第三十二話:一番いいのを用意したっ!
「……なん……だと?」
円藤の眉がぴくりと動いた。
「あれだけ大見得を切っておきながら、敵前逃亡だと?」
「いやいや、おにーさん、ちゃんと人の話は聞いてねー。美織ちゃんは昨夜から」
「どっかに出かけてて戻ってこねぇんだろ? 逃げたんじゃねぇかっ!」
円藤が吠えた。
最悪の事態だった。
実のところを言うと、司も葵も、それに当然の如く奈保も、美織失踪について詳しい事情はなにも知らない。
一番最初にそのメモを見つけた葵曰く、朝、目が覚めてリビングに行ったらテーブルに「ちょっと久乃と出かけてくる。万全な状態で戻ってくるから安心するよーに」と美織による書き置きがあったそうだ。
最初は単なる散歩かなにかかと思い、司が出勤する時分になっても「分かった。きっと秘密の特訓をしに行ったんだよ」と笑っていた。
が、開店作業を進めても帰ってくる気配もなく、携帯電話にも出ず、ついには開店しても戻らない非常事態に至って「まさか」という想いとともに顔が引き攣った。
あの美織が敵前逃亡? ありえないとは思うのだけれど、その可能性も示唆する状況に「絶望」の二文字が頭をよぎる。
一体対戦はどうなってしまうのか?
そもそもぱらいそはどうなってしまうのか?
泣きそうになるのをぐっと堪えて、司はどうすればいいのか考えた。
ぱらいその今後はともかくとして、こうなったら自分たちの誰かが対戦して今を乗り越えるしかないんじゃないだろうか。
当然負ける。美織を除いて、あのレンという女の子に勝てそうなスタッフなんて誰もいない。だけど不戦敗よりかはずっといいだろう。美織は急病ということにしておけば、敵前逃亡なんて不名誉を晒さずに……。
と思いつつも、なかなか行動には移せずにいた。敗北必死、ぱらいその状況を悪化させる判断を下していいものか戸惑っていたのだ。
しかしその結果、事態はまさに最悪となった。
「え、店長、いないの?」
「まさか逃げたとか?」
黛が発した「敵前逃亡」の言葉は、文字通り音速で店内に広まった。
「ち、違うの。そうじゃなくて、美織ちゃんはちょっと用事があって遅れてるだけだから!」
慌てて葵が事態を収束させようと声を張り上げる。
「用事って、大切な対戦を放り出すほどのものかよっ?」
「だ、だと思います」
冷ややかな円藤の質問に、司はこんな返事しか出来ない自分を情けなく思った。
「えっ、あの子、逃げちゃったのか?」
店内を適当に見て回っていたレンも、話を聞きつけて司たちの元へ駆け寄ってくる。
「じゃあ対決は?」
「もちろん、俺たちの不戦勝に決まってるだろう」
レンの問い掛けに、円藤が即答した。
おまけにレンを置いて、一人でさっさと帰ろうとする。
「ちょ、待てよ」
円藤の行動にいち早く行動したのは司たち……ではなく、意外にもレンだった。
素早い動きで円藤を追い越すと、眼前に立ちふさがる。
「俺のバイト料はどうなったんだよ?」
「勝負そのものが無くなったんだ。払う義務なんざねぇ」
「おいおい、そりゃねぇだろう?」
こっちだって今日の対戦に向けて調整してきたんだぜ、過程はどうであれ結果は目標通りなんだからちゃんと支払ってくれよと凄むレン。
さすがに一理あると思ったのか、円藤は苛立ちながらも懐に手を伸ばした。
「仕方ねぇな、ほれ」
財布から取り出した一万円札をレンに握らせようとする。一回限りのゲーム対決の助っ人料としては充分すぎる額だ。
が。
「おい、なんだ、コレ? ふざけるんじゃねぇぞ」
レンの怒気が膨れ上がった。
「今日勝てば三十万って約束だったよなっ!」
レンの言葉に辺りが一斉にざわついた。
(三十万?)
(今日の対戦であの子が勝てば三十万支払う予定だったのかよ?)
(ってか、あの男って確かぱらいそのライバル店の店長じゃねーか……)
美織が負けた、だから今回はそのリベンジ戦である。世間一般に公表しているのはここまでだ。買取キャンペーンの継続を賭けた戦いであることは伏せてある。
「ちょっと待てよ。単なるゲーム対戦にそんな大金が動くなんておかしいぞ……」
ただ、こういう流れになると、九尾のように対決の本当の姿に気がつく者が出てくるのも仕方がないだろう。
「しかも相手はライバル店が雇った腕利き……もしかしてこの対決、リベンジ戦なんかじゃなくて、実はトンデモナイ裏があるんじゃねーか?」
九尾の呟きがさらなる大きなざわめきを生んだ。
(そうか、例のキャンペーンを利用してクソゲーを大量に持ち込んだのかも)
(いや、いくら倍で売れても三十万もバイト料だしたら儲けなんてでないんじゃないか?)
(勝てば三十万も出すってことは、勝利にそれだけの価値があるってことだろ? つまり対決にいつものキャンペーン以上の何かが賭けられているんだよ)
憶測が憶測を呼ぶ。そして皆が辿り着いたのは
(てか、もしかしてレンって子が勝てば、買取キャンペーンってもう続けられないんじゃ……)
という紛れもない真実だった。
「あーあ、バレちまったか」
そんな憶測を敏感に感じ取ったのだろうか。円藤が頭をかきながら、不敵に笑う。
「そうさ。今回の対戦にはぱらいそさんの買取キャンペーンの存続が賭けられていた。店長さんが勝てば継続、負ければ廃止、ってな」
ふてぶてしく言ってのける円藤。
「ふざけんな! いくらライバル店だからって、こんな形で他所の店を妨害していいのかよ!?」
もちろんブーイングが飛ぶ。
それでも円藤に困った様子がないのを、司は不思議に思った。
対決の真の意味を隠すよう要求してきたのは円藤の方だった。そりゃそうだろう。ぱらいその人気キャンペーンである買取倍増をこんな形で潰しにかかったなんてことが世間に知れたら、仮に廃止に追い込めても店のイメージ悪化は避けられない。
店のイメージは大切だ。それは司たちも分かるから隠したのに、一体何故?
「おいおい、勘違いするんじゃねーぞ」
盛大なブーイングに晒されながらも、円藤は言葉を紡ぐ。
そして次の一言で見事に周りのブーイングを飛ばす口を閉ざしてみせた。
「これはな、ぱらいそさんから言ってきた条件なんだぜ?」
えっ? と誰かが小さく漏らした声が、やたらと大きく聞こえるぐらい、店内が一気に静まり返った。
「俺はな、ただの一人の客として、普通にゲームを売るつもりだった。まぁ、とは言っても勝てば金額が倍になるって言うんだ。ゲームの強い姉ちゃんを代わりに立ても、何の問題もあるまい? お前たちも金の為ならレンに頼む奴もいるんじゃねーか?」
円藤の挑発する言葉に「そんなことあるかっ!」と叫ぶ者がいる反面、言い返すのを戸惑う者もいる。
「で、実際、一度勝った。だからまた持ってくるわって話を振ったら、あちらさんから『こんなことをされてはたまったものじゃない。勝負を続けて負けが込んでも困るから、キャンペーンの存続を賭けて一度きりの勝負をしよう』って言ってきたのさ」
「そ、それは違いますよっ!」
あまりの言い草に、司がつい反論の声を張り上げた。
「ほう、何が違うって言うんだい、嬢ちゃん? あんたもいたよなぁ、そちらさんの店長がキャンペーンを賭けて対決しようって提案してきたその場によぅ」
「た、たしかに店長はそう言いましたけど」
「ほらな! みんな、聞いたな? ぱらいその店員も自分たちからの提案だったと認めている。俺自身はぱらいそさんのキャンペーンの邪魔をする気なんて全く無かった。全てはぱらいそさんの自滅、ってヤツさ」
「あ、いや、でも、そうじゃなくて……」
司が主張したかったのは、美織がそんな負け腰で勝負を提案したことじゃないって事だった。が、今、大切なのは美織自身からキャンペーンの存続を賭けた戦いをしようと言ってきた事。それを円藤の口車に乗って認めさせられてしまった。
司は顔を青ざめて、必死に弁解しようと口を開こうとする。だけど出てくるのは「えっと」とか「その」とか、全く言葉になっていなかった。
困り果てて、隣に佇む葵を見る。
葵も「ちょっと聞いてよ」「違うの、違うんだから!」と皆に訴えてはいる。
が、
「確かにぱらいそさんの買取キャンペーンは、うちからすれば厄介なシロモノさ。かと言ってどうすることも出来ねぇ。だったら個人的にちょっと利用させてもらおうかなと思った矢先に、この展開だ。千載一遇のチャンスに可能な限りベットするのは当たり前だろ?」
円藤のここぞとばかりに回る舌の前ではまともに言葉にならず、両手をぎゅっと握り締めて泣きそうな表情を浮かべていた。
「しかし、まさか敵前逃亡とはね。同じ負けるにしても、これは酷い」
円藤は嘲るように大声で笑う……ようなことはしなかった。
むしろ同情するように司たちを見やると
「こんなザマを晒したんだ。おそらくもう二度と戻ってはこないだろう。ぱらいそはおしまいだ。どうするんだい、嬢ちゃんたち。良かったらうちの店で働かないか?」
柄にも無く真面目な表情を浮かべてそんな殊勝な申し出をしてくる。
「ヤだよ、あんたんところなんか誰が行くもんかっ!」
もっともあれだけの仕打ちの後だ。今さら心変わりなんかするはずもない。
葵がべーと舌を出して即答した。
「そ、そうですよ! それにぱらいそは終わらないです!」
舌こそ出さないものの、司も葵と同じく円藤の誘いを跳ね除けた。
円藤はもとより司たちが自店に移るなんて考えていないのだろう。これはポーズだ。全てはぱらいその自滅だと周りに理解させた後に、それでも手を差し伸べるという姿をみせることで客への心象を良くしようとする偽善。誰がその手に乗るものかと、司は円藤を蹴り飛ばしたい気分になった(ミニスカートの呪縛はしかし、そんな気持ちも押さえつけたのだが)。
「……」
「おっ、なんだい、そっちの姉ちゃんは興味あるようだな?」
葵、司と即断されたものの、何も言わずじっと見つめてくる奈保に、円藤はにっと笑いかけた。
「なっちゃん先輩!?」
「ちょ、先輩、何考えてんのさー!?」
慌てたのは司たちだ。
ここまでコケにされておきながら、まさか奈保が円藤の誘いを考慮するなんて思ってもいなかったからだ。
「……っ」
司たちは奈保の名前を呼びながら身体を揺する。しかし、奈保はじっと円藤を見つめて、視線を逸らさない。
「ふふ、よせよ、そんなに見つめられたら恥ずかしいじゃねぇか」
あまりの熱視線に、円藤が何か勘違いしていた。
「分かったよ、姉ちゃん、あんたの気持ち、俺が全身で受け止めて」
「だーかーらー、私の話をちゃんと聞けっていってるでしょーが!」
そっと抱きしめようと(そしてあわよくばその豊満な胸に頭を埋めようと)した円藤に、奈保のえぐり込むような右フックが炸裂した。
吹っ飛ぶ円藤。
「美織ちゃんはただ遅れているだけだってば。それに」
転びそうになる円藤の体をレンが受け止める。
「最初から開始時間なんて決めてないって美織ちゃんが言ってたよ!」
……はい?
奈保の必死な主張に、みんなの目が点になった。
「あ、そう言えばあたし、ポスターに時間、書いてない!」
思い出したかのように、葵がポンと手を打った。
「そうだよ、書いてないから開店時間に来たんだよ、俺たち」
九尾が今さら気付いたのかとばかりに葵を責め、皆も一様に頭を縦に振る。
「違うんだよ。あれ、あたしが書き忘れたんじゃなくて」
葵がぶんぶんと両手を駄々っ子みたいに振り回す中、
「……時間、決めてなかったですよね、そう言えば」
司があははと照れ笑いしながら、ぽつりと呟いた。
記憶を遡ってみると確かに時間を決めたような覚えがない。キャンペーンの継続を賭けた勝負になり、『スト4』での対戦となり、一週間後という日付が決まった。が、そこで終了。時間に関しては何も決めていない。だからてっきり開店時にと思い込んでいたのだが。
「美織ちゃん、お昼までには戻るから対戦はその後でってさ!」
なんでも奈保は、美織と久乃が出かける時に丁度出くわしたらしい。深夜、寝惚けた頭でトイレに向かう奈保は、それでも「今日の対戦はどうなるんだろう?」と思って質問したそうだ。すると美織は
「別に時間決めてないし、待たせておいて。多分お昼までには戻ってくるから」
と答えて、やはり眠そうに目をしょぼしょぼさせる久乃の背を押して出かけたそうだ。
「だから人の話はちゃんと聞かなきゃダメだヨって言ったのに、このおにーさんが!」
みんなが「だったら最初からそう言えよ」と訴えたい顔になっているのを見て、奈保がぽかんと呆けている円藤を指差した。
「んなっ、ちょっと待て。今さらそんな言い訳をぶはっ!」
非難の眼差しを受けて円藤が反論を試みるも、一度狂い出した歯車は止まらない。
「それ、本当か!?」
レンが奈保に食いかかろうとする円藤の後ろ襟を掴むと、恐ろしい力で後ろに引っ張ってぶっ飛ばしたのだ。そして代わりに奈保に詰め寄った。
「うん」
「じゃあ逃げたんじゃねーんだな?」
「そうだよ。最初からそう言ってるのに、あのおにーさん、聞く耳持たなくて参っちゃった」
「おー!」
レンが諸手を挙げて喜んだ。
レンとてこの一週間遊んで過ごしていたわけではない。少しでも勝利に近付こうと、色々なゲーセンを回って力を磨いてきたのだ。不戦勝なんて欲求不満な結末な上、当てにしていたバイト料までチャラになりそうなところに、この良き知らせ。バンザイもしたくなるというものだ。
「げほっげほっげほっ。お、おい、ちょっと待てやゴラァ、オレはそんなの認めうぼがぼえっ!」
レンに後ろに引き飛ばされ、入り口付近で強かに後頭部を床に打ちつけた円藤は、それでも目の前で繰り広げられるフザけた展開に異議を申し立てようと必死に上体を持ち上げる。
それがマズかった。
「あら、今、なんか蹴り飛ばしたわよ?」
両手で椅子を抱え持って入ってきた美織が、足元がよく見えないのをいいことに、思い切り円藤の頭を蹴り飛ばしたのだ。
「て、店長!」
「美織ちゃん!」
待ちに待った美織の登場に、司と葵は駆け寄る。
「どこ行ってたんですかっ!? あやうく不戦敗になるところでしたよ!」
「もうなんで電話に出ないのさっ!?」
そして矢継ぎ早に文句の嵐。二人とも泣きそうだったんだから仕方がない。
だけど事情を全く知らない美織は「なんで怒ってんの?」とばかりに首をかしげ、「急いでたから携帯持ってくの忘れてたわ」と苦笑いすると、店内に大勢の役立ちそうな人間が集まっているのを見て、にんまりと表情を崩した。
「おー、いっぱい力ありそうな人が集まってるやん。ちょっと手伝ってくれへんかなぁ」
美織の表情にリンクするように、今度は外から久乃の声が聞こえてくる。呼ばれて司が外に出てみると、幌がついたトラックから丁度久乃が降りてくるところだった。
「久乃さん、どこ行ってたんですか?」
「んー、寝てるところをいきなり美織ちゃんに叩き起こされてな? 頼んでいたものが急に配送されなくなったから取りに行くゆーて、トラック借りて運転させられててん」
そして久乃は軽トラの荷台後部の幌を外し、運んできたものを公開した。
「おおっ!」
現れたモノを前に言葉を失った司の後ろで、いつの間にか店から出てきていたレンが思わず感嘆の声をあげる。
「どう、新品よ?」
いつの間にか抱えていた椅子を床に置いて腰掛けた美織が、偉そうに足なんぞを組みながら、平らな胸をこれでもかとばかりに剃り返していた。
「私たちのこれからを決める勝負だもん。相応しい舞台を用意しないとね」
さぁ、男たちよ、運びなさい、傷一つでも付けたら容赦ないかんねっ、と美織が指差す先には、アーケード用の対戦台がふたつトラックの荷台に鎮座していた。




