第二十一話:このヒロインに登校イベントは用意されていません
「うーん、と。よし、問題なし」
ぱらいそで再び働くようになってから、司は何かと自分の姿を鏡でチェックする事が多くなった。
そして今も乗り込んだエレベーターの姿見に映る自分の格好を確認している。
ただ、いつもはどれだけチェックしても不安が残るのだけれど、今日はどこかホッとしたものを感じた。
何故なら今日はここ最近の男の娘ではなく、長年慣れ親しんだ坊主頭に、本来の性別に相応しい、詰襟の学生服姿だからだ。
服も、鞄も、おまけに靴も真新しいのは、今日おろしたばかりだから。
そう、今日は四月八日。
今日から高校生になる司が、しかし、朝一番に向かっているのは学校ではなく、ぱらいそが入るビルの最上階……ぱらいそスタッフたちに用意された部屋のあるフロアだった。
男の娘になることで、ぱらいそへのバイト復帰を果たした司。
だけど、居住権はそうもいかなかった。
「えー、あたしは一緒でもいいと思うけどなー」
「ダメよ。年頃の男と女なんだから、何かあったら大問題じゃない!」
「んー、誰かつかさ君と問題を起こそうと思っている人、いたら手を上げてー」
「奈保、一番危なっかしいあんたがそれ言うと洒落にならないからやめて」
「やだなー、私、誘惑するのはお金持ちだけって決めてるもん!」
「とにかく、や」
司との同居を認めるか否かで揉めるみんなを、久乃が落ち着かせる。
「これは珍しく美織ちゃんの言うことが正しいとうちも思うなぁ。もちろん問題なんか起きへんと信じとるけど、こういうのは疑われる状況を作るのがそもそもマズいんや」
年長者の久乃らしい、大人な意見だった。これには同居賛成派の葵も反論出来ない。
「てことで、悪いけど司クン、住むのは変わらずあのアパートでええかなぁ?」
久乃の問い掛けに、司は素直に頷いた。
変に加熱した討論だったけれど、当の本人は正直どちらでもいいと思っていた。
司にとって大切なのは、ぱらいそで働くこと。そりゃあボロアパートと、追い出された部屋では待遇に雲泥の差はある。だけど、周りが女の子だらけだと何かと窮屈そうでもあった。そういう点では、ボロアパートは気兼ねなく住めて楽そうだ。
「そやけど」
ただ、話はそこで終わらなかった。
「ご飯はこっちで用意するさかいな。司クン、料理はでけへんやろ? あ、遠慮せんでええで? どうせ他のみんなの分も作るんやし、一人分ぐらい増えても問題あらへんからなぁ」
というわけで、朝はぱらいそへの出勤一時間前に朝食を戴き、夜はぱらいそでのバイトが終わった後、夕食を食べてからアパートへ帰るのが常になっているのだった。
チーンと音がして、エレベーターの扉が開く。
他の階と違って関係者しか立ち入ることができない最上階は、エレベーターが玄関に直結していた。
靴を脱ぎ、広く幅を取られた通路を歩く。
通路の左右にはトイレやお風呂のほかに、個々のスタッフに用意された部屋があった。それぞれ十畳ほどの、一人暮らしには充分な広さの部屋だ。
そして通路の先にはカウンターキッチンを備えた、とても広いリビングルーム。大きなテレビや座り心地のよいソファ、向かい合わせに五脚ずつセットされたテーブルなど、フロアに相応しい大きさの家具がそれでも充分な余裕をもって配置されている。
かつて司はこのリビングルームが苦手だった。
何故なら本来は三世代家族が住むようなこの物件に、わずか一週間ほどとはいえ一人で住んでいたからだ。
移り住んだ時は喜んで、リビングのテレビにゲーム機を繋げて遊んだこともあったが、すぐにこの空間に一人でいることの寂しさを味わった。だから入居して三日も経つ頃にはキッチンでお湯を沸かし、カップラーメンやコーヒーを作るだけの部屋になっていた(そして作ったラーメンなどは自分の部屋に持って行って食べていた)。
だけど今は……。
「あ、おはようさん」
「おはようございます、久乃さん」
「ふーん、やっぱ司クンも男の子なんやねぇ。似合うとるよ、学生服」
リビングの扉を開けると、気付いた久乃が司に声をかけてくれた。
「ふがっ? ふがががが」
「なっちゃん先輩、おはようございます」
「ふがふがっ……ごっくん。おはよー、つかさ君、今日は早いね」
「今日から学校が始まるんです」
「あー、なるほど。よし、じゃあおねーさんが入学祝にトーストを焼いてあげよう。何枚いるかなー?」
朝から元気よくパンを頬張る奈保が「さぁさぁ隣りに座りんしゃい」と椅子を引きながら、司の分の朝食を用意してくれた。
「ふわぁぁぁ……おはようございます……」
「あ、葵さん、おはよう……ございます」
「……うん、おはよう……って、ええ!?」
焼きあがったトーストを食べていると、葵がパジャマ姿のまま、しかもだらしなく服をたくし上げて、ヘソ丸出しのお腹を掻きながらリビングに入ってきた。
唖然としつつも返事をする司に、慌ててソファの物陰に避難する葵。
「ちょ、なんで!? なんでこんな時間に司クンがいるのっ!? いつもは九時前ぐらいに来るのにっ!?」
「だって今日から学校が始まるから……」
「……しまった! 何の用意もしてないよ、あたしっ!」
一気に眼が覚めたらしい葵が、パタパタとスリッパの音も慌しく自室へと戻っていく。
司は呆れつつも、だけど顔は自然と綻んだ。
寂しかったリビングが、今ではとても賑やかで。
それはとても幸せなことに感じたからだ。
ただ。
「……で、店長は?」
「美織ちゃんはまだお寝んね中や。まぁ、店を開ける時間までには起きてくるから心配あらへんで」
一番騒がしいであろう人物がいないことに、司は少し複雑な気持ちになる。
「学校? 行かないわよ、そんなもん」
数日前、なんということはないとばかりに飛び出した美織の言葉が、頭の片隅にこびりついて離れなかった。




