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承:序 ≪祝祭≫

 夜。

 笛の音が風さながらに(ひょう)々と鳴り、太鼓が遠雷(えんらい)のごとく(とどろ)く。


 それより豊かに響き合うのは、人々の笑い声。


 立ち並ぶ出店は食欲をそそる芳香(ほうこう)()()く。

 道のあちらこちらでは、芸人たちが(わざ)を競っていた。


 吊るされた提燈(ちょうちん)の灯りは、あるものは青であり、あるものは赤であり。

 また緑であったり、そして黄色でもあり。

 ごった返す人々は色とりどりに照らされて、青い顔を、赤い顔を、また緑や黄色の顔を、一様にほころばせていた。


 祭りの夜である。


 ほらここにも、ひときわ()々としている青年と、寄り添う乙女が一人。


「なぁーっはっはっはっはっはっ!!」


 陸歩、ご満悦である。

 左の肩から下げた(かご)は、世界樹の巨大な葉を複雑に編み上げたもの。軽く、丈夫で、数年を通して長持ちする、この街の民芸品だ。

 そこへ、これでもかと盛られたのは出店・屋台の菓子や軽食の包み。

 今も陸歩はその中から羊肉の串を一本取り、実にワイルドに噛み千切った。


「サイッコーだな! なぁイグナ!」


「はい。サイッコーです。ワタシに設定された『最高』の定義域を、さらに超えています」


 イグナもご満悦だ。

 両手に焼きモロコシを二刀流。口元にはソースを付けた、まさに夜祭りのお約束ともいうべき姿。

 彼女の完璧なAIのどこに、はてさて、そんなお茶目が入り込む隙があったのか。


 陸歩はイグナの口元を親指でぬぐい、それを舐め取ってから、はしゃいだ声をまた発した。


「次はどうするっ? どうしよっか!」


 当座の宿の心配がなくなった二人は、有り金を全て散財してしまう腹なのだ。


 出店の数は限りない。

 名物の羊肉の串焼きは、各々独自の味付けで(のき)を連ねている。

 その他にも、わたあめ、リンゴ飴、粉物(こなもの)は丸めたものや平たいもの、(もち)菓子、汁物には甘いのも辛いのもある。

 内陸地であるが仕入れ先があるのか、海産物も意外に豊富で、魚の串、貝類、(かに)海老(えび)

 遊びの店も散見し、くじ引きや的当てを筆頭に、輪投げ、射的、腕相撲に型抜き……。


 イグナは一つを指さした。


「味の濃いものが続きましたので、一度飲み物はいかがでしょう」


「よっしゃ採用! ――おばちゃん、二杯くださいな!」


「あいよ。お(わん)は返しとくれな」


 硬貨数枚と交換で受け取った、朱塗(しゅぬ)りで大振りの木椀を、陸歩とイグナは互いに触れ合わせる。乾杯。


「いっただっきまーっす!」

「いただきます」


 一気に(あお)り……途端に陸歩は吹き出した。


「っんぶっ!」


 ゲホゲホとしきりにむせるが、その間にも舌を(あぶ)るような刺激、喉の奥へ(ただよ)ってくる熱。

 これは間違いなく、酒気(しゅき)


「アルコールじゃん!」


「そりゃアルコールだよ。うちは酒屋だもの」


 なんだ勘違いで買ったのか、と女将(おかみ)は呆れたが、イグナを見ては瞠目(どうもく)する。

 両手で行儀よく椀を持った少女は、だいぶ度数の高い酒だというのに、一切休まず(かたむ)(つづ)け、ついには飲み干してみせたのだ。


「おやお嬢ちゃん! (いき)だねぇ、いい飲みっぷりだよ」


「恐縮です。一気飲みは推奨されないと理解していたのですが、これほどの美酒では止まりませんでした」


「嬉しいこと言ってくれるじゃないか。ほら兄さんも、ぐっと。ほら」


「いやぁオレ、酒は飲めないんで……年齢的にも。イグナ、飲む?」


「いただきます」


 陸歩の分を、イグナはまたグッパグッパ。

 (たたず)むだけで人目を引く美少女が、こうして往来(おうらい)気風(きっぷ)(さら)せば、少なくない人数が足を止めて見入る。


 またしても一気。

 見守る観衆から軽いどよめきと、まばらな拍手があった。

 椀を店へ返却し、口元をハンカチで拭ったイグナは、衆人へとぺこりと一礼。


 それから陸歩へ、何かを言いかけ、やはり閉口する。でもまた何かを言いかけて。

 彼女にしては大変珍しいことに、逡巡(しゅんじゅん)の様子を見せていた。


「あの……リクホ様」


「ん? どうした?」


「お願いが、あるのですが」


 これまた珍しい。

 イグナが物をねだるなんて、過去にあっただろうか。

 

「あの。もう一杯だけ、おかわりを……」


 あんまり彼女が愛らしくて、陸歩はニッコリと笑った。


「おばちゃん、(かめ)ごとって売ってもらえる?」


 再び人ごみのただ中へ戻った二人は、先ほどまでよりも少しゆっくりと歩む。


 陸歩の籠には手近な店で買った、食べ物以外が増えていた。夜光する花や、(たこ)独楽(こま)に、木剣。

 首から下げた金属製の円盤は厄払いのお守りである。表面に精緻な掘り込みがしてあって、(ひも)を手に持って振り回せば、風を切って()んだ音色がするという。


 イグナの方はさっきの酒瓶を我が子のように抱えてる。

 屋号(やごう)は聞いてきたから、またいつでも買いに行ける。だから遠慮するなと陸歩は言ったのだが、彼女は大事に飲むのだと首を横に振った。

 頭には猫のお面が(はす)に掛けられていて、これはさっき行きがかりに陸歩が選んだものだ。


 飾りつけのされた階段を登る。


 ここは二十三階だったか、それとも三十二階だっけ。

 今の世界樹は上から下までくまなく祭りで、自分の居場所さえ祭りの中だということ以外、判然としなくなってきた。


「なんだか、懐かしいよ」


 歩きながら、陸歩はぽつりと呟いた。


「地元の縁日も、ちょうどこんな感じだった。

 いやこれよりは、ずっと小っちゃかったけど。

 やっぱり(くし)食べて、綿菓子(わたがし)食べて、楽しかったんだ」


「確かに、このお祭りのスタイルは、日本のものと類似点が多数見られます」


 イグナの返事はあまり予想しなかったもので、陸歩は目をぱちくりとする。


「日本の祭り、知ってるんだ?」


「データベースに資料画像がありますので。無論、体験したことはなく、実際のお祭りもこれが初めてですが」


「そっか。どうだ、実際のは」


 こくりと、イグナは頷く。


「楽しいです。とても」


「そっか」


 陸歩は満足そうに破顔(はがん)し、それから目を雑踏へ向けた。


 その双眸(そうぼう)は人々を見ているようで、実はもっとずっと遠くを見ていて。

 または()りし日を、もしくは未だ在らざる日々を、見つめている風でもあって。


「……いつか、元の世界の縁日にも、イグナを連れて行きたいな」


「リクホ様……」


 ふと自分がらしくないことに気付いた陸歩は、はにかむように、誤魔化(ごまか)すように、ニィと歯を()()しにする。


「そんときゃ、きちんとおめかししてさ。イグナはきっと浴衣(ゆかた)が似合うだろうし。オレ好きなんだよね、浴衣女子」


 頷くイグナは大まじめだ。


「リクホ様は浴衣女子がお好き――重要情報項に記録しました」


「いや、せんでいい、せんで」


 また一つ上の階へ出た。


 そこで二人は、祭りの喧騒(けんそう)の中にあって、ことさらに(にぎ)わう人の群れと出会う。


「さぁ! そろそろいい時間かな! 今回の挑戦者はどこまで辿り着いているのかな!」


 すいぶん派手な黄色い法被(はっぴ)を着た男たちが場を仕切っているらしく、特に髪をドレッドにした一人が観客へ声を張っていた。

 

 陸歩は「なんだろうな?」とイグナへ(ささや)くが、彼女も肩をすくめるばかり。


 皆が見上げているのは星空だ。この階層は、半分近く外壁がない。

 それは人の手で穿(うが)ったのではなく、天然で樹に生じた(うろ)なのだろう。

 まるで(くじら)口腔(こうこう)のように大きく開け、外の景色を、そして空を、存分に(のぞ)むことが出来た。


 陸歩とイグナも一群に混じり、様子をうかがった。

 と、目の当たりにしたのは虚穴(うろあな)の外、()()めるように無数に浮かんだ、巨大なシャボン玉たちだ。

 キラキラと七色に輝くそれらの球は、いつまでも割れることなく、その場に滞留している。


 ちょうどそこへ、悲鳴を上げながら男が落ちて来た。

 男がだ。

 あわやと思うが、シャボン玉はなお割れることなく、しっかりと受け止める。

 どころか男をドプンと中に取り込んで、それでも中空に留まり続けていた。


 法被(はっぴ)の男たちがそのシャボン玉を長い(あみ)で引き寄せて、魔具らしきナイフで突くとようやく破裂して、中の男性は地面に尻餅(しりもち)をつくと首を左右に振っている。


「あーっと残念! こちらの旦那も失敗だぁ! 意識はある? 呼吸は? 脈は平気? 念のために医者に診てもらってね!」


 ドレッドに(うなが)されるまま、法被二人が男の肩を支えて、すぐ(そば)のテントへ連れて行った。簡易診療所なのだろう。


「さぁ次の挑戦者は誰だ! ドゥノー名物『頂上制覇(ちょうじょうせいは)(ぎょう)』だよ!

 天辺(てっぺん)から見事『扉の鍵』を持ち帰ることが出来れば勇者として、百年は語り継がれることだろう!

 御覧(ごらん)の通り魔法で泡を張ったから、落っこちても大丈夫!」


 踊り子衣装に法被(はっぴ)羽織(はお)った女たちが数人、妖艶(ようえん)にキセルへ息を吹き込んだ。

 するとシャボン玉が新たに飛び、客の頭上でスペクトルを描く。


 (あご)に手を当てた陸歩は、面白がるように、ほぅと息をついた。


「あれってあれか。リンリャの言ってたやつか」


「そのようですね。興業(こうぎょう)になっていますが」


 その間にもドレッドは次の獲物を探していて、卓をしきりに指差している。


「後ろのお客さんも、あそこに積まれた金の山が見えるかい! 参加費はあそこへ置いてくれ! 鍵を持ち帰ればあの金、丸ごと総取りだ! 名誉と財産が同時に手に入るって寸法(すんぽう)だぜ!

 ほら旦那、どうだいやらないかい! ダメ? じゃあそっちのアンタは? えぇ、男を見せてくれよ!

 なぁ誰かいないのかいっ!?」


「はいはい! オレオレ! オレやるよ!」


 手を上げて、ぴょんぴょん飛び跳ねているのは、誰あろう陸歩だ。

 次なる無謀者(むぼうもの)に観客たちは一斉に注目し、ドレッドは明らかに戸惑(とまど)いを浮かべている。


「えーっと……君が?」


「あぁ! はい、参加料」


 イグナへ荷物と、左手から脱いだ篭手(こて)を預けた彼は、金貨を突き出す。

 が、ドレッドは曖昧(あいまい)な顔のまま受け取らない。


「君、ちょっと待って、ねぇ君。無茶だよ。今までの挑戦者、見てない?」


 何を言いたいかはだいたい分かった。

 少なくともさっき落ちて来た男は筋骨隆々のたくましい身体をしていて、きっとその前の誰もがそれと似たような風体だったのだろう。


 確かに比べれば、陸歩の体躯(たいく)はスラリとしていて(はば)が足りない。

 だがそんなこと彼はちっとも気にしていなかったし、自信もあった。


「大丈夫、オレ、木登り得意だから」


 ストレッチを始める陸歩だが、ドレッドの方はそれでは済まない。


「いやいやいや! だから無理だって! まぁ多少は鍛えてるみたいだけどさぁ。いくらなんでも、君みたいな……細枝(ほそえだ)じゃ」


 最後には明らかな失笑が混じっている。

 野次馬からも忍び笑いが(かす)かにこぼれた。


 イグナの表情は変わらず、ただし(まと)う雰囲気だけが零度(れいど)に。

 陸歩の腹の底は反対に、一気に太陽の温度まで沸騰(ふっとう)だ。


「……カッチーンときた」


 硬貨を引っ込めた陸歩。(あきら)めたかと周囲が思うのも束の間。

 彼は財布ごとを集金の卓へと放った。

 金の山がジャラリと鳴り、ドレッドは怪訝(けげん)に顔をしかめる。


「これは?」


「どうせ全額(いただ)くんだから、全財産()んだって同じだろ。オレが登って戻ってくるまで、ちょっと置いとけや」


 この大見栄(おおみえ)にはギャラリーもどよめいた。

 単純なもので、やんややんやと陸歩へ声援を送る者が出始め、ドレッドは頬を引きつらせている。


 いくらか気分をよくした陸歩は、さらに(ふところ)を探った。


「ほれ、まだポッケにも小銭があったわ。これも……」


 陸歩はそこで思いつき、右を見て左を見て、これと決めた出店へ走る。

 (あめ)屋だ。

 そして羊の形をした棒付きの飴細工を買って、イグナの元へ。


「イグナ、退屈しないようにこれ舐めてなよ。大丈夫、なくなる前には鍵取って戻ってくるから」


 周囲がまたどよめく。

 受け取った彼女は、まじまじと羊を見ていたかと思えば。


「失礼いたします」


「んむ?」


 やおら飴を、陸歩の唇へ押し当てた。

 そして自らの口元へやると、ちろちろと舐め始める。


「より愉しむ、おまじないです」


 周囲から口笛。

 陸歩は思わず苦笑だ。


「そういうの、どこで覚えるのさ」


 さて、と彼は表情を改めて、外への割れ目へと挑む。

 下を(のぞ)けば大地は(はる)彼方(かなた)

 上を見ても、やはり果てがないよう思われた。

 枝ぶりはまばらで、幹のところどころに(くさび)が打ち込んであるものの、ほとんどの箇所では木肌の凹凸(おうとつ)(とら)えて行かなくてはなるまい。

 木登りというよりも、(がけ)登りといった(おもむき)だ。


「んじゃ、行ってくる」


 そんな荒行へ、陸歩は何の戸惑いも躊躇(ちゅうちょ)も見せず、あっさりと踏み出していった。


 ……。

 …………。

 ………………。


 この世界へ来てから陸歩はこれまで、何度か極限を試したことがある。

 超人と化した自身の限界を確かめるためだ。


 どれだけ深い海に潜れるか。

 どれだけ長く走っていられるか。

 どれだけ重いものを持てるか。

 どれだけの衝撃に耐えられるか。


「はっ……は、……はっ……はっ……、」


 どれだけ高く、は初めてだ。


 つい考えてしまうのだが、ここから地面まで落ちたら、さすがに死ぬのだろうか。

 それともこの身体は、打ち身や打撲(だぼく)程度で済んでしまうのだろうか。

 陸歩は今のところ、どうしたって骨折すらしたことがないのだ。

 危険な好奇心が、鎌首をもたげる……。


「はっ……はっ……はっ……はっ……」


 陸歩の登攀(とうはん)速度は驚異的だった。

 手も足も、ただの一瞬も(よど)むことがなく、より上を(つか)んで、またより上を掴んで、彼の身体を運んでいく。

 ヤモリが(ごと)くぴったりと壁面にくっ付いて、時たま突風になぶられても()らがない。


 きっと高度と寒さに耐えるためだろうが、世界樹の外皮は固くてゴツゴツとしているため、思ったよりもずっと掴みやすい。

 (まれ)に、()()した樹液が凍結した部分があって、これがとても滑るから、注意が必要だった。


「はっ……はっ……はっ……はっ……さむい……」


 空気はいよいよ冷たい。

 さしもの陸歩でもかじかみ始めていた。

 (だん)を取ろうと、多少服が焦げるのも覚悟で背中や二の腕から発火してみるが。


 火の()きが悪い。

 もうだいぶ、酸素が薄いのだ。


 どう考えたって、常人が至れる領域を超えている。


「そもそも……達成できない難題で……金取ってんのかよっ、と……」


 余計にクリアのし甲斐(がい)がある、と陸歩は獰猛(どうもう)な笑みを浮かべた。


 突然、風に運ばれてきた雲に巻かれた。


「っ! っ! 白っ! なんも見えねぇ!」


 幹にしがみついて雲が切れるのを待ってみるが、そう都合よくはいかない。


 仕方ない。

 陸歩は極光の翼を広げる。

 ここでならば、どんな誰の目もあるまい。


 翼から、頭上のリングから、多きを(めっ)する波動が放たれる。

 雲は弾けるように晴れた。


「ん?」


 ……今、気のせいだろうか。世界樹が揺れたような。地震?


 だが陸歩の意識はすぐに、別へと取られる。

 星空に気付いたのだ。


「あぁ……」


 (またた)く星が、すぐ手の届きそうなところにある。

 黒というより濃紺(のうこん)の空は、それ自体が薄く発光しているようで、不思議とはっきり見えた。

 月はあんまり大きく赤く、眺めていると寒さとは別の震えが総身へ走った。

 文学を気取るつもりはなく、本当に夜と風とが(こす)()う音が聴こえる。


「しまったな……イグナにも、見せてやりたかった」


 イグナ。


 陸歩はまた登る。

 イグナ。もうどれくらい飴を舐めてしまったか。始めてから何分が経ったか。


「はっ……はっ……はっ……はっ……」


 彼の手の動きは、足は、ここに至っても一定のリズムを保っていた。


 こうしていると、だんだん分からなくなっていく。

 リズムが主体になっていく。

 

 自分とは何か。

 この思考は何か。

 存在とはこのリズムに貼りついた、ほんのノイズではないのか。

 

 意識が見失われ始め、自己が希薄(きはく)になり、肉体は本能に任せて駆動するままになっていく。


「――っわっぷ!」


 そんなまどろみにも似た物思いは、(しげ)みに顔を突っ込んだことで寸断された。

 陸歩は鼻を押さえて、自分を突いた、枝にしては硬質なものに目をやる。

 正体は鍵だ。


「鍵だ……」


 ということは。


「あ、着いた。天辺だ!」


 ほんのすぐそこに、世界樹の突端(とったん)があった。


 あとはもう無我夢中だ。

 陸歩は勢いよく(やぶ)に突入し、身体や服が枝葉で引っかかれるのも構わず、登頂を目指す。


 抜けた。


 世界樹の頂上。


 この大陸に、これより高い場所はない。

 空が近い、のではない、こここそが空の中。

 深海のように濃密な空へ、陸歩は手を伸ばしてみる。


 息をつく。

 何度呼吸を繰り返しても、肺は満足しなかった。

 空気圧と重力がおかしな作用をしているのか、脱力していると腕が独りでに肩の高さまで持ち上がってくる。


 もう一度息をつく。

 そして(しげ)りに茂ったおびただしい鍵たちのうち、気に入る一本に手を掛けた。


「そういや、取るときに願い事をすると、叶うんだっけか」


 この地点は、文字通りの最高。

 ここより上は神の住まう領域であり、なるほど、悲願を()()うのであれば、これほど相応(ふさわ)しい場所もない。


 陸歩は目を伏せた。

 そして祈る。

 (いま)端緒(たんしょ)すら得られぬ探し物。そして未だ算段もつかぬ帰り道。

 どうかどうか、これらを手にする日が、来ますように。


 目を開き、勢いよく鍵をもいだ。


「……さて。戻らなきゃな」


 行きはよいよい?

 いやいや、帰りのほうがよっぽど楽だ。

 覚悟さえ決まっているのなら、ぴょんと飛び降りてやるだけでいい。


「やぁーっ、はあぁーっ!」


 空中に身を躍らせるなんて、他ではちょっと体験できない娯楽だ。

 あまりの爽快感に歓声を上げる。


 耳元で唸る風切(かざき)(おん)は刃のよう。

 陸歩は手足を広げて減速したり、逆に身体を細くして加速したり、束の間の落下を存分に楽しんだ。


 数十秒で復路は終わりを迎え、陸歩は例のシャボン玉へ、姿勢を直して足から突っ込む。

 受け止めた魔法の泡が、殺しきれなかった慣性でゆっくり下降する。

 彼は右の人差し指だけを赤熱させ、都合のいい高さで内側からシャボンを割った。


 手も膝もつかずに、着地。

 まったく(すず)やかに帰還した陸歩に、誰が押し黙るよりない。


「間に合ったかな?」


 問いかけるとイグナは、(くわ)えていた棒の先端を口から出して、(かか)げてみせる。

 そこにはまだ、粒のように残る飴が。


「お見事です、リクホ様」


 不敵に笑んだ陸歩は、自身も手の中のものを(さら)した。

 鍵だ。

 ドゥノーの鍵。


「うっ……そだろ……」


 ドレッドの男が呆然と呟く。


 それを皮切りに、群衆が爆発のような歓声を上げた。

 この街で最も過酷な試練をやり(おお)せた勇者の名前が瞬く間に伝播(でんぱ)していき、リクホリクホの大合唱だ。


 当の彼は、あの参加費の卓から自分の財布を取り、懐へ戻した。

 そして残りの金貨の山を前に、顎を撫でながら思案顔。


 イグナが人々へ(てのひら)を見せると、周囲はもう一度しんと静まり返る。


 コインを一枚、指先で(もてあそ)びながら、陸歩は言った。


「根無し草のオレたちにゃ、これはちょっと多すぎるな。持ち運ぶのに不便だよ。イグナ、どうしよっか」


「は。では、使われてしまってはいかがでしょう」


「うん、それ採用。――みんなぁ! ここにいる皆! オレのおごりだ、この金でぱーっとやろうぜ!」


 再び歓声が弾ける。


 一帯の出店も巻き込んで、どんちゃん騒ぎが広げられ、その中で陸歩は数えきれないくらい肩を叩かれ、握手を交わし、腕を組み合った。

 イグナは渡された杯に右から左から注がれる酒を、ただの一度だって断ることなく飲み干していき、それがまた人々を喜ばせる。


 いつの間にか法被の連中も混ざっていて、ドレッドなどは調子に乗って陸歩を肩車して走り回るのだ。


 ドゥノー樹誕祭のハイライトは、(まぎ)れもなく陸歩となり、(うたげ)の頭上では箒星が群れとなって流れる。



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