急:起 ≪宣告≫
今朝もナックは、陸歩の朝食を最後に運んだ。
危険な傾向だとは自覚している。
囚人への過干渉、過度の興味は看守のタブーだ。付け入られる隙になる。
それでもあの青年は悪人には、とても思えなかったし。
語ってくれた旅の道筋は、まるでおとぎ話のように波乱万丈。
まぁ口からデマカセかもしれないけれど……。
それでも確かに少年の胸を焦がしたのだ。
今日も陸歩は瞑想にふけっているだろうか。
そう思うとナックは自然と足音をひそめてしまう。
神秘を帯びるあの人は何者なのか……その正体をもう少し知りたいという、子ども心もあった。
「リクホさ……、」
陸歩は牢の中、薄っぺらいベッドの上で、くぅくぅと寝息を立てている。
ナックは脱力を禁じ得ない。
本当に、この人、何なんだろう。
「リクホさーん。起きてくださーい。ご飯ですよ」
「……んが。ん。おはよ」
身を起こした陸歩は大きく欠伸し、自分の寝癖頭を左手でかき混ぜた。
そしてナックから昨日と同じメニューの朝食を受け取ると、不意に相好を崩す。
「ようやく出られそうだなぁ」
「は?」
「それ以外の用事で法務官様が訪ねてくるか?」
「……は?」
未だに何のことだか分からないナックに、陸歩は自分の耳をちょいちょいと指差してみせた。
意図を汲んだ少年看守が周囲へ耳を澄ませると。
やがて石に反響する足音が聞こえる。
ナックにはそれが誰のものかまでは判らないが、陸歩は看破していたのだろう。
牢の前までやって来たのはユスティーム法務官だった。
「おはようございます法務官様!」
「お早う、ナック。それからジュンナイ・リクホ」
「どうも」
陸歩は朝食のトレーを脇へやって、石畳の上へ正座に直る。
それを見届けて、法務官は懐から羊皮紙の巻物を取り出した。
「その様子だと察しているようですが。貴方の判決が下されました」
「待ってました、拝聴します。
……あれ? 百腕天秤が裁判するのって、昼から夕方の間なんじゃ?」
「その通り。なのでこれは、それなりに異例のことですよ。こんな早朝に天秤が動くなんて。
貴方の反省が十分に至ったと、天秤が判断し慈悲を見せたのでしょう」
「それは光栄」
「これに懲りたら、今後はこのようなことがないように。
どこを目指しているのか知りませんが、旅を続けるのでしょう?
立ち寄る全ての街に、独自のルールがあることを忘れてはいけませんよ。それを犯すことは大罪なのですから」
「はいはい」
「……。では、判決を読み上げます。
――主文、ジュンナイ・リクホを、……、……、」
そこで初めて羊皮紙の中身に目を通したのか。法務官は息を呑んだ。
ナックも何事かと狼狽し出す。
陸歩だけは静かに、まっすぐ座したまま、「続きは?」と先を促した。
「……ジュンナイ・リクホを、死刑に、処す」
「死刑……そんな、バカな!」
呆然と呟いたのはナックだ。
宣告された当の本人は、未だ平静なまま、不条理に対し酷薄な笑みを浮かべていた。
「死刑ときましたか。それが、完全公正な神器・百腕天秤の判断」
「え、えぇ……しかし……これは……」
「大理石を踏んだだけで死刑」
「……でも……天秤は、そう判断して……」
法務官はそこで、はたと思い至ったようで、表情を固く歪める。
「ジュンナイ・リクホ! 貴方、もしや他にも犯罪を!」
「心当たりないですね」
「嘘を言うのではありません! でなければ天秤がこんな、」
「判決に合わせて囚人の罪を増やしたり減らしたりするんスか。法務官てのは大変な仕事だ」
「っ、でも、……天秤は、そう判断して……」
「……、」
「……、」
重苦しい沈黙と困惑が下りる中。
陸歩の聴覚だけが、石床を金属が擦るかすかな音を聞きつけた。
もげた脚で必死に這ってくるそれは、半壊した機械仕掛けのテントウムシだ。
格子の間を息も絶え絶えの様子で通り抜け、陸歩の指先へ辿り着く。
その有様。
頭部は割れ、胴は潰れて羽がおかしな方へ曲がり、たった今部品の一部が零れた。
イグナ……。
陸歩は口の中で呟く。
彼女の身に、何か……。
そんな彼の目の端では、少年看守と法務官が判決を巡って、にわかに揉め始めた。
「あの……法務官様。やっぱり、こんな判決……、何かの間違いじゃないかと……」
「ナック! 何を言うのです!」
「だって! 今までにだって似たような罪状はあったけど、死刑になった人なんていないじゃないですか! なんでリクホさんだけ!」
「確かに……前例は、ありません。しかし、そんなことは関係ない。
神器たる天秤が是と言うのであれば是であり、否と言えば否なのです
それこそがこの街の、最高にして絶対の法」
「でも!」
「弁えなさい! ナック、貴方は法務官へ修道中の身であるはず。
天秤の決定に異を唱えるなんて、言語道断です!」
「~~~っ! でも、でもでもでも!
法務官様は! ユスティーム法務官様が! 僕に教えてくれたはずです!
法はヒトを獣でなく、人たらしめるためにあるのだと! 人々の芯に正義を通すためにあるのだと!
今この判決に正義はあるのですかっ?
ここで法を護るためだけにこの人を処刑しては、まるで、飼いならされて意味も知らず獲物の喉笛を噛みちぎる、狩猟動物と変わらない!」
「貴方という子はっ。まともな判断を欠いています! 囚人への過度な感情移入はあれほど――」
「あのーお二人さん。ちょっとお二人さん!」
法務官と少年の白熱したやり取りに、陸歩が割り込む。
そうして立ち上がったかと思うと、本当に申し訳なさそうに眉根をハの字に下げた。
「議論を邪魔して悪いんですけど。とりあえずオレ、脱獄するんで」
「なにを、」
「こっちもね、果たさなきゃならない大望があるんだ。こんなところでむざむざ殺される訳にはいかんのですよ」
陸歩の右手が格子を掴んだ。
法務官はまさかと思いつつ、少年看守の前へ庇うように立つ。
「ジュンナイ・リクホ、何をするつもりか知りませんが、無駄なことはお止めなさい。
素手で破れる牢ではありません。亜人や獣人を入れることだってあるのです」
「訊きたいんですけど、格子は全部の牢屋がこれと同じ?」
「は? ……だったら、何だというのです」
「ここだけでも三十六本がありますね。この刑務所全体なら、合計何本になるのか」
だから、それが何。
法務官は言おうとして、そのまま口をぽかんと半開きにする羽目になる。
陸歩の、掌を上にした左手。
そこに極光のリングが浮いたのだ。
どこからともなく、蜃気楼のように滲み出たそれは、ある程度敬虔な者ならよく見知っている――週末に通う教会の、宗教画の中で。
空間に波動が走る。
紫電が駆け抜けた。
陸歩の右手が握っていた格子が塵に崩れる。
次にその両隣の一本ずつが、次にはさらにその隣が、隣が、隣が。
残らずが灰燼に帰し、遮るものがなくなった陸歩は、二晩を過ごした牢から悠々と出た。
「じゃあ、そういうことだから……なに? なんです?」
打ち上げられた魚のように口を開閉させる法務官と少年に、さすがに陸歩も訝しんだ。
視線を追って、自らの背中を顧みると。
「あ、やべ。羽まで出ちゃってんじゃん」
極光の翼。
ユスティームが、ナックが、愕然と呟いた。
「天使、様……?」
陸歩はばつ悪げに頬を掻き、肩をすくめる。
「さて。イグナはどこかな」




