裏 ≪神罰≫
違う、こんなのは間違いだ。
アーバイルは天才だった。
神童とはまさしく彼のことである。
生まれは平凡だがその知性は同年代はおろか、年上の誰と比べたって抜きんでていた。
そんな彼だから、当然のように司法の徒を志した。
ヴェルメノワでも最も厳しいふるいも何のその。
ミネルヴァ・ユスティームの最年少記録にこそ及ばなかったものの、それでも異例の若年で法務官に就任し、才覚と手腕でもってすぐに上級へ昇進した。
アーバイルは間違えたことがない。
いつだって正しい解答を導き出したし、いつだって正しい見解を持っていて、いつだって正しいから天才だった。
だから、間違うのはいつだって他人のほうだ。
街の拡大政策に反対した連中こそ間違っているんだ。
あいつらはこの十数年、弱り続けるヴェルメノワを何だと思っているんだ。
この街の経済にはカンフル剤が必要なのだ。
ヴェルメノワはもっと強くて富めるが正しい。清貧なんて間違っている。
正さなければ。
どんな手を使っても。
ある日やって来た魔女。
あの魔女がくれた祭壇は大変不気味だったが、まさしく望むものだった。
百腕天秤を意のままに。
これでこの街を是正できる。
心が躍ったとも。
人心は天秤の判決と、幻惑の果物でどうとでも操れる。
資金が出来れば兵力を蓄えることも簡単だ。
他の街や大陸にコネクションが出来れば、進出も難しくない。
いずれは撤廃された兵役制を復活し、市民全員を兵士に仕立て、他の街を傘下に治める。
そしてこの私、アーバイル・ジェニスは、かのレドラムダ帝国初代女帝ヨハンネ・レドラムダがごとく、カシュカ大陸の覇者となる。
だって私は正しいんだから!
正しい私が愚民どもを導く、それが正しいんだから!
はずだったのに。
なのに、どこで間違えた?
……いや、間違っているのは他人のほうだ。
下準備も下準備、資金調達の段階で、よもやあんな化け物たちに遭遇するなんて。
あんな連中、何かの間違いだ。
思い出しただけでも理不尽で身体が震える。
紅蓮の拳、宙を舞う巨人、白銀の天使――
「違う。こんなの間違いだ……」
何度目かそう呟いて、ジェニスは石壁にまた爪を立てた。
最も暗く冷たい牢に押し込まれたのも間違い。
法衣をはぎ取られて囚人服を被せられたのも間違い。
だって、こんなはずはないのだから。
今まで間違えたことなんてなくて、間違えるのはいつも他人のほうで。
「こんなの、間違いだ……」
「おい。アーバイル・ジェニス」
呼ばれてゆっくりと顔を上げると、焦点の合わない視界に鉄格子と、その向こうの看守が映りこんだ。
……しかし奇妙なのは、看守の方もまた、目が虚ろである。
「面会だ、ジェニス」
言い終わるか早いか、看守はくるりと背を向けていってしまった。
立ち会う義務があるはずなのに、どういうつもりか。
その様子をニヤニヤと見送る面会人。
ジェニスの目が途端に焦点を結ぶ。
「あっ、あんた、あんたっ!」
「やぁやぁジェニスさん。失敗したねぇ」
魔女だった。
出会ったときと同じ姿。
シスター服にハサミを入れて肩も腹も胸元も背中も露出させた、扇情的で冒涜的な恰好。
左腕には指先から肩まで、びっしりと鉄の荊を巻いて。
その顔の口元から上は全部、被ったフードが落とす影で隠されていた。
「あんた、あんたっ」
格子にすがるようにして、隙間に顎を押し付けて、ジェニスは懇願する。
「なぁ、頼むよ、ここから出してくれ! あんたなら出来るだろ!」
「あっは! ジェニスさんがっつきすぎー。心配しなくてもぉ、扉はすぐに開くから」
「本当か! 本当だな!
ははっ、あぁやっぱりそうだ私は正しいんだ! だからこうやって必ず助けが来るんだ!」
「わぁーお、ポジティブぅー。あたし、ジェニスさんのそういうとこ好きだなぁ」
「私をこんなところに入れおって! こんな服を! 間違いだらけの不届き者ども!」
「んー、じゃあ先に着替えだけしとく? はいこれ」
格子の間から魔女が突っ込んだクシャクシャは、法衣だった。
たすき状に刺繍された金と赤のライン、法務官の法衣。
「借りてたやつ、返すね。あ、ちゃんと洗濯はしたから。
法務官ごっこはいろいろ便利だったけどぉ、もうこの街の用事は済んじゃったし」
「は? ……待て、なんだ用事は済んだって。まだヴェルメノワは我々の手中とは言い難いぞ。カシュカ大陸の制覇だって、ほんの始まったばかりで、」
ぷはっ、と魔女が吹き出した。
もう我慢の限界と言わんばかり。
ゲラゲラとけたたましく、腹を抱えて嗤った。
蛇が笑ったらこんな風だろうか。
底冷えするような、本能が忌避するような、淫靡で嗜虐的で蠱惑的な、じゃらじゃらとした笑い方。
「あんたさぁ! あんたさぁ! 本気だったの!? 本気で支配者になれると思ってたの? 本気? 本気なの? あんたみたいな小物がさぁ!」
「なっ……、」
「あんたにはさぁ! ちょーっと神器を使ってワルイコトをしてもらえれば、それでよかったんだよね。
支配? 侵略? 無理無理! あんた程度じゃ遅かれ早かれ同じ結果よ! まぁだから選んだんだけど。
本っ当、ちょうどいい小悪党っぷりで、ちょうどよく失敗してくれたわ。あっはは! あんた本当に本っ当、ちょうどいい三流だった!」
「ふざけるな魔女がぁ!」
激昂したジェニスは口角に泡を飛ばしながら、鉄格子を力任せに揺する。
「いいからさっさとここを開けろ! ここから出せ! くそっ、この魔女めがっ!」
「あーもーうっさいうっさい。動物園かっての。喚かなくても開くってば。
来るよ来るよもう来るよー。そー……れっ!」
耳障りな軋みを伴った開錠音が、不思議なほど大きく響く。
けれども牢は閉ざしたままだ。
ジェニスは訳が分からず、苛立たしげに二度三度格子を揺すってから、
不意に胸に疼痛を感じた。
「……は?」
見下ろすと、身体に扉が埋まっている。
胸に、服を、肉体を、貫いて。
扉が。
魔女がことさら、笑みを深めた。
「ほら来た」
「何だ、これは?」
扉が勢いよく開いた。鍵はとっくに外れていたのだ。
その奥に覗く景色は、骨の白や内臓の赤などではなくて、虚無の暗黒であり、無数の綺羅星が瞬く、まるで銀河――
全く不意打ちに、扉から手が突き出した。
あまりにも美麗に整った、綺羅星色の手だった。
青白い光の球を握っていた。
「なんだ! これはっ!」
「神罰だよぉ」
魔女の左手の上には、セピア色に輝くリング。
背には同色の翼。
リングは残像を描くほどの高速で上下に動き、やがてそれは光の瓶となる。
「馬鹿だねぇ、神器に嘘をついて、何のお咎めもない訳がないじゃない。
ナルナジェフが怒ってるんだよ。お前の魂いただくぞ、ってね」
「ぐ、おおおおおおおおっ!」
星色の手は、青白の球を握り潰しながら、徐々に徐々に扉の奥へ帰ろうとする。
だが魔女がそれを許さない。
さっと左手を牢に差し入れ、光の瓶でもって手を閉じ込めた。
ジェニスの悲鳴が大きくなった。
「あぁあああ! あああぁああぁあああぁあああぁあぁああああぁ!」
「材料は、罪人の魂と神様の手。
――神様ってばひどいの。
敬虔な善人のところへはめったに姿を現さないくせに。
悪人のところには罰を与えにすぐやって来る。
……だから、材料には、冒涜者が一番」
「あぁあああ……ああああああぁぁああ…………ああぁあああ…………、…………、」
悲鳴が止んだ。
扉が閉じた。
ジェニスの身体が、糸が切れたように床へ落ちた。
魔女は自分の手の中、瓶の中を、神の手と罪人の魂とが溶け合って変質していくのを、目を輝かせて眺めている。
セピア色の瓶が解けて消えたとき。
そこにあるのは、鍵。
「やったやったやった! ナルナジェフの鍵ゲットぉーっ!」
もう狂喜乱舞だ。
ひとしきり飛んだり跳ねたり。
それから息を切らせた魔女は、左腕に鍵をくくりつけた。
鈍色の荊に見えたそれは、おびただしい数の鍵たちで、その内の数本は今加えたナルナジェフの鍵と同じ色をしている。
「いやぁー、ほんと感謝感謝! ありがとねジェニスさん! あなたの犠牲は無駄にはしないわ!」
「……、」
牢の中、ジェニスは横になったまま動かない。
死んでしまったのでも怪我をしたのでもなく、ただし生気もなければもはや意志も残っていない。
「じゃあ、アタシ行くね。あとはテキトーに生きて、テキトーなところで死んどいて」
「……はい。わかりました」
「あぁ、アタシのことはもちろん他言無用だからね? ちゃんと忘れるのよ。アタシもあんたのこと忘れるから」
「……はい。わかりました」
満足げに頷いた魔女は踵を返し、手近な壁をノックした。
すると今度はそこへ扉が出現する。
魔女はしばし鍵の群れを相手に、思案。
「えっと……お酒の美味しいところは……」
ほどなく一本を見出し、ドアノブに穿たれた鍵穴へと突き刺した。
開いた扉の向こうには、どことも知れない大陸の、どことも知れない街の、暖かな賑わいが広がっていて。
魔女は、両足ジャンプで、向こう側へ。
「よっしゃ、今夜は呑むぞぉー!」
掛け声を最後に、扉が閉まる。
そして消滅。
後には石牢の静けさだけが残された。
「……、」
抜け殻となった囚人アーバイル・ジェニスの口の端から、最初の涎が糸を引く。




