―第4章 ヒグチ―
「樋口くん。樋口くん。」
佐鞍は樋口少年に話しかける。
「あのさ、今日のセミナー終わったら、話があるんだけど。お茶おごるよ。」
樋口は佐鞍を見て、そしてハキハキと棒読みで答えた。
「はい、いいですよ。」
そして部屋の扉が開いて戸口から阿奴田と芹澤が一緒に入ってくる。この二人はいつも一緒なのだな、と佐鞍はよく思う。芹澤は今日は花柄のワンピースだ。
「佐鞍くん、樋口くん、田中くん、芹澤くん・・・よし、全員揃ったね。」
阿奴田は言った。
「ザ・マン・プロジェクトの今後についてだけど、このまま僕たちの自己満足で終わらせてはいけないと思う。だから、僕たちが一丸となって、フーリッシュの人たちにきちんとザ・マンの素晴らしさを伝えるべきなんだと思う。」
一丸となって伝えるべき、か。佐鞍はちょっとその言葉が飲み込めなかった。
「そのために、意識あわせをしておきたい。だから紙にしておいた。熟読してく れ。」
阿奴田から紙が一枚一枚配られる。途中一枚余ってしまい、何だこの一枚はと阿奴田はその紙をヒラヒラとなびかせ、パソコンの傍の机に置く。佐鞍は裏返しにされたその紙をめくって文を読む。
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ザ・マン・プロジェクト 基本理念
★ザ・マン・プロジェクトは最終的に多くの人に普及される必要があります。だから、その前に私たちが良い手本となれるよう鍛錬に励みましょう。
★私たちは本来宿命から解き放たれた自由の人であり、宿命について考えて自らの力を弱めないようにしましょう。
★もしも迷ったり、誰かが言った事で戸惑ってしまったら遠慮なくマスターの阿奴田に相談しましょう。勿論、私たちは自由人ですので、最終的には私たちで選択していきます。
阿奴田タツヒコ
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佐鞍はその文を一読した後クリアファイルに挟み込んで鞄にしまった。
「さて、今日は、」
阿奴田は言った。
「屋上に行きましょう。」
さて、阿奴田に言われるままに4人の男女は彼に続き屋上にたどり着く。人数をふたたび確認したのち阿奴田は空を見ながら言った。
「今日は、テレポーテーションの訓練です。いわゆる瞬間移動。ただしザ・マンの瞬間移動は少し特殊です。いわゆる作り話のテレポーテーションのイメージみたいに、 自分はあの地点まで行くんだーと想像するのは違います。それは主体よりも場所に依存した考えですが、ザ・マンの場合は、場所ではなく、私、私自身がすでにこの場所にいると確信する事が大事なのです。」
そしてこちらを振りむいた。
「テレポーテーションはすこし難しいので、事故の無いように多少広い空間でやる必要があります。 そこで今回は特別に屋上をお借りしました。」
それで昨夜事務室にいたのだな、と佐鞍は気づいた。
「さあ、一人ずつやりましょう。まず、樋口くん。」
4人の中で樋口が前に進み出る。
「両手を天にかざして、あの向こうのフラフープのある場所がいまここにいると思って。」
樋口は両手を逆ハの字に広げて、眼を瞑り念じる。そのまま時間ばかりが過ぎていく。風が吹き、樋口は寒さのあまり手で身を覆う。
「あ、うん。やはり最初のうちは難しいよね。よく頑張った。次、田中くん。」
樋口は受講生達の中に戻るが、田中は阿奴田をじっと見つめているだけである。
「田中くん?」
田中はまばたきをした。
「・・・まあしかたないな。次、芹澤くん。」
芹澤は首を回し両腕を組んでぐるぐると捻り、両手を広げて眼を閉じる。たちまち芹澤は既に遠くにいたが、少し身体が斜めに傾いていたので派手に転んでしまう。 フラフープもがらりと揺れる。
「きゃっ」
「おおお、よくできた!」
芹澤は不満そうに服のホコリをはたきながら皆の所に戻る。
「では、佐鞍君。」
「はい。」
4人の中にいた佐鞍真っ直ぐ前を歩くと既にフラフープの上にいた。
「おいおい佐鞍君、そこはゴールだろ。最初からそこにいちゃ意味無いよ。」
阿奴田の言葉に佐鞍は混乱して「え?」と聞き返した。
「だからちゃんとこのスタートの位置から君のいるフラフープの位置にテレポーテーションして。」
「えと、もうしましたよ。」
「だからそこはゴールだろ。そこでフラフープしても立ってる事と変わらないって」
「さっき向こうからテレポーテーションしました。そして今ここにいます。」
「あ・・え?」
佐鞍は気づいてしまった。阿奴田は佐鞍の運命操作に全く気づいてなかったのだ。 阿奴田は口を開く。
「・・・そうなんだ。ふーん。」
いつものように褒めるどころか、阿奴田の口調が徐々に冷めてきている事に佐鞍は驚いた。
「まあそんなのができたって、まだまだ大したレベルじゃないからね。調子に乗ると失敗するからね。」
急に否定的な言葉を投げかけられたので佐鞍は困惑した。さっき少し失敗していた芹澤が下を向いているし、このままでは彼女がかわいそうだ、何だかこの場を収めなければと慌てて佐鞍は言った。
「いや、その、まあ、今後も安定してテレポーテーションができるよう、が、頑張ります。」
「力を過信するのは良くない。」
阿奴田はボソリと冷たく言う。 「まだそういう段階じゃないのに当たり前みたいにザ・マンが使えるという顔をされても困るんだ。」
「あ・・・阿奴田さん?あの・・・」
「テレポーテーションなんかできて当たり前だよ。ザ・マンはもっと奥深いものだ。君にはもっと勉強してほしい・・・どうするべきか、もっと・・・。」
阿奴田はそのままフラフラと屋上の階段から下がった。樋口は呆然としていた。 田中は芹澤を無表情で見ていた。芹澤はその華奢な長身を震わせ、涙を流していた。 佐鞍が心配になって声をかける。
「せ・・・芹澤さん・・・?」
「トオルくん!」
芹澤は佐鞍の胸に泣きつく。
「せぇ、芹澤さぁん?」
「私、悔しいの・・・とても悔しいの・・・ザ・マンの力でトオルくんに負けたことじゃない・・・阿奴田サンが、遠回しに、自分が大した事ないっていってきたみたいで、とても、悲しくて、苦しくて、どうしたらいいか、わからないの。」
「・・・・。」
「トオルくん・・・あたしどうしたらいい・・・。」
「どうしたらいいか僕はうまい答えがわからないけど・・・。」佐鞍は言った。「とりあえずこういう時のためにザ・マンはあるんじゃないかな。」
佐鞍が芹澤の安心を願った時、芹澤はすでに泣いていなかった。気分があっという間にすっきりしていた。安心したように微笑んでいた。佐鞍はもたれかかる芹澤の背中をポン、 ポンと叩きながら、ああ、この人もいろいろと苦しい思いをして、阿奴田さんについていこうとしてたんだなあ、と思った。田中が佐鞍と芹澤を真顔で凝視していた。 あまりにも澄み切った鋭い瞳だったので佐鞍は心臓が少し縮んだ気がした。
「それで、今日のお茶はどうしますか?」
樋口が佐鞍に言った。阿奴田の姿は無く、芹澤は先に帰ってしまっていた。田中はいつのまにか消えている。
「そうだね、まあ・・・微妙な感じだけど、これからしよう。」
「わかりました。」
カフェに向かう道を歩きながら、佐鞍は言った。
「明日はセミナーあるのかねえ。」
「明日はありますよ。」
樋口が唐突な口調で言うので佐鞍は聞き返す。「どうしてそう思うんだい?」
「わかるんです。あれだけで終わりじゃないって。」
「・・・やっぱりか。」
「何でしょう。」 樋口が佐鞍を訝しげに見る。
「いや、丁度、カフェに着いたから、続きはそのときで。」
店に入った佐鞍は店員にアイスティーとカフェオレを頼む。その二つを持って、 樋口に取らせていた席に座り、アイスティーを樋口に渡して樋口が少し飲んだ時に、 佐鞍は口を開く。
「樋口くんさあ、なんか先が見えるんでしょ。」
樋口はストローから口を離す。
「先?」
「この先何が起きるのか。『予言の眼』っていうのかな。」
「ああ、そうですね。」
「それってどうやって手に入れたんだい?」
「わかりません。でも、ザ・マンからすると邪魔ですよね、これ。」
「うーん。それなんだが。」 佐鞍は右手の指先で額を押さえながら言う。 「別に否定する事ないと思うよ。」
「どうしてですか?」
「それも、君の意思なんだろう?」
「阿奴田さんは今日配った基本理念で宿命について考えたら力を弱めるとか書いてましたよ。」
「うーん、そうかね。」
「だって今日テレポート全くできなかったじゃないですか私。」
「ザ・マンはそんなに素晴らしいのか?」 言ってしまって佐鞍は思わず口を押さえた。何でそんな事を、このザ・マンを学ぼうとする少年に言ってしまったのだろう。 佐鞍は慌てて言直す。
「・・・・いや、気にしないで・・・。」
「いいですね。」
少年の思わぬ言葉に佐鞍は耳を疑う。「え?」
「あなたは生き残れそうな気がします。貴方の言う私の『予言の眼』がきっとそう思わせているのでしょう。ですが、私はもうすぐ死ぬ気がしてしょうがないのです。」
それは何かを思い出させる言葉だった。少年は言葉を続ける。
「だから、その宿命から逃れたくて・・・ここに来ているんだと思います。」
「阿奴田に助けを求めているのか?」
「私は彼を全く信じていません。私より力はあるのでしょうが、今の受講生たちより明らかに実力が無いです。ただ、ここに導かれるべき理由は、何となくここにくるべき最も強い確信があったのです。」
「そうか・・・。」
「僕は芹澤さんも信用できません。あの人は今が見えてない。僕が信用しているのは田中さんと、今、貴方だけです。」
「田中さん?」
「はい。一度話してみてはいかがでしょうか。まったく記憶は無いですが、あなたの言った事にもっとも率直に答えてくださると思います。」
「そうか・・・。」
佐鞍はカフェオレをストローで飲み始める。
「明日はセミナーありますけど、明日でセミナーは終わると思います。」
樋口少年のその突然の言葉に思わず佐鞍は口からカフェオレを少し垂らしてしまったので慌てて紙ナプキンで拭う。
「・・・・え?」
「明日、セミナーが完全に終わると思います。でも、僕たちはまだどうすればいいか分からない。そんな気がします。」
「そんなあ。」
「この終わる予感が、ザ・マンの力で覆す事ができるものなのか、わかりません。」
二人はそのまま沈黙してしまった。もしも明日が本当に終わってしまうのだとしたら自分がこれまでやっていた事は何だったのだろうと佐鞍は思ってしまった。前に樋口に「あなたはどうしてここにきた の?」と質問したときに返した言葉をふと思い出した。
「君がこれからどうすればいいのか、そのうち分かる時がくると思います。」
まだ正直分かっていない。実際どうして入ったのかも分からないザ・マン・プロ ジェクトが、明日突然終わったとして、どうすればいいのかさえ分からない、それとも自分は人生を知る上で大事なステップを卒業することができていないから、わかっていないのだろうか・・・そう思いながら佐鞍は帰路に着く。
「おかえり、あなた。」
玄関扉を開くとルリが迎えに来た。
「今日は美味しい肉じゃがよ。お風呂は入ってるわよ。」
「ああ、ありがとう。肉じゃが、楽しみだなあ。」
佐鞍は朗らかに笑った。瑠田だった彼女とは、いつのまにか結婚していたのだなあ。
翌日。
「田中さん、田中さん。」
セミナー前に田中しかいなかったので佐鞍は田中に話しかける。しかし田中は自分の名前を識別してないのかずっと前を向いて真顔でいた。
「田中さん。話せますか。それともこっちから話しましょうか。」
田中は答えない。
「あの、ザ・マン・プロジェクトについてどう思われますか?」
「ザ・マンは虚構です。」
突然答えたので佐鞍は驚いた。
「・・・・虚構?」
「ザ・マンは虚構。」
「うそということですか?」
「虚構。」
「虚構ならばなんでこんな色々できるんですか。」
「この世ではもっとも正直なことよりも、望みの強烈な嘘の方が、目に見えて不思議な事が起き易い。だから皆だまされる。」
田中がこちらに目線を合わせもせずいつになくよく話すので佐鞍は彼をまじまじと見つめてしまった。田中は突然こちらを向いたので佐鞍は驚いて後ろに跳び下が る。田中は人差し指を佐鞍に指し、ぐるりぐるりと回した後に言った。
「おまじない。」
佐鞍は田中を訝しげに見るが、田中は気にすることなく言葉を続ける。
「予言の眼。」