起:序 ≪出陣≫
二人きりの道場で、マチルダと陸歩が正座で向き合ったまま、微動だにしない。
一言もなかった。
が、互いの目の色を読み合うそれは、確かに会話である。
剣術における精神修養の一環だ。
一角の剣士ならば、座して集中を発揮するだけでも、それは十分に剣気となるもの。
これは剣気を交流させる修行。
今、マチルダの頭には戦闘のイメージがある。
陸歩にもだ。
もしこの場で剣を持っていたら……という空想。
当然、言葉で示し合わせているわけでもないのだから、各々が思考に別な展開を描いている。
だがそれは、どうしたことだろう、いつしか共通の流れへと合わさっていくのだ。
陸歩は自分の中で、師匠の存在が、よりリアルを帯びるのを感じた。
脳裏に浮かべるのは、喉のすぐ傍を擦過していった師匠の剣の切っ先。
――その剣を、目の前の師匠も思い描いている。
ならば自分は、返し刃で胴を払う。
――師匠が伏せて躱した。
――と、師匠は考えた。
自分が考えているものを、師匠も共有している。
その事実を、見つめ合う目で確信した陸歩は、驚愕に眉を上げ、興奮に吐息を漏らした。
師匠は微笑んでいる。
斬る。
突く。
受ける。
逸らす。
潜る。
躱す。
斬る。
斬る。
「――――はぁっ」
実際に剣を取っているのと、何ら変わらない疑似戦闘。
陸歩は汗を滴らせ、荒い息を零す。
師匠の剣は加速し続けていた。
見切るのが精いっぱい。凌ぐのがこんなに難しいなんて。
右から左から、変幻自在に繰り出される刃に陸歩は、受けるたびに後退を強いられる。
強いられ、強いられ、強いられ、ついに。
背中が、道場の、壁に。
「ぐっ――」
弾き上げられる鈴剣。
ダメだ、もう、手が無い。構えは崩れ、防御に戻すのは間に合わない。
今度こそ喉笛を、師匠の剣が撫で――
「――おい、未熟者」
陸歩はそこで我に返った。
目の前には師匠があって、弟子が膝の上で真っ白になるほど固く結んだ拳に、手を乗せている。
「はっ。……はっ、はっ……は、」
「落ち着け。私はお前が今思ったほど、強くないぞ。
本当に闘って確かめてみるか? ん?」
「…………ぁ、」
「相手を過大に評価するんじゃない。自分の中で勝手に巨大にするな。
それは恐怖を生み、踏み込みを半歩浅くする。その半歩が、また次の怖気を誘うのだ」
「はい……はいっ」
「だからって小っちゃくもするんじゃないぞ。その半歩を前のめりになれって言ってるんじゃないからな」
「はいっ!」
「いい返事だ」
そのとき、道場の扉を開ける者があった。
イグナだ。
彼女は稽古に水を差すことを謝罪するように、または神聖な道場を敬うように、深く頭を下げてから告げる。
「リクホ様。お時間です」
⇔
「それじゃあ、師匠、行ってきます」
扉の樹の前。出発しようという陸歩は軽装だ。
旅の荷物は全部、師匠の家の客間に置いたまま。
鈴剣だけを携えて、隣にイグナを従えて、それで全て。
腕を組んだ師匠は平然としているものの、その態度は明らかに取り繕ったものであり、端々から老婆心が漏れている。
「油断するんじゃないぞ」
「はい。絶対に」
これから彼は、ザナムゥへ、決闘に赴くのだ。
アインヴァッフェ・イリューと取り決めた日が今日であり、その場所が赤錆の決闘場である。
師匠とともに見送りに来たキアシアは――そう、彼女はトレミダムに居残りだ――口を真一に結んでいる。明らかに不機嫌。
無理はなかった。置いてけぼりが面白いはずがない。
だとしても。
レドラムダ大陸首都リンギンガウで、目の当たりにしたアインヴァッフェの実力、その片鱗。
あのとき、陸歩は軽くあしらわれ、遊ばれるのみだった。
とてもじゃないが、誰かを庇いながらでは相手は出来ない。
そのことをキアシアも重々承知していて、だから子どものように駄々をこねることはなかった。
だが、置いていくのだったら、迎えに来てもらわなければ困る。
ずいと進み出た彼女は、陸歩の、イグナのも、手を取って、そのことを語気強く言う。
「絶対、絶対帰ってきなさいよっ」
「分かってる」
「はい、必ず」
「死んじゃったらおしまいなんだからね! 生きてさえいれば何とかなるもんなの! あたしがそうだった!」
陸歩は苦笑する。
必ず勝って帰ってくるから……そう断言できないのが、今の自分の実力。
じゃあ、恥とか外聞とか言ってないで、せめて「必ず帰ってくる」の部分だけでも、約束するのが仲間への誠意か。
「うん。背中に逃げ傷作ってでも、絶対帰ってくるから」
「…………待ってるからね。
イグナ! いざとなったら、リクホのこと、しょっ引いてでもっ!」
「はい。セカンドユーザーであるキアシアさんのオーダー、承りました」
惜しむように、何度も手を握ってから、キアシアはようやく離れた。
ユノハはいない。昨晩に出かけて行って、それっきりだ。
奴は最近、めっきりと個人行動が増えた。
この二週間も、陸歩が修行をしている間に、鍵を用いてあちこちの大陸を渡り歩いている様子だったが。
さて、何を考えているのやら。
案外遊び回っているだけかもしれないが。
陸歩は息を吐く。
気を引き締め直した。
扉に向き直り、ザナムゥの鍵を篭手から取り出し、ノブに挿す。
「イグナ。行くぜ」
「はい、リクホ様。
貴方とならば、どんな死地へでも」
扉を開き、通った。
――鍵を間違えたかと思った。




