起:破 ≪荷車≫
鬱蒼とした森は真昼でも暗く、また静粛としている。
それにしても車輪の巡る音は派手で、けたたましく響いた。荷の重さのため。引き手が力任せなため。
その荷車は少しばかり異様だった。
乗せられているのは牛のように巨大な羊。引いているのは旅装束の青年。
ふつう逆だ。
それから、はっきり漂わせている、血の臭い。
木々の隙間、茂みの奥から獣が目を光らせる……。
だが、それだけだ。
見栄とも悪意とも慢心とも無縁の野性は、その荷車が飛び掛かるにはあまりに相手が悪いと、ともすれば知性よりもよっぽど鋭く感知していた。
だから一行はのんびりと、くつろいでさえいる。
森の細道は申し訳程度に敷かれたもので、凸凹として、まともな舗装もされていない。
が、牽引役の彼はそれを剛腕でもって悠々と踏破していった。そのペースは通常よりも速いくらいだ。
ほどなく黒緑の景色を抜ける。
開けた視界に映るのは、どこまでも広大な草原。
「うぉお……」
その中心で、天と地を繋ぐようにそびえる大樹に、陸歩は息をのんだ。
あれなるはドゥノー。
世界樹とあだ名される街。
「すっげぇええ! でっけぇえええ!」
まだずいぶん離れているのに、その威容は、叫ばずにいられないほど。
さながら絵画だ。
地平線まで続く緑のじゅうたん。上は刷毛で塗りたくったような碧空。
そんな画面を、左と右に分断する自然の塔……。
陸歩は額に手を当てて目を凝らした。
世界樹。
話には聞いていたが。
「はぁーっ。上の方は雲に隠れてるじゃん!」
羊とともに荷車に乗ったリンリャが、誇らしそうに答えた。
「二十数年前にはもう、空に届いていたそうですよ。その頃から天辺に到達した人はいないんです」
「あの高さですからね。酸素は薄く、外気は氷よりも冷たいはず。まさに絶界、とても生身で至れる環境ではないでしょう」
同じく荷車のイグナが、瞳の奥をしきりにフォーカスさせながら、そう判定する。
その掌へは仔羊が、気に入ったのかしきりに鼻先を擦りつけているが、彼女は意に介した風もない。
陸歩は一路、ドゥノーを目指して牽引を再開する。
リンリャは親羊の背を撫でながら、ため息をついた。
「困ったことにドゥノーの『扉の鍵』は、一番高い辺りに出来るんですよね。きっと今では鈴生りなんでしょうけど、取りようがなくって」
「ってことは、登れさえすれば取り放題っ?」
「取り放題は、さすがに」
目を輝かせて振り返った陸歩へ、リンリャは苦笑いを返した。
一般的に、『扉の樹』の鍵は非常に高価だ。
収穫量が少ないこともある。
それに大陸間をすら距離を無視してドア・トゥ・ドアできるのだから、必然としてこの世界の経済・物流の基盤は鍵なのである。
鍵をかき集め、先物取引で莫大な財を成した豪商の話は有名だ。
半面、これほど危険な代物もない。
もし野心、あるいは邪心ある相手へ鍵が渡ったとすれば……。ある日突然、自分の街のただ中へ、扉を通じて完全武装の兵隊たちが雪崩れ込んでくる。そんなことにもなりかねない。
実際に百年前までは頻繁にあったのだとか。
現在では倫理観念の高まりから、侵略という行為はリスクが大きすぎて、結局は通商のほうが割がいいということになっているため、昔ほど鍵の管理は厳しくもない。
とはいえ各街の『扉の間』には屈強な防人や用心棒が常在するのが常であるし。
鍵を譲渡する相手はよくよく検められるのが普通だ。
「でも本当に天辺まで辿り着けたなら、お一つはどうぞ。昔はそういう試練があったので。リクホさん、挑戦なさいますか?」
「是非。オレってば、こう見えて木登りは得意なんだぜ、」
「きゃっ、」
陸歩が力こぶを作ってみせた拍子に、荷車が道端へ脱輪しかかる。
あわや、というところまで傾きかけるが。
「おっと」
彼はそれを、腕力のみで支えてみせた。
少女二人に加え、牛並みの巨体を誇る大羊、それが産んだ仔羊まで載せた荷車は、重さなど推し量るのも馬鹿馬鹿しいであろうに。
「悪い悪い」
「あぁ……びっくりです」
リンリャが胸をなでおろし、親子羊が抗議のようにメェメェモゥンモゥンと鳴く。
イグナだけはどこ吹く風で、姿勢も元のまま、主へと丁重に申し出た。
「お手伝いいたしますか」
「んにゃ、大丈夫」
荷車を道に戻し、また引っ張りながら、陸歩は振り返ってニッコリと笑った。
そんな彼にイグナは静かに目を伏せて頷き、リンリャはまだまだ驚きを隠せない。
「本当に力持ちなんですね、リクホさんって」
「まぁね」
「すごい。リクホさんなら登頂しちゃうかも。
あのですね、鍵をもぐときに願い事をすると、それが叶うって言い伝えもあるんですよ」
「へぇ。そいつは縁起物だな。……にしてもよぉ、」
陸歩はまた、ドゥノーへと目を凝らした。
未だ遥か彼方。
草原を行けども行けども、近づいた気がしない。
「オレたち、ちゃんと進んでるよな? スケールが狂っちまうよ」
「ここからだとまだ、結構な距離がありますから」
「リクホ様、お疲れでしたら、いつでも交代いたします」
「いや、いいって……」
イグナを荷車に乗せるのは大変だった。
主人に労働を強いておきながら従者が座しているなど完全にあべこべ、自分の沽券にかけてそんなことは出来ない、ときた。
ワタシが車を引くと言って聞かず、まぁイグナの馬力ならそれも全く問題なかろうが。
見た目は華奢な乙女である彼女に重荷を背負わせて、陸歩は車上でのほほんとしている……そっちの絵面のほうがよっぽど男の沽券に係わる。
結局、仕事だと言って説き伏せた。
リンリャが気後れしないように、同性のイグナに寄り添って欲しいと。
渋々ながら頷いた彼女に、陸歩はこっそりと息をつく。
そもそもこの、リンリャという少女を荷車に乗せるのも大変だった。
世界樹を目指していた陸歩とイグナがリンリャと出会ったのは、森のほんの手前でのことだ。
出産間近の大羊を、近隣の村に住む腕利きの獣医へ診せに行った帰りだったそうだが、これが急に産気づいてしまったのだという。
なんとかリンリャ一人で仔羊を引っ張り出したのだが、親羊は腰が抜けてしまって、動けなくなった。
陸歩らはここへ通りがかったのだ。
リンリャは二人へ、人を呼んできて欲しいと頼んだのだが、陸歩は親羊が引いていた荷車に目を付けた。
荷自体は村で卸してきたから車だけ。
十分大きいから、乗っけて帰りゃいいじゃん。
何を馬鹿な、とリンリャが呆れたのも無理はない。
さっさと大羊を持ち上げた陸歩に、悲鳴を上げたのも無理はない。
旅人風の青年が、巨獣を楽々担いだのだから、その正体をさては鬼か悪魔かと疑われるのは、むしろ当然だろう。
仕方なくリンリャの前で手持ちの塩を舐めて見せ、豆を食べて見せ、拾った棒切れで地面に聖印を描いて見せて、ようやく信用を得た次第だ。
まぁ、陸歩ときたら異界人で超人で神託者であるわけだから、リンリャの勘はあながち外れていたとも言い難いが。
「お二人が通りがかって下さって本当に助かりました。昼を過ぎればあの辺りには、獣も出ますし」
「こっちも早めにドゥノーの人と出会えてよかったよ。着いたら少し案内してくれない?」
「もちろんです」
ようやくドゥノーが、あとどれくらいの距離か目算できるところまでやって来た。
この辺りの草原は牧場に用いられているのか、しっかりとした農道があり、柵が立てられ、遠くで近くで大羊たちがのんびりと日を浴びている。
荷車の一行に気付いた羊たち数頭が顔を上げ、低く鳴いた。
もこもことした白毛は、まるで雲を千切って草の上へ置いたようで、そこから突き出た黒い肌の顔。
陸歩はそれと、自分の後ろの親子羊を見比べる。
こっちの肌は黒でなく濃い赤で、羊毛は白というより黄金に見える。
「この親子は、他とは少し様子が違うんだな」
同じことを考えていたのか、イグナが応じた。
「原種と通常種の違いとお見受けします」
「イグナさん、ご明察です。そう、あっちの仔たちが普通のヨンム種。
その中でもとりわけご先祖様の血が濃い仔は、この親子みたいに赤黒い体色をしてるんです。毛には少し黄色が混じってるでしょ。
――あ、あそこの仔なんかは原種に近いですね」
リンリャが指さす牧場の一頭は、しかし薄くぼんやりとした微かな赤でしかない。
やはりこの親子は特別なようだ。
「貴重な羊なんだな」
「えぇ。赤いヨンムは祭事を司る神獣なんです。予定日よりずっと早く産まれちゃって、どうなるかと思ったけど……元気な仔でよかった」
元気には間違いない。
好奇心旺盛な仔羊は、草食動物特有の早さですでに立ち上がっていて、母親と、それから少女二人の間を行ったり来たりしながら、しきりに鼻をひくつかせていた。
今度はイグナの膝の上へ収まって、つぶらな瞳で見上げている。
そして身体をぐしぐしと擦りつけるのだが、少女の方は相変わらずの無表情で、その小さな命を観察していた。
「どうだイグナ。動物の赤ちゃんなんて、触るの初めてだろ? かわいいよなぁ」
「はい。ヒトでも羊でも、赤ん坊は何でも可愛いものです」
ほ、と陸歩は息を吐く。
意外だったからだ。
この完璧な従者は、実用一辺倒の気があって、可愛いなんて通俗をはっきり口にするとは思わなかった。
イグナは事もなげに続ける。
「そのほうが理に適っているのです。
可愛いほうが愛情を、恩情を、同情を受けやすい。親に強く守られやすい。敵に情けを掛けられやすい。可愛いほうが、単純に生存確率が上昇するのです。
一説には赤ん坊が可愛いのは自衛の手段とも言われます。庇護欲を掻き立てる形相機能。愛の防壁ですね」
リンリャは感心しているが、陸歩は苦笑した。
実にイグナらしい合理性だこと。
「んで。イグナにはその機能は効くのかな? 愛の防壁は」
今度の問いには、しばし彼女は黙考した。
イグナは、じぃぃと、腕の中の仔羊を眺める。
見た目を、仕草を、ぬくもりを、判定に足る要素を、多角的かつ総合的に、一つでも逃すまいと。
そんなイグナの鼻を、仔羊は自らの鼻でつんと突っついた。
そしてピカピカの目をして、メェと鳴く。
答えはそれで、出たようだ。
「――はい。どうやら、有効なようです」
「それは良いことだな」
陸歩はニッコリと上機嫌になって、荷車を引きながら、さらに調子を弾ませた。
そろそろドゥノーの根元が見える辺りになって、周囲には人々の姿がちらほらとある。
陸歩の怪力に絶句する者。車上のリンリャへ声をかける者。
「あっちが正門です」
リンリャの指さす、一際たくましい根は、階段状に彫刻されていた。
その先の幹には大きな虚が口を開けていて、向こう側ではドゥノーの街が広がっている。
入口の隅には、背の丸まった呪術師姿の老婆が、厳しい表情で、一人。




