第三話:その手を汚しなさい
「……やってくれたわね」
久乃の介抱で幸いにも数分で意識を取り戻した美織の第一声は、オロオロとして立ち竦むだけの司を思わず「ごめんなさい」と土下座させるに充分な威力を有していた。
「まったく。こっちが優しく介抱してあげたというのに」
土下座する司の頭の上から、苛立ちを隠さない美織の言葉が降り注ぐ。
言葉という雨雲の高度がそれほど高くないのは、おそらく美織がいまだ久乃のふとももに後頭部を乗せ、両手両足をぐてんと床に放り投げた姿勢のままだからだろう。
「その仕打ちがこれとは……いい根性してるわね、あんた」
怒気がさらに高まる。司も額をますますぐりぐりと床に押し付け「ごめんなさい」を連呼した。
正直なところ、司は状況を正しく理解できていなかった。
閉店間際に帰ったお客さんの女の子が数時間後に戻ってきたと思うと、勝手に鍵を開けて入ってきた……覚えているのはここまで。次に気付いた時は、何故か床に座った女の子の胸に頭を押し付けるように眠っていて、慌てて飛び起きたら見おろしていた女の子の顎に頭を打ち当ててしまったのだ。
だから美織にスタンガンで気絶させられたことも知らなければ「介抱してあげた」という言葉も司は素直に信じた。
久乃の「美織ちゃんこそいい根性してるやん」って呟きは、残念ながら司には聞こえなかった。
「ごほん」
もっとも、美織には聞こえていた。
が、無視する(いい根性)。
「でもね、私だって鬼じゃないの」
おや?
モクモクと広がる妖しい雲行きに一筋の光が突然差し込んだ。
「あんたがやらかしたことは決して許されない。それでもどうしても許して欲しいというのなら」
美織の「顔をあげなさい」という命令に、司は素直に頭をもたげる。
いつのまにか美織は立ち上がっていた。
小さな背丈をめいいっぱい伸ばして胸も張りつつ、両腕を組み、両足は若干開き気味の所謂ガイナ立ち。
久乃からすれば、ちっこい美織の精一杯自分を偉そうに見せている姿は、実に微笑ましかった。
が、司からすれば、目の前で仁王立ちする女の子の姿はどこか神々しく見えた。
なんせいきなり怒られて萎縮しているところへ、許しを与えられようとしているのだ。この蜘蛛の糸を逃すわけにはいかない。
……司はすっかり美織に上手く操られていた。
今の司ならばどんな事でも聞き入れてしまいそう。そんな様子に「よし、イケる」と睨んだ美織はここぞとばかりに言い放った。
「許して欲しいなら、今からライバル店に並んでいるお客さんたちに、私んちの素晴らしいチラシを配ってきなさい!」
「……はい?」
さすがに意味が分からなかった。
「え? この子が店長代理……なの?」
勢いばかりで大切なものを何もかも無視した美織のやり方に、久乃は溜息をつきながらやれやれとフォローに入った。
初対面の相手に必要なもの。
言うまでもなく、自己紹介だ。
久乃は司を立たせると、いまだ偉そうに佇む美織を軽く紹介した。
「ちょっと、何よ、その驚きは? それに『この子』って言い方、あんたみたいな中坊にそんなぞんざいな扱いをされたくないわね」
「中坊って……いや、だって、キミ、僕より年下……」
「失礼ね。私はこの春、ちゃんと中学を卒業したわよっっ!」
「同い年!?」
驚いて美織をまじまじと見ようとしたものの、司は突然の獣の気配にはっとする。
「くらえっ!」
「うわああ!」
慌てて後ろに飛び退く。おかげで司の急所を狙った、美織のえげつない蹴りをかろうじて避けることが出来た。
「ちっ。ゲスを仕留め損ねた」
「ゲスって……」
「不躾に女の子の年齢を聞いた挙句、ジロジロ見てくるような奴をゲスと呼ばずなんと呼べばいいのよ?」
「う……」
美織の言うことももっともで、司は言葉を失う。
言葉はともかく、行動は異常なわけだが。
「とにかく私はお爺様の代理とは言え店長なの! 私のことは店長、もしくは美織様と呼びなさい」
「店長……この子が店長……」
つい先ほど「この子」呼ばわりで怒られたことも忘れて、司はつい呟いてしまう。さすがにまたまじまじと見るのは自重したものの、色々とショックは隠しきれない。
店長代理がもうすぐやってくるとマスターが言っていた。
代理とは言え、店長には変わりない。きっとだらけきった先輩バイトたちとは違う、立派な社会人の方がくるものだとばかり思っていた。
だからこそ今のお店の現状を変えてくれるはずだと期待していたのだけれど……まさか店長代理が自分と同い年の女の子なんて。
確かに無駄に偉そうだし、凶暴だし、多少なりとも現状は変わるかもしれない。
でも、さすがに先輩たちには舐められてしまうだろうと司は思った。
むしろ偉そうな態度を逆手に取られて、上手く祭り上げられるんじゃないだろうか。表面ではいい気にさせておいて、影では馬鹿にして相変わらずやる気もなく、自分たちのやりたい放題にしてしまう様子が簡単に想像できて、わずかな希望もしゅんと萎えていくのが分かった。
「……なによ、私じゃ不安だって顔をしているわね?」
司の心境を機敏に読み取った美織が睨みつける。
「え? いや、そういうわけじゃ」
「ふん。そういう顔をしてたじゃない……。いい? 私は店長。だから全てを知っている。このお店が経営的にヤバいことも知っているし、もちろんアホなバイトたちがお店の商材を盗んだり好き勝手やってることだって知ってる」
驚く司に、店長なんだから当たり前よと胸を張る美織。そして久乃は内心「万引き状況はさっき知ったばっかりやけどなー」と舌を出す。
が、「そやけどやっぱり美織ちゃんははったりが上手いなぁ」と出した舌をすぐに巻き戻した。
「でも、だからこそ現状を変える為に私がやってきたの! 安心なさい、このお店は絶対に私が立て直してみせるんだから!」
美織が久乃に視線を飛ばす。
それだけで久乃には美織が何を伝えたいのか分かった。
久乃は一度お店の外に出ると、すぐに紙の手提げ袋を持って戻ってくる。
「?」
圧倒された司が見守る中、美織は袋から一枚の紙を取り出す。
「このチラシはその第一歩。見てみなさい、私の大胆なアイデアを!」
手渡されたチラシに目を走らせる司。
瞳を大きく見開くのに、そう時間はかからなかった。