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起:結 ≪快気≫

 一番初めに習ったのは切り方だ。

 あらゆる質の食材を、その持ち味を損なわず加工するために、およそ千にも及ぶ包丁の入れ方を、ひたすら練習、反復練習。


 そうしていたら、何時(いつ)しか不思議なことが起こった。

 習ったどの切り方とも、違う包丁を引いていたのだ。

 正確に言うには、あの切り方とあの切り方とが、混然一体(こんぜんいったい)になった一刀。

 食材を『殺さない』ために、食材の凹凸に柔軟に合わせるように、無意識に。


 やがて千の切り方が、全て『一』にまとまった。

 もう何を切っても何を()いても何を()いでも、型通りの(わざ)じゃない。

 自分の包丁術が、まるで水になったように感じる。

 同じ(いも)を切るにも、別な切り方が自然と生まれた。食材の個性に合わせて包丁の軌跡(きせき)が自在にうねる。


 ()いた湯の、『色』が見えるようになった。

 もちろん赤とか青とか、そういう具体的な色彩ではなくて、何というか、表情が分かるようになったのだ。

 立てる湯気。

 (さわ)ぐ泡。

 揺れる水面。

 湯ひとつにしても、伝えてくる情報はあまりにも膨大で、そこから必要な『顔』を()()るコツは、数年がかりで習得した。


 焼けた鉄板の、『匂い』が嗅ぎ分けられるようになった。

 金臭(かなくさ)さとは違う。

 生き物が体調によって体臭を変えるように、鉄板にもコンディションがあって、その最も高いところは匂いによって示されるのだ。

 そこへ火力を操り、導いてやるのが肝要(かんよう)

 ただし食材にはまた別に適温があって、鉄板の温度との齟齬(そご)は、氷や焼けた石を一緒に用いて埋めてやる。


 食材の、串打つべき場所が、手触りで分かるようになった。

 肉にでも野菜にでも魚にでも、指で優しく触れれば、まるで両腕を拡げて待ち構えてくれているように『開いて』いる箇所があるものだ。

 そこへ角度を間違えず、串を通してやる。

 食材が痛がるような仕方は三流だ。

 食材が気付かないような仕方は二流だ。

 ツボをつくように、その食材の血行というか脈というか、そういう『流れ』をより滑らかにしてやるような場所に串を入れる。それが正解だ。


 鍋の混ぜ方を覚えた。

 煮方(にかた)を覚えた。

 フライパンの振り方を覚えた。

 (いた)め方を覚えた。

 炒めると()るは別なことで、また本質的には一緒で、引き出すべき食材の表情がほんの微細に異なることを覚えた。

 塩の振り方、胡椒の振り方。ソースの作り方。

 それらを人生をかけて習得していった。


 火の表情なんて、特に読むのが得意だ。

 熱いとき、冷たいとき、揺らめく炎は容易く変化を色に出す。

 ほら今だって。


 その炎は、優しい心配の色。


「――キア? 大丈夫、か?」


 キッチンの床に、ぼんやりと座り込んでいたキアシアは、覗き込んできた陸歩に、そっと微笑んだ。


「うん。平気よ?」


「本当に?」


 陸歩に浮かんでいる、優しい心配の色。


「本当だってば。――ねぇ、手、貸してくれる?」


 彼の差し伸べた手を掴んで立ち上がる。

 そのまま胸へ飛び込んだ。いつかみたいに。いつもみたいに。

 不安な時、悲しい時、寂しい時には、何故だろう、無性に彼の心音が聴きたくなる。


「……平気だから。大丈夫」


「…………」


 優しく髪を撫でてくれる陸歩の手は、内心で(こご)っていたものを()かしていくようだった。


「平気じゃなくても、大丈夫じゃなくても、いいんだぞ」


「…………。お姉ちゃんね、お父さんとお母さんのこと、どんな人たちだっけって言ってたでしょ」


「あぁ……」


 嫌味とか、そういうものには陸歩にも見えなかった。

 本気の忘却。

 今日の今日まで、指摘されるまで、本当に忘れていた人間が見せる仕草。


「…………まずいよ、リクホ。あたしもなの」


「え?」


「あたしも、お姉ちゃんがどんな人だったか、分からなくなっちゃった……」


「キアシア……」


「あたしは都合よく、優しい思い出しか、覚えてなかったのかな」


「――――」


 抱きしめる陸歩の腕が強くなる。

 響く心音が強く、高く。

 キアシアは哀しみに凍えそうな自らの身体に、彼の熱を求めて、自分もより強く彼へしがみ付いた。


 が、そうしていても鍋の音を()()らさないのは、これはもう料理人の(さが)だ。


「ん。ごめん、リクホ、火を止めなきゃ」


「おう」


 陸歩から離れたキアシアは目じりの涙を(ぬぐ)いながら、鍋を火から上げる。

 (ふた)はまだ取らない。(こも)った熱で最後に()()げることで完成だからだ。


 鍋の様子を見守りながら、彼女はまた(あふ)れて来てしまった涙を、手の甲でこすった。

 すん、と鼻を鳴らす。


 彼が息を()く。


「――なら確かめるか」


「え?」


 陸歩はポケットから引っ張り出したハンカチを、キアシアに渡しながら続ける。


「もう一度会って、確かめるか。姉ちゃんが本当はどんな人だったか。

お前の姉ちゃん、ダンジョンから秘宝を持ち帰った奴の求婚を受けるんだろ。なら秘宝を取れば、また会いに来るってことじゃないのか」


「…………」


「それとも綺麗(きれい)さっぱり忘れちゃうか。姉ちゃんみたいに。姉ちゃんのこと」


「……そんなの」


「別に悪いことでもないだろ。あっちもこっちも、とっくに一人前なんだ。別々の人生を、全く関知せずに生きたって」


「…………」


 キアシアは、しばし迷った。

 だが葛藤(かっとう)の中、最後に勝ったのは子どもじみた意地だ。

 ハンカチで目を拭い、邪魔臭い眼帯も剥ぎ取って、大きく息を吸い込んで宣言する。


「もう一回、会う。あたしはお姉ちゃんとは違うんだからっ。都合が悪くったって、無かったことなんかにしないもん!」


「さすが」


「そうよ、そう……あぁあもう! 思い出したら腹立ってきたぁ!」


 一気に調子が出てきたキアシアは、エンジンが過熱して止まらない。


「どういう姉なのよあの人は! 全部あたしに押し付けてったくせに、妹の顔を普通忘れる!? 悔しいもう悔しい! あんな不意打ちで再会しちゃったから言いたい事の半分も言えなかったぁ! 今度こそ何もかもぶちまけてやるんだっ!」


「おーおー。その意気その意気」


「――それにはまず、」


 ついにキアシアが鍋の蓋を取った。

 途端に立ち込める芳香。

 鳥を丸ごと、野菜・果物と一緒に焼き蒸しにした、香りだけで食欲と活力を()()てる一品だ。


「しっかりご飯、食べないとね。……イグナは?」


「なんか、酒を仕入れに行った。こういう時は、いっそ痛飲しちゃうのが薬になるんだって」


「……もしかしなくても、あたしのため、よね」


「まぁ、今日くらいは甘えとけ」


「……ユノハくんは?」


「なんか、楽器を探しに行った。こういう時は、音楽でどんちゃん騒ぐのが効くんだって」


「…………あたし、みんなにめっちゃ気ぃ(つか)わせてるぅ」


 自らの醜態(しゅうたい)に、再びしゃがみ込んだキアシアはどっぷりと落ち込んで頭を抱えた。

 その髪を、陸歩の手がグシグシと撫でる。


「当たり前だろうが。オレたちはキアシアの、仲間なんだから」


「……うん。ありがと」


 上目遣いのキアシアの、左右の瞳の大小は、まだ少しだけ異なっていた。


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