承:破 ≪柔肌≫
全身を洗い清めたリンリャは、作法通りに最後に水で頭から流した。
髪の水気を掌で切ってから、風呂を出る。
熱っぽい吐息が漏れる。
胸の内にはずっと、緊張があった。
毎年のことなのに、今年で、えぇと、もう九回目か。
脱衣所で、タオルで身体を全て拭き取ってから、彼女は廊下をうかがった。
あるのはぼんやりとした明かりだけで、他人の気配はまるでしない。
祈祷に出ている祖母は元より、お客二人もまだ祭りから帰っていないようだ。
それで、いいやという気になってしまった。
申しわけ程度にタオルを巻いただけの姿で、リンリャは私室へと戻る。
あらかじめ用意しておいた衣装を検めて、
「あれ?」
一番大事な装身具がない。
どこへやったっけ。きちんと月明りに当てながら磨いたはず……。
思い出した。
「そっか。客間の、押し入れに戻したんだっけ」
陸歩とイグナが泊まって、すっかり出すのを忘れていた。
「…………、」
お客二人はまだ帰っていない。
それで、いいやという気になってしまった。
こっそり取らせてもらおう。
時間もそろそろ差し迫っているし、彼らの荷物に触れないよう気を付ければ、大丈夫だろう。
そう思い、リンリャは客間へ向かった。
今度は本当に、タオルもなしの、完全な裸で。
だってこれから着替えるのだし。
客間はきれいに片付いていた。
陸歩たちは旅慣れているのか荷物が少なく、また丁寧に畳んで積まれた布団二組が育ちの良さをにじませる。
あの人たちは、何者なのだろう――リンリャはぼんやりと考えた。
布教のために大陸を股にかけているが、神官ではないという。
実際彼らの振る舞いからは、宗教の匂いはしなかったし。
リクホさんは、魔人のように力持ち。
イグナさんは、賢者のように物知り。
「あった」
お目当ての箱はすぐに見つかった。
装身具はまとめればそれなりの重量で、リンリャはムンと力を込めて引っ張り出そうとする。
そのとき足音が聞こえた。
話す声が聞こえた。
笑い合うのが聴こえた。
「……、……いやぁ、傑作だったな……」
「……堪能しました……、……」
リンリャはひとたまりもなく狼狽したとも。
今の自分の格好。
これは乙女の危機であり、すなわち命の危機と同じだ。
「うそっ、やだ、えっ、どうしよ、」
どうするほどの間もない。
陸歩たちの気配はどんどん近づいていて、今や襖を挟んですぐ向こうだ。
「あの! リクホさんイグナさん待って!」
「あれ、リンリャいる、の……」
遅かった。
襖は開け放たれ、ご対面と相成った青年と裸の少女。
互いにあわあわと赤面し、二人ともが次の大声のための息継ぎを取る。
「やっ、きゃぁああああああああああっ!」
「ごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめんごめん!」
残像すら描く速度で背を向けた陸歩は、廊下の端まで下がって土下座の姿勢だ。
事故とはいえ、嫁入り前の娘の上と言わず下と言わずを見てしまった以上、目を床で隠しておかなければ恐れ多い。
リンリャのほうも超人に比肩する速さだった。
ただこちらは逃げ場がないもので、自ら身体を抱いてしゃがみ込むのが関の山。
イグナだけが変わらず平静で、思考の間を繋ぐように、ゆっくりと瞬きをした。
そして、ことりと首を傾げる。
「リンリャさん。何をなさっているのです。裸で」
「お、押し入れに、用があって……お祭りに使う道具を、取らせてもらおうと……ううう……」
「はぁ。せめて下着を身につけるか、何か羽織られるべきかと思いますが」
「返す言葉もありません……」
「我々のような部外者を泊めている最中に、不用心では」
「おっしゃる通りです……」
この特殊な状況で、どう行動したものか。イグナは指示を求めて陸歩を見やった。
しかし彼は未だに額を床に擦りつけたまま、念仏のように「ごめんなさいごめんなさい」と繰り返している。
その、比喩ではなしに赤々と燃えている耳を認めて、イグナは問うのを諦めた。
「とりあえず、襖を閉めます」
「あぁ……イグナさん、ありがとう」
「リクホ様、もう大丈夫ですよ」
「いい! オレここでこのままでいいから! リンリャ本当にごめん!」
「――と、申されております」
「こちらこそ、すみません。お見苦しいところを」
「――と、申されております」
「いえいえいえ! お見苦しいなどと! 大変結構なお手前で!」
「――と、申されて……リクホ様? 何をおっしゃっているのです?」
陸歩の、こちら以上の慌てぶりにか。イグナの、珍しく怪訝な様子にか。
何か吹き出してしまったリンリャは、ふと気付いた。
さっきまでずっと胸の内に重くあった緊張が、どこかへ去っていることに。
襖を半開きにして、リンリャはハの字眉でイグナへと乞う。
「イグナさん。申しわけないんですけど、私の部屋から服を取って来てもらえませんか? お祭りの衣装と化粧道具が、籠にまとめてあるんです」
「かしこまりました」
「お願いしますね」
しずしずと廊下を渡っていくイグナを見送ってから、リンリャは先に出来る身支度を始める。
そうしながら、今度は陸歩へと声を掛けた。
「リクホさん?」
「はいっ! なんでしょうかっ!」
「もう。大丈夫ですから。まだ土下座してます? 止めてくださいね。――お祭り、どうでしたか?」
恐る恐るで顔を上げた陸歩は、客間から明かりが廊下に漏れていることにびくりとし、けれども少女の眩しい肌は視界にないことに安堵して息をついた。
「あぁ。とりあえず一回りしたんで、一度帰って来たんだけど……。へへっ、そうだ。ドゥノーの鍵、取ったぜ」
「っ、本当ですか!?」
「おうともさ! 雲の上の世界は、とっても綺麗だったよ」
イグナが戻って来た。
行きと全く変わらない、淑やかな足取り。
その手には籠。
「取って参りました」
「ありがとうございます。あ、ごめんなさいイグナさん。持って入ってもらえますか? 今もう私、立てないので」
「はぁ。構いませんが。失礼いたします」
イグナは大きめの籠を器用に片手に持ち直し、襖を開いて。
そこで目の当たりにした光景に、絶句し立ち尽くす。
「……リンリャさん」
名を呼ばれた少女は、畳の上に座したまま、静かに微笑した。
「ありがとうございます。ごめんなさい、こんな格好で。衣装、置いてもらえますか」
「…………、」
言われるがままに籠を渡すが、イグナは今度こそ判断に混乱する。
主を呼ぶべきか、でも。
陸歩もまた、漏れ伝わってくる只ならぬ様子に、徐々に五感を尖らせているところだ。
そんな二人へ、リンリャは、唄うように問うた。
「リクホさん。イグナさん。ドゥノーは、いかがですか」
硬直を解いたイグナと、陸歩はそれぞれ思案の間を挟んでから、答える。
「お祭りは、この上のないものでした。暮らしている方々も活気に溢れております」
「いい街だと思うよ。豊かだし、みんな気さくだし。オレたちみたいな余所者にも、故郷みたいに、あったかい」
リンリャから、安堵の息遣いが聞こえた。
「そう……。なら、よかった」
衣装も化粧も、身支度を全て済ませたリンリャは、不備がないかを入念に確かめる。
それに満足すると、イグナの両手を感謝と親愛を込めて握ってから、客間を出た。
「この街が、千年続きますように」
再び目にしたリンリャの姿。
それは陸歩には、ある意味、裸よりももっとずっと衝撃である。
白無垢に似た衣装。
鋼の飾りがいくつも付けられた艶髪。
化粧が施され、別人のように大人びた彼女。
そんなもので驚きはしない。
手だ。
足だ。
ゆったりと大きく膨らんだ袖や裾からわずかに露出する彼女の四肢は。
金属だ。
金属。
カラクリ。
カラクリの、義肢。
部屋の中、イグナは隅に片付けられた、さっきまでリンリャの手足だったモノを、じっと見つめる。
そちらもやはりカラクリで、けれどもまるで、生娘から切り出したかのように本物さながら。
あまりにリアルで、グロテスクで、瑞々しい、義肢だった。
「リンリャ、それ……っ」
少女は困ったような、恥ずかしがるような、そんな微笑みを浮かべる。
「出番です。行ってきますね」




