕方がない。
羅刹が躍りかかる。
未だ構えのまま、微動だにしない陸歩へ。
さぁどんな抵抗を見せてくれるのか。
その向かない剣で、どこまで辿り着いて魅せてくれるのか。
「しゃあぁああぁっ!」
振り下ろす波型の刃、フランベルジュ。
それを、受け止めるのは、透明の太刀。
アインは眉をひそめた。
陸歩は相変わらず、構えたままだ。何も見えていないかのように、何も聞こえていないかのように。もはや構えていることが全てであるかのように。
そんな彼を守護するのは、水面から立ち上がった、水のヒトガタ。
携えるのは水を寄り合わせて形作られた、竿のように長い太刀。
奇妙なことに、そのヒトガタは女であり、首から上が鮫である。
確か、そんな亜人がいたなとアインは思うものが。
「まぁたぞろ木偶なんか出しやがって、どうしようってんだよ……」
嘆息、
、は途中で寸断された。
燕の軌跡で翻る太刀。
思わず回避を取っている自身に、アインは驚き、目を剥く。
全身の肌を粟立たせている、自分に。
アインの剣士としての本能が叫んでいる。
あれは、受けてはいけない剣だ。
鮫女の太刀は。
斬られれば、肉より骨より、さらに致命的なところまで届く剣だ。
ヒトガタが迫る。
流麗なる剣技、圧倒的な剣術で。
上段から振り下ろされていたはずの太刀が、目を離していないはずなのにいつの間にか下段から逆袈裟に斬り上げられていて、気づけば突きに変化し、さらに小手へと軌道を変えた。
なんて柔軟。
なんて多彩。
アインはそれらを紙一重で捌きつつ、犬のように息を荒くする。
これは、陸歩の剣気の具現か。
そしてそれがヒトの形をしているということは。
この鮫女こそ、彼の強さのイメージそのもの。
「はっははは! なんだよリクホ! 頭ん中にえらいもん飼ってんじゃねぇの!」
防戦一方はアインの性でない。
見舞う反撃。
それらを、鮫女はすんなりと受け流してしまう。
水を斬っているかのような手応えだ。
「おぉぉりゃああぁ!」
口元に喜悦を張りつけながら、羅刹はフランベルジュで水面を叩いた。
高く吹き上がる水柱。
辺りへ大粒の雫が雨さながらに降りしきり、白く煙る。
その中で。
鮫女は、構えを取っていた。
剣握る右手を、顔のすぐ左へ。切っ先で真っ直ぐアインを指す。左手は柄尻を包むように。
それは、陸歩と鏡合わせに同じ構え。
「「――――」」
鮫女が動いた。
陸歩も、ついに。
左右から交差する、至高に輝く剣閃。
アインは歓喜のまま、フランベルジュでそれを受け止めようとした。
そのときには既に、斬られている。
「は?
――あ、は、っは、はっ」
自らの胴に、深く大きく刻まれた十文字。
百戦錬磨を自負する羅刹をして、反応すら出来なかった絶技。
「はっはっははははははっ!」
血を吐き零しながら、アインは嗤った。
その膝を、がっくりと折りながら。




