第六十四話:春の嵐、再び!
その存在に一番早く気付いたのは奈保だった。
能天気な明るさがとりえの奈保だが、実は凄い能力を隠し持っている。
それはご自慢の大きくて形がいいおっぱ……ではなくて、その優れたスタイルが故に自然と身に付いた一種の感知能力だ。
簡単に言おう。奈保は周囲に発生している劣情を敏感に感じ取ることが出来る。
誰もが表情や視線、行動から「あ、今この人エロいことを考えてる」と感じることはあるだろう。が、奈保の場合、体の一部が著しく成長をし始めた小学校高学年の頃から多くのやらしー視線を受け止め続けてきた結果、表情や行動などを見ることなく、劣情そのものをあたかもセンサーのように感じ取るようになった。
奈保曰く「なんかエロい波動を感じるのだ!」なのだそうな。
奈保らしいアバウトな表現だが、しかしその感度は正確無比。「ぱらいそ」がメイドゲームショップになってすでに一年経つが、盗撮問題がいまだに起きないのは奈保が危険を察知し、すかさず「写真を撮るならなっちゃんを撮ってー」と盗撮者に近付いて、狙われた被写体を守ってきたからである。
もっともこの奈保センサー、反応するのはエロ方面だけで、万引きなどの犯罪にはぴくりとも動かない。
奈保がかつてコンビニでバイトしていた際、目の前で万引きをされたにも関わらず全く気がつかなかったのは知人の間で有名な話だ。
ま、それはともかく。
この時、夕暮れ時の「ぱらいそ」で、奈保のセンサーがかつてないほどの強力な劣情を感知した。
奈保は慌てて店内を見渡すも、それらしき人は見当たらない。
が、感じる劣情はどんどん強くなっていく。その様子からどうやら相手は外からこっちに向かってきているらしいと店外へ目を向けると、丁度ひとりの女の子がお店に入ってきた。
髪をハーフアップにし、スラッと背を伸ばした姿勢に春らしい桜色のワンピースがとても良く似合う、いかにもお嬢様といった感じの女の子。
外見からはとてもこの子がエロ波動を放っているとは思えない。きっと別の人だと奈保は女の子に挨拶をしながら、改めて外に目を凝らそうとしたその時。
あれほどの劣情(奈保曰く、星ひとつ破壊できるレベル)が突然消えた。
「えっ!? あれ? あれぇ?」
混乱してあたりを見渡すも、そんな素振りを見せるような人は見当たらない。さすがに賢者タイムに入ったとは思えないが、それまでの興奮が一気に冷めたのだ、何かしら失望や落胆を見せる人物がいるはずなのだが……。
「あの、すみませんです、店員さん」
と、そこへ先の女の子が声をかけてきた。
「え? あ、はいはい。なにかなー?」
「あちらの美織お、じゃなくて晴笠さんを呼んでいただきたいのです」
「晴笠……ああ、美織ちゃんね」
美織ならいつも同様ゲームに熱中していた。特に今日は新人のかずさと対戦を重ね、ギャラリーたちも普段以上に集まっている。女の子は美織とは顔見知りのようだが、確かにあの中を割って入るのは大変そうだ。
先ほどの劣情は気になるが、とりあえず今は盗撮などの心配はなさそうなので奈保は女の子の要望に応えることにした。
「おっけー、おっけー。おーい、美織ちゃーん!」
奈保の呼びかけにギャラリーたちが振り返る。
一斉に多くの人の視線が集まったからだろうか。傍らで女の子がぴくっと身体を震わせた。
「あー、なにー? 今ちょうどいいところなのよ」
が、肝心の美織はゲームを続けたまま振り返りもせず受け答えした。
「美織ちゃんにお客さんが来てるよー」
「客ぅ? メーカーの営業かなにかー?」
とにかくちょっと待たせておいてと続ける美織に、しかし、奈保が言葉を続ける。
「可愛い女の子だよー」
「え、女の子?」
奈保の言葉に美織の意識が一瞬持っていかれた。
「チャーンス到来ッ!」
その隙を逃すことなく、かずさが先の闘いで美織に決められたコンボを逆に決めてみせる。
「あ、ずるいわよ、かずさ!」
「勝負に良いもずるいもないって言ったのは美織ちゃんだよっ! はーい、今回は私の勝ち! これで通算5勝目!」
ガッツポーズを決めてみせるかずさ。なお36敗には敢えて触れない。
「むぅ、一勝損したわ。けどま、いっか。で、奈保、可愛い女の子が尋ねてきたって言ってたけど、それってやっぱりアルバイトの応募ってことで……」
人数が揃ってきたとは言え、スタッフが充実すればそれだけ多くの仕事が出来るし、ひとりあたりの休日も増やせる。加えて可愛い女の子ならばもう大歓迎とばかりに振り返った美織だったが。
「……え?」
入り口に佇む女の子の顔を見て、コチンと固まった。
「ふふふ、お久しぶりなのです、美織お姉さま」
対して女の子はにこやかな表情で軽く首を横に傾げて挨拶する。
「あ、あ、杏樹!?」
「はい、お姉さまの可愛い妹・綿貫杏樹、来ちゃいましたー」
「ありゃ、今度は美織ちゃんの妹さん?」
妹という言葉に、奈保は「へぇ」と美織と女の子を見比べる。
下手したら小学生と間違えられるぐらい成長不良な上に、普段の言動はまさしくワガママな子供そのものの姉・美織。
言葉遣いこそ幼さを残すものの、髪型や容姿、振る舞いはいかにも良いところのお嬢様らしさを見せる妹・杏樹。
どう見ても姉妹逆……と言うか。
「あれ、でも苗字が違うヨ?」
「はい。杏樹とお姉さまは血の繋がった本当の姉妹じゃないのです。でも、血よりももっと濃い契りで固く結ば」
「あんな契り、無効に決まってるでしょー!」
杏樹の説明を遮って、美織が吠えた。
「だいたい睡眠薬で眠らせた私にキスをして、それで姉妹なんて……あ」
でも、思わぬ相手の登場に動揺したのだろう。余計なひと言をつい口にしてしまった。
「キス!? 店長と、あの子が?」
「そう言えば店長、昔は寄宿制のお嬢様学校にいたって聞いたことある」
「マジか!? てことは、あの子とはいわゆる百合な関係……」
ギャラリーのお客たち、さらにカウンターで成り行きを見守っていた司たちも思わず美織に視線を集める。
「そうなのです。お姉さまと杏樹はいわゆるアツアツ百合カップル」
「違うわーっ! てか、あんたらキスって言葉だけじゃなくて、その前の話もちゃんと聞けーっ!」
したり顔でうんうんと頷く杏樹の言葉を、またもや美織の怒鳴り声がかき消した。
「もうお姉さま、さっきから私の話を遮ってばかりでうるさいのです」
「あんたがウソの話ばかりするからでしょ!」
「ぶぅ、ウソじゃないのにぃ。あー、もう、分かりました。だったら今から杏樹の言っていることはウソじゃないと証明してみせるのです」
杏樹が微笑む。
その微笑みに今度は奈保の身体がびくんと震えた。
何故なら奈保のエロセンサーが俄かに反応したのだ。
しかもごく近く。
言ってしまえば、目の前の女の子から……。
「さぁ、お姉さま、こっちに来るのですよー」
お嬢様らしいにこやかな笑顔でありながら、人一倍の強い劣情が迸っている。人は見た目に寄らないとはまさにこのことだなぁと奈保は妙に感心しつつ、これはかの美織ちゃんも厄介な人物に目を付けられたねぇと不憫に思ったが、
「イ、イヤよ。誰が行くもんですか!」
うろたえる美織が面白いので温かく見守ることにしたのだった。
「ならばこっちから行くのです」
「こ、来れるものなら来てみなさいよ。私だってね、あんたの弱点ぐらい知ってるんだからっ! ちょっと九尾!」
すかさず美織はギャラリーのひとり・常連の九尾に声をかけると、なにやら説明してその背中をどんと押した。
いきなり交渉役を押し付けられた九尾は戸惑いつつ、入り口の女の子へと視線を向ける。
距離はあるがそれでもはっきりと、女の子の表情が強張るのが見えた。
「いや、ちょっと店長。さすがにこれはあの子が可哀想」
「何を言ってるの! あんたがやらないと、逆に私が可哀想な目に遭うのよ!」
だからさっさと行けと、今度はぐーぱんちで美織は九尾の背中をどつく。
こうなっては仕方ない、穏便にことをすませようと九尾は出来る限り爽やかな笑顔を浮かべて女の子に近付くと
「や、やぁ、オレ、九尾って言うんだ」
と自己紹介から始めた。
とにかくまずは相手の警戒心を解き、頃合を見てから先ほど美織に言われた通り、目標を沈静化するつもりだった。
が。
「懸命に爽やかさを演出しようとする顔が死ぬほどキモイのです。てか今すぐ死んでください。同じ空気も吸いたくないのです」
相手は突然容赦のない口撃をぶっ放す。さらにフレンドリーな雰囲気を演出する為に無警戒だったのがまた拙かった。まともに口撃を受けた九尾は耐え切れず、ショックのあまりその場にばたりと倒れこんでしまった。
「げっ!?」
「それからそこのデブ、腐った卵みたいな体臭がここまで臭ってくるのです。そこのメガネは服装のセンスが壊滅的。それならまだ腰蓑でもつけておいたほうがマシなのですよー。あとイケメンを気取っているあなた、シャツの上からメンズブラがうっすら透けて見えてキモイのですけどー」
表情はにこやかながら、女の子は次から次へと口撃のマシンガンで、美織の周辺にいるお客さんたちを打ち抜いていく。
気が付けば辺りはすでに死屍累々の山。中には女の子の罵倒に耐えられず、逃げ出した者すらいた。
「ちょ、杏樹! いくらなんでもそれはやりすぎ! やめなさい!」
「やめて欲しいのならお姉さまがこっちに来るのです。そうすれば……ん?」
ふと女の子は自分の視界に、入店した時からずっと気になっていたものが消えていることに気が付いた。
一年前に学校を卒業されて以来、離れ離れになってしまったお姉さまにようやく会えると心弾ませてやってきたのに、店内に入るやいなや視界に入ってきたのはありえない光景。それまでのウキウキを一気に消し飛ばしてくれたアイツが、いつしか消え去っている……。
「ちょっと、あんた」
と、そこへ突然背後から声をかけられた。
入り口にいた、胸の谷間を大胆に露出したお姉さまだろうか?
いや、違う。ほんのちょっと言葉を交わしただけだったけれど、あの人はもっとほんわかした大人っぽい言葉使いだった。こんな粗暴な、子供っぽい口調ではない。
「美織とどんな関係かは知らないけれど、見ず知らずの人たちを巻き込むのはやめなさいよっ!」
「なっ!?」
振り返る前に、その子供っぽい口調のヤツに怒られた。
怒られるのは嫌いだ。ましてやそれが自分と同じか、年下ならばなおさらだ。
が、それ以上に腹立たしいのは、お姉さまと慕う美織のことを呼び捨てにしたこと。
大人ならばまだしも、子供っぽいヤツがお姉さまを呼び捨て?
ありえない。あってはならない。絶対に許せない。
しかもこの言葉の口調から杏樹は分かってしまった。
いつの間にか消えた目障りなアイツが今どこにいるのか……それはきっと、間違いなく。
「あ、あなたこそお姉さまとどういう関係なので」
本当に倒すべきは有象無象な取り巻き連中ではなく、本来なら自分がいるはずだった、お姉さまの隣りで楽しそうにゲームをしていたこいつだと振り向いた杏樹。
その顔先に失神した九尾のだらしない顔が飛び込んできた。
「い!?」
「あんたも死んどけー!」
無理矢理美織の相手にさせられたものの、なんだかんだでゲームを楽しんでいた一時を邪魔されたかずさが、失神した九尾の身体をえいと女の子に押し付ける。
「い、い……いやああああああああああああああああ!」
絶叫と共に杏樹も気を失うまで、そう時間はかからなかった。
その日の夜。
「えー、こちら、美織ちゃんやうちと前の学園に通っていた綿貫杏樹ちゃん」
久乃の紹介に、杏樹がお嬢様っぽく頭を下げてみせた。
結局あれからの営業は散々だった。
気絶した杏樹をスタッフルームに撤収させたものの、その残した傷痕はあまりに大きく、口撃にズタボロにされたお客さんたちは皆暗い顔して帰っていくし、仕事帰りに立ち寄った常連たちもお店の雰囲気がいつもと違うことに気が付いたのか早々に退店し、売上げがぴたっと止まってしまったのだ。
全ては突然現れてはめちゃくちゃにしてくれた杏樹のせい……なのだが当の本人はそんなの知らないとばかりにニコニコとしている。
膨れっ面の美織と実に対照的だ。
「で、杏樹、あんた本当に何しに来たのよ?」
その美織がスタッフルームのテーブル越しに問いかける。
ちなみに美織と杏樹の位置関係はそれぞれテーブルの両端。何故か異様に近付きたくないと杏樹を拒否する美織が無理矢理決めた位置取りだ。
「えへへ。それなのですが、お姉さま……じゃじゃーん」
しかし、そんな美織のあからさまな態度を気にもせず、杏樹はポシェットから何かを取り出してみせる。
「え? それって……あんた、まさか?」
「はい。杏樹、この春から花翁高校に通うことになったのですー」
杏樹のすまし顔の写真が貼り付けられた一枚のカード。紛れもなく花翁高校の学生証に違いなかった。
「お姉さまも花翁に受かったと聞いてるのです! わーい、これでまた同じ学校に通うことができますねっ、お姉さま!」
「じ……」
「じ?」
「じ、冗談じゃないわよっ! 大体なんで私が花翁に進学したのを知ってるのよ、杏樹!?」
「お姉さまのお爺様に教えてもらったのですよー」
「お爺ちゃん!?」
またあの人かーっと美織は特撮映画の怪獣のように口を大きく開けて咆哮する。
「あ、そうそう、それで思い出したのです。杏樹、お爺様からの手紙を預かっていたのです」
どうぞと差し出される封筒が久乃、葵、レンの手を経て美織の元へと辿り着く。
美織は心底嫌そうな顔をしながら封を切ると中の手紙を確認して、
「……終わった」
と、ひと言だけ呟いた。
「一体なにが書いてあったんだ?」
美織の手からテーブルの上にひらりと舞い落ちた手紙の文面に皆が注目する。
「えっと、『綿花杏樹さんとぱらいその雇用契約を結んだからよろしく頼むぞい。 晴笠鉄織』」
「……ええっ?」
「マジで?」
「いや、でも、だってこの子……」
先ほどの光景を誰もが思い出していた。
男性のお客様に怒涛の罵声を浴びせまくり、さらに九尾との接触で気を失う。そこから導き出される答えはきっと……。
「あんた、男性恐怖症なのに無理に決まってるじゃん!」
とはいえ、はっきりと口にしていいものかと誰もが戸惑うところを、ズバリと言い切る者がいた。
かずさだ。
「そんなのやってみないと分からないですよー。て言うか杏樹、別に男性恐怖症じゃないですしー」
「はぁ? 抱きつかれただけで失神したくせに何言ってるんだか」
「あれは突然だったからびっくりしただけなのです。そもそもあなたこそ何者なんですか?」
「わたしはここの店員よ」
かずさが小さな胸を堂々と張ってみせる。
誰もが「今日からだけどねー」と心の中でツッコミを入れていた。
「店員? どこがなのです? お姉さまとゲームしてたじゃないですかー?」
「アレは美織が無理矢理」
「それにお姉さまを美織って呼び捨てにするの、杏樹、とってもムカつくのです。『美織様』って訂正してください」
「ヤダ。美織は美織じゃない。それに美織は私たちの敵なんだから。敵になんで『様』なんてつけなきゃいけないのよっ!」
「あなた、お姉さまの敵なのですかっ!? だったら杏樹にとっても敵なのです! ええ、杏樹には最初から分かってたのです。お姉さまとゲームをやっていたのだって、あなたが強引に誘ったに違いないのですっ。それで店員を名乗るとは厚顔無恥も甚だしいのですよ!」
「あんたに言われたくないわよっ!」
テーブルを挟んで「うー」と睨み合いを始めるふたり。
「ちょ、ちょっとかずさ。落ち着いて」
そこへ司が調停役を買って出た。
「ごめんね、杏樹さん。妹のかずさが失礼なことを言って」
司は頭を下げると同時に、隣りに座るかずさにも謝れと促す。
もっともかずさは「つーん」とそっぽを向いて謝る素振りをこれっぽっちも見せず、司を呆れさせるのだった。
「ふーん、あなた、『かずさ』って名前なのですねー。で、えっと、そちらの方は?」
「あ、ボクはつかさ。かずさの」
と言ってから、はたしてどう続けるべきかと司は躊躇した。
杏樹のこれまでの反応からして、かずさの言う通り、男性恐怖症なのは間違いない。
だから司は彼女を気遣って仕事を終えた今も鬘はつけたままだし、声だって意識している。
でも、自己紹介でウソを言うのも後々を考えると拙い。
ここは素直に「お兄ちゃんです」と言うべきかと悩んでいると。
「つかささんですね。へぇ、粗暴な妹の割にはお姉さまはなかなかに素敵な方なのですー」
杏樹がにっこりと微笑んだ。
「え? いや、えーと」
「でも妹の教育はしっかりしておいて欲しいのですよ。いいですか、これからかずささんには美織お姉さまのことをちゃんと「美織様」とお呼びさせて、杏樹の許可なく勝手に近付かないよう十分に言い聞かせてくださいね。妹の躾はお姉さまの役目。妹の教育が出来てないと恥をかくのはお姉さまの方なのですよー」
「は、はぁ」
司はちらっと美織に視線を送る。
美織が顔を赤らめながら「こっち見んな!」とばかりに睨みつけてきた。
なるほど、確かに恥をかいているようだ。
と、不意にその美織が良いことを思いついたとばかりにポンと手を打った。
「杏樹、そのつかさがあんたの教育係よ」
「え? 店長、それはさすがに」
突然の無茶振りに司は焦る。
「えー? 前みたいにお姉さまが手取り足取り教えてくれるんじゃないんですかぁ?」
「ちょっと! 誤解を受けるような言い方をしない! あのね杏樹、いくらお爺ちゃんの推薦があっても、本来なら男性恐怖症のあんたを雇うわけにはいかない。でも、それを素直に聞き入れるあんたじゃないでしょう? だから試験をするわ。そのためにまず、つかさから色々と教わりなさい」
「いや、だからそれは」
司、懸命に無理だと主張。
「ええー!? 杏樹、お姉さまに教わりたいですよー」
「わがまま言わない。代わりにもしあんたがちゃんとテストに合格できたら……仕方ないわね、姉妹の契りの件、考えてあげてもいいわ」
「本当なのですかっ!?」
美織がひとしきり考えた後、搾り出すようにして口にした言葉に杏樹が一瞬にして食いついた。
「あくまで合格したら、の話よ。それから言っておくけど、私がお姉さまで、杏樹が妹だからね!」
「分かってるのですよー。てか、前からそう言ってるじゃないですかー」
「だったら妹は妹らしく、お姉さまを抱きかかえたり、頭をなでなでしたりするのは禁止だからねっ! 絶対よっ!」
美織がそれだけは絶対に守りなさいよっと念を押す。
美織が杏樹との接触を避けているのは、実のところ、彼女がお姉さまと慕いながらもまるで自分を妹扱いするような行動が気に入らないからだった。
「えーと、あの、だからちょっとボクの話を」
もっとも司からしてみれば、そんなことよりも杏樹の教育係なんて荷の重すぎるものを受けるわけにはいかないわけで、先ほどから必死にふたりのやりとりに割り込もうとしているのだが。
「てことで、つかさ、杏樹の教育係任せたからね」
「つかさお姉さま、どうかよろしくお願いするのですよー」
司の意向なんていつものようにあっさり無視されるのだった。
「それにしても」
杏樹は立ち上がるとテーブルを回り込んで、はぁと溜息をつく司の背後に回る(ちなみに美織は素早く反応して杏樹と距離を取った)。そして無遠慮にも色々と角度を変えながら至近距離から観察を始めるのだった。
「え、えーと、何、かな?」
「はぁ、さっきは『なかなかに素敵』と言ったのですが、よく見れば本当に素敵なお姉さまですねぇ」
ついには司のうなじに鼻を近づけてクンクン匂いを嗅ぎ始める。
「うわわわっ。一体何をっ!?」
「うわぁ、なんだかほの甘い香りがするのですぅ」
杏樹がこれは素晴らしいですよぅと両手を頬に当てて、幸せそうな表情を浮かべた。
「へぇ、つかさちゃんからほの甘い香りが?」
「それは確かめてみないとな」
杏樹の言葉に釣られて葵とレンも司に近寄り、嫌がられるのも無視してクンクンやり始めたが、特別そんな匂いはしなかった。
百合の妄想、恐るべしである。
「全く、何を言っているんだか。ほの甘い香りなんてするわけないじゃん」
そしてやはり皆が言うべきかどうか躊躇っているところを、ズバリと切り込んでいくのは司の実妹であるかずさだ。
「つかさちゃんからするのは!」
「えっ、ちょっとかずさ!?」
戸惑う司をこれまた完璧に無視して、かずさは隣りに座る兄にがばっと抱きつくと胸元に顔を埋めて匂いを鼻一杯に吸い込んだ。
「ほらやっぱり、つかさちゃんはおひさまの匂いだよっ!」
ブラコンもまた恐るべしである。
「おひさまの匂いって……こんな素敵なお姉さまには似合わないのですよー」
「ほの甘い香りこそ、ありえないって」
「そんなことないですー。素敵なお姉さまは自然と可憐な匂いを身に纏われておられるものなのですよ。あなたみたいな下品な人間には分からないかもしれませんけどー」
「下品って……ああ、もう分かった、これからのことを考えればあんたが可哀想だからみんな黙ってるんだけど、もう知るもんかっ」
下品って言葉がよほど腹立たしかったのだろう。
かずさは司の胸元でニヤリと笑うと、その手をゆっくりと兄の頭へと伸ばす。
「あ、ちょっと、かずさ、それは!」
「ああ、もうつかさちゃんも度胸を決める! そもそも美織がつかさちゃんをこいつの教育係にしたのだって、つまりはそういうことでしょ? だったらちゃんと教えてあげなきゃダメじゃん!」
きっと睨みあげてくるかずさの迫力に、そして言葉の正論さに、司はたじろいで反論できない。
杏樹は杏樹で「だから美織様と呼べって言ってるでしょー」と、これから伝えられるショッキングな事実にまるで気が付いていないようだ。
「ふっふっふ、杏樹、あんたひとつ勘違いしてるわよ」
そこへ美織までもお得意のドヤ顔で参加してくる。
「勘違い、ですかー? えーと、よく意味が分からないです」
「あのね、この子達、姉妹じゃないの」
美織が司たちを指差して端的に事実を伝える。
「ああ、やっぱりそうなのでしたかー。私もつかさお姉さまには不釣合いだなーって思ってたのですよー。おおかたその子が勝手につかささんをお姉さまと呼んでるだけなのですねー」
本当に厚かましい子なのですーと杏樹。
お前が言うな。
「残念ね。それも違うわよ、あんた」
かずさが勝利を確信したかのように、むんずと司の鬘を掴む。
「違うのですか? だとすると……うーん」
口元に人差し指を当てて杏樹は思案し始めるが、きっと答えは永久に出てこないだろう。
だって。
「まぁ、普通は気が付かないわな」
「そうだね。さっき杏樹ちゃんが近付いてクンクンし始めた時はさすがにバレたかと思ったけど」
「さすがはつかさくんやなぁ」
この一年間、世間を騙し続けてきたのは伊達じゃない!
「うーん……あれ、今、誰かつかさお姉さまを変な呼び方をしませんでしたです?」
杏樹が答えを求めて、先の声の主に振り返ろうとしたその時。
「それが変でもなんでもないんだよっ! 何故ならわたしたち」
かずさが司の鬘をえいと取り上げる。
「……え?」
杏樹は振り向くのを中止して、司の坊主頭を凝視した。
「兄妹、なんだもん!」
「…………………………」
「ふふん、おにいはこんな格好をさせられているけど、男なんだから甘い匂いなんてするわけないんだよっ!」
かずさがざまぁみろと舌を出した。
「…………………………」
「杏樹、あんたが『ぱらいそ』で働くにはやっぱり男性恐怖症をなんとかしなくちゃいけないわ。そのためにもまずはつかさで男の子に慣れなさい」
美織が「まぁそれも無理なら辞めてもらうしかないけれど」と念を押す。
「…………………………」
「……えーと、杏樹さん?」
坊主頭を凝視されることにしばらく居心地の悪い思いをしていた司だったが、しかし、しばらくしてその事実に気付くとやや身体を乗り出して杏樹の目の前で手のひらを振ってみる。
「…………………………」
杏樹は真顔のまま、本日二度目の失神に陥っていた。




