起:急 ≪依頼≫
情けは人の為ならず、とはよく言ったもの。
陸歩は内心でラッキーラッキーと繰り返していた。
樹中都市ドゥノーを、リフトを乗り継ぎ乗り継ぎ、ひたすら上へ。
途中で階段。
またリフト。
しばらくを掛けて、リンリャとその祖母に案内された上階層。
世界樹において、人が住める高さはここが限界なのだそうだ。これ以上高くは、いくら何でも生活が厳しくなる。
ふと下に目をやると、地面は眩むように遠い。
ふと外に目をやると、地平線の彼方まで、目を遮るものがない。
至る所に据えられた転落防止用のフェンスは、陸歩の背丈と同じくらい。
独特なのは編まれ方で、唐草模様のように見える。落下避けの呪紋なのだとか。
そして一際たくましく幅の広い枝の上に建てられた、立派なお屋敷に通され、陸歩はその言葉を思い出す。
いや本当、情けは人の為ならず、とはよく言ったもの。
陸歩は内心でずっとラッキーラッキーを繰り返していた。
「改めまして、ミンシャと申します。このドゥノーの、頭役を務めておりまする」
畳の客間で、それぞれが座布団に腰を下ろすと、老婆がそう始めた。
つまり、この呪術師風のお婆さま、街を取り仕切る長老様であると。
リンリャの話し方や立ち振る舞いから、もしかしたら良いところの娘かとは思ったが。
「このたびは、孫娘を助けて下さったそうで」
「いえ、まぁ、たまたま通りがかったもので」
リンリャが湯呑を運んできた。
勧められるままに陸歩は茶に口をつけ、何でもないようにクールぶっているが。頭の中ではとっくに打算中だ。
隣でイグナがこっそりと耳打ちしてくる。
「リクホ様……」
「うん、わかってる……」
いきなり街のトップと渡りがついた。こんな幸運そうそうない。
さてこれを生かすためには、まずどこに話の糸口を見つけるべきか……。
まさかいきなり「社を建ててください」では芸がない。
胸に盆を抱いたリンリャは、自分用の座布団を出すこともなく、祖母の側へ膝をついてそっと囁いた。
「あの、おばあさま、私そろそろ……」
「そうだった、支度があるのだったね。ここはよいから行っておいで。
お二方、孫娘は所用が御座いますゆえ、席を外させます」
「あぁ、どうぞ行ってらっしゃい」
「お構いなく」
「すみません、失礼しますね。リクホさん、イグナさん、ごゆっくり」
そそくさと退出していくリンリャを見送って、さぁと陸歩が目を戻すと。
長老は、畳に手と額をついて、深々と頭を下げていた。
面食らったとも。
「えっ、えっ、なんです急にっ」
「お待ち申し上げておりました」
顔を伏せたまま、長老は重々しく言った。
「オレたちを?」
「はい。
――赤き髪の乙女を従えし、極光の英雄が、我が孫娘を救ってくださる。
数日前から占術にて、そう示されておりました」
興味を惹かれたように、イグナが品よく小首をかしげた。
「占術」
「はい。このおいぼれの眼は、未来を見まする。あまり遠くまでとは参りませぬが」
「なるほど。術師とはお見受けしておりましたが、占者であったと」
頷くイグナと反対に、陸歩のほうは全く釈然としていない。
「イグナが赤い髪の乙女ってのは分かりますけど。極光の英雄って、オレはそんなんじゃ……いやまぁ、リンリャさんの手助けはしましたけどね? 救うって程のことでも……」
「いいえ。まだ、で御座います」
「まだ?」
顔を上げた長老の瞳が、暗く青く光った。
もしかしたらあれが、未来を見通す占眼なのか。
「示されたのは、今日より数日後に救われる、孫娘の姿」
「……つまり?」
「災いが近づいておるのです。孫娘に、今まさに。
リクホ殿は相当の手練れとお見受けしました。
どうか、リンリャを救ってやっては、もらえませぬか」
「はぁ……」
もちろん力を貸すに、やぶさかではない。
しかしその、占いを前提とした話には、陸歩は正直なところちっともピンと来てはいなかった。
だって、災いだのと言ったって、所詮は当たるも当たらぬも八卦の占いだろう。
彼の故郷は、朝のニュースのついでに一日の運勢が放送される世界だ。二週間に一度は最下位の日がやってくる世の中だ。
占いに対する信用はその程度であり、感情が乗って来ないのもある意味仕方のないところである。
そのせいで歯切れ悪いのを、どうやら長老は陸歩が難色を示していると取ったらしい。
途端に涙声が混じり、以下の通りの身の上話だ。
――自分の息子夫婦は子宝に恵まれないまま、二十年も前に事故で他界した。
リンリャは赤ん坊のころに天涯孤独となったのを引き取った娘。
あの娘の両親はどちらも防人であり、優れた使い手で、最期は街のために勇敢に散った。
かの勇者たちが娘に愛情を注ぐ時間が、わずか一年しかなかったその無念を思うと、胸が締め付けられる。
その代わりという訳ではないが、今日まで自分は、あの娘を精いっぱい、愛してきた。
血のつながりはないが、今では本当の家族のように想っている。
長年連れ添った爺様は先ごろ看取り、もう自分に残された宝は、あの娘だけ。
あの娘には、どうかどうか幸多い人生を送ってもらいたい――
「あー、それは。心中お察しします。えぇ。あぁもうその辺で! 事情は大変よくわかりましたから!」
「では……」
「オレでよければ助力しますよ。どのみちドゥノーには、しばらく滞在するつもりでしたし」
「おぉっ。有難う御座いますっ」
ここらが頃合いか。
「ただほら……魚心あれば水心、とも言うでしょう?」
「当然お礼はさせて頂きます。まずは支度金として、」
「いやいや。お金の話ではなく――イグナ」
「はい」
完璧な所作で立ち上がったイグナが、こっそり用意していた羊皮紙を差し出した。
受け取った長老は目を通すうち、「これは」と微かに呟く。
陸歩はその様子をじっと見逃さないよう努める。
「社、で御座いますか」
「そう。それを建ててもらえませんか。ドゥノーに」
あくまで慇懃な態度のまま、陸歩は申し出た。
肝要なことだが、礼儀は忘れてはいけない。
神の名代たる者が粗暴では、仮に社が建ったとて、信仰はついて来ないのだから。
「オレたちは、失われた大神の信仰を取り戻す旅をしています。
ドゥノーの宗教観はまだ知らないから、もしかしたら不躾なお願いをしているのかもしれませんが。許されるならその図の通りを造ってほしい」
「……、僧侶様でいらっしゃるとは、気付きませなんだ」
「では、ないんですけどね」
陸歩は苦笑を見せた。
「まぁ成り行きでして。オレ自身は信徒ってほど熱心でもなければ、背中に聖印も刻んでいない。
とはいえ風前の神様を、忘却されるままにしておくのは、さすがに寝覚めが悪いので」
「成る程」
そして長老は、もう二巡ほど羊皮紙を上から下まで眺めてから。
おもむろにクルクルと巻き上げて、閉じ紐までぴしりと締めた。
「――承りましょう」
「ありがとうございます」
知らずに止めていた呼吸をほっと再開し、陸歩は膝立ちで近づいて、握手を求める。
「こちらこそ。リンリャをよろしくお願い致します」
握り返してくる細く小さな手は、思ったよりずっと力が強い。
「滞在中は、この家に泊まっていってくだされ」
「それはありがたい。そろそろ路銀も、心もとなくなっていたとこでしたので」
「街を見物なさるなら、人を付けましょう。今のドゥノーは、見て回るには良い時節です」
「へぇ? 世界樹の見頃は、春先か夏の盛りと聞いてましたけど」
「祭り、に御座いますよ」
老婆は唱えるように答えた。
あるいはそれは本当に、客を長く留めるための、呪文であったのやも。
「明後日より催されまする、ドゥノーの樹誕祭。
どうぞ存分に、ご堪能くだされ」




