起:転 ≪姉妹≫
ずいぶん昔の思い出だから、記憶は人生の中でだいぶ摩耗してしまった。
どういう経緯でどこへ向かって何のために、だったか……もはや全てが、夢のようにおぼろげだ。
それでも確かに覚えている。姉妹でつないだ手のぬくもりだけは。
街へお使いに行ったのだ。
姉と。
妹と。
二人だけで。
さらさらと揺れる、姉の金髪を覚えている。
陽光を豊かに反射するそれを眺めていると、子どもだけで出かける不安が、すっと溶けていくようだったこと。よく覚えている。
気遣うように振り返った、姉の眼差しを覚えている。
にっこりと微笑んで、優しさを紡いだその唇を――永遠に忘れない、自信があった。
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姉はまだ気付かない。妹の声にも、存在にも。
それに苛立ったキアシアは詰め寄りながら、さらに強い語調で繰り返した。
「お姉ちゃんっ! お姉ちゃんでしょ!? 何してるのこんなところで!」
ようやく姉は視線を向けるが、しかし……なおもきょとんとしている。
その表情に得心の色が浮かぶまでは、もう少し時間を要した。
「あぁ……キアシア。貴女、キアシアじゃないの。キアシア、よね? うん。あらぁ、奇遇ね」
あんまり呑気で、温度差が酷い。
キアシアも姉の様に、もう呆れていいのか怒っていいのか再会に驚いていいのか、判断が付かなくなったのか、身悶えすらしていた。
「奇遇じゃないわよ奇遇じゃ……っ! お姉ちゃん、今まで、どこで、なにを……っ!」
放っておいたら姉に掴みかかりそうな勢いのキアシアを、宥めるつもりで陸歩は肩に手を置いた。
「落ち着けって。……お前にお姉さんがいるのは何となく聞いたことあったけど、それが、そちらの?」
「…………そう。ゼアニア・ノートン。あたしの、お姉ちゃん」
「はぁい。初めまして。貴方は妹の?」
妹の、で質問を切られて陸歩は困惑した。
妹の、仲間だとか、恋人だとか、続く語があるべきだろうに。
が、気付いた。気付いてしまった。
「お前は妹のものか」、所有物であるか。そういう意図の質問だったのだ。
このゼアニアという美女は、男を、女が普段遣いする道具と捉えている……。
なぜ気付いたかと言えば、そりゃあ気付く。
だってゼアニアは、青年の一人を地べたへ四つん這いにさせ、腰を下ろすような女なのだから。
「…………」
陸歩は開いた口が塞がらない。
そんな姉を見られたキアシアは、恥ずかしさからか耳まで真っ赤だ。
必死で呼吸を整えて、もう一度訊ねた。
「それで……お姉ちゃんは、ここで何してるの?」
「んー。なんかね、さっきの人たち、みんなアタシと結婚したいんだって。だから、ダンジョンを踏破できるくらい強い人とならいいわよーってことにしたの。面白いかなーって思って」
「面白かないでしょうが、そんなもの……っ。
……いや、いいわ。
それで、じゃあ……今まで、何してたの?」
キアシアが修めた、神への献上料理の調理術。
これは本来、彼女たち一族の継承順位に照らせば、姉のゼアニアこそが継ぐものだった。
が、姉はそれを拒否。理由はなんと、「爪を短く切るのが嫌だから」。
そのまま家を出て、行方を眩ましてしまったのだ。
結局、調理術は継承順位を繰り上げた妹が相続。
その後キアシア含む一族は、魔眼を狙った支配者に捕らわれ、ついには滅亡の憂き目に。
だから彼女たちは、この世にたった二人生き残った、家族というわけだ。
――キアシアとて、一人だけ囚われの日々を回避した姉を、恨むようなつもりはあるまい。
一緒に苦しめばよかったのに、なんて言う気はないのだ。それは逆恨み以上に筋が違うから。
が……それでも、まるでゼアニアに一族丸ごとを見捨てられたような気持ちは、胸の中に拭い難くあって。弔いを一人でした哀しさと辛さが蘇って来れば、どうして傍に居てくれなかったのかと思わずにいられない。
だからせめて、今日までをどう過ごしてきたか、訊いたのだが。
「何してたって……何してたかしら? まぁ、色々よ、色々」
「なによそれ……」
「えー? あっちこっちの街で美容術巡りしたり? 仲良くなったお金持ちにおねだりして、洋服とか宝石とか集めたり? お茶会とか舞踏会とか? そんな感じだったかなぁ。細かくは覚えてないわね」
「なによそれっ!」
たまらず感情を破裂させた妹に、ゼアニアはまたきょとんとする。
陸歩が肩に手を置いていたおかげで、キアシアはすんでのところで殴りかかるのは留まったが。
裂けるほどに唇を噛みしめながら、怨嗟のように姉へ伝えた。
家族のこと。故郷のこと。最も知らせるべき、重大な訃報を。
「お姉ちゃん……あのね。私たちの一族は、滅びたの。
生き残ったのは、あたしと、お姉ちゃんだけ。他はみんな……亡くなった」
ぱち、ぱち、と。ゼアニアは二度、瞬きをする。
相変わらず、背筋が凍るほど見事な、きょとん顔のまま。
答える。
「あ、そう」
「あ、そう……って……、……っ」
そこが我慢の限界だったのだろう。
キアシアが右手を大きく振りかぶり、姉の頬へ平手を放った。
が、その手はゼアニアに侍る青年の一人ががっちりと掴んで阻み、固く離さない。
それにすら構わず、キアシアは血を吐くように叫んだ。
「あっそうって何よ! お姉ちゃん! あっそうって何!
お父さんも、お母さんも、他のみんなも、死んじゃったんだよ! 死んじゃったんだよ!」
「キアこそ何よ。だから――それが一体アタシに何の関係があるっていうの?」
「――っ、冗談、でしょ……」
「冗談って、何が?」
信じられないものを見る目、蒼白な妹。
対して姉は、こちらも理解の及ばない異物でも見る目をしていて、不快感いっぱいに美貌をしかめている。
「アタシ、一族なんてキレイさっぱり捨てたんだけど。
過去のこととかイチイチ覚えてないし、取っておかないのよアタシは。だって『今』だけあれば十分じゃない。昔のこととか、むしろ邪魔なだけ。
お父さん。お母さん。……はぁ。どんな人たちだったっけ?」
「いい加減にしてよっ!」
一度引っ叩いてやらなくちゃ気が済まない。
その一心でキアシアはもがくが、右腕は青年に掴まれたままで、振り解けもしなかった。
「は、離してっ! 離しなさいってば! 離せ……いたっ! 痛いっ!」
握る力を強められて、顔を苦痛に歪める。
そこまでだ。陸歩が、姉妹のやりとりを見守る立場に甘んじていたのは。
抜刀。
青年の首筋へ刃を当て、髪の先からは怒気の火の粉を立てつつ、低い声で言う。
「痛ぇってよ。離せや」
「そうそう。女の子に手荒い真似は、男の格が下がるよ」
武器を突き付けるのは陸歩だけでなかった。
ユノハもまた、掌大にした神球を青年の耳のすぐ傍に突き付けて、言葉の軽薄さとは裏腹に殺意漲る視線で射抜いている。
青年は、しかし、対して物怖じすることもなく、しかもキアシアの腕を離すことすらなく、平然と見つめ返してた。
その目には、感情の色すら怪しい。
「キアを離せっつってんだろうが。腕ごと置いてくか、あぁ?」
「それとももしかして、いらないのは頭? 吹っ飛ばしちゃおっか?」
「…………」
しばし、肌が粟立つほどの殺気と緊張が迸る。
やがてゼアニアが飽きたように、「いいわ」と言うと。
ようやく青年はキアシアの腕を離した。
それと同時に陸歩はキアシアの胴を抱え込み、後ろへパス。
受け止めるのはイグナで、そのまま背中に彼女を保護するように、ずいと前に立つ。
陸歩はまだ納刀しない。
ユノハも戦闘態勢のままだ。
その様子に、ゼアニアは全く落胆したようにため息を吐いた。
「せっかくの姉妹の再会だっていうのに」
「どの口が言うのっ! お姉ちゃんのせいで、」
「貴女のせいでしょ、キアシア。アタシに責任を押し付けないで」
ぴしゃりと言う。
その声音に何か、幼少期の思い出でもフラッシュバックしたのか、キアシアは息も言葉も呑んだ。
「貴女のせいよ、キアシア。貴女のせいで再会が台無し。貴女が過去なんて無粋を持ち込むからよ。
今この瞬間の、再会だけを楽しめば、それでよかったのに……あああ、もう。吐き気がする」
立ち上がったゼアニアは、青年の一人から渡されたハンカチを口に当てる。
この場はもう、直接空気も吸いたくない、汚らわしいと言わんばかりの目だ。
「次に会うことがあるなら、もうこんなことには無しにしてよね」
「……お姉ちゃん……っ!」
踵を返すゼアニア。
に、ユノハが最後に声をかけた。
「そうだ、ねぇ。訊きたかったんだけど。
秘宝を持ち帰った人と結婚するって話、あれ僕も混ぜてもらえたりするの?」
こいつは。何を言い出すのか。
陸歩もイグナも内心で、彼を旅から叩き出すことを真剣に検討し始める。
ゼアニアは、口はハンカチで隠したまま、ニッコリと笑った。
「えぇ。もちろん。歓迎するわ」
「そっかそっか。
じゃあ秘宝ってのが、君より値打ちのないガラクタだったら、そうするね。一晩だけ夫婦になろっか」
「…………あ?」
明らかに小馬鹿にした彼に対し、ゼアニアはハンカチの下で、どんな表情を浮かべていたか。
いっそ今すぐに殺し合いすら始まるのでは、と思われたが。
「…………」
結局それ以上は一言もなく、彼女は青年たちを引き連れて去っていく。
残された面々は、誰も何とも言えないまま。
ただ、キアシアの嗚咽だけが響いた。




