―第3章 マナベ―
「自分の過去を再構築するだけで未来を変える。」
阿奴田は円形状に椅子に座る5人の間を練り歩きながら言う。
「これができるということは、あなたがたは世界と繋がっているわけで、つまり自分の意識と世界をほぼ同一にできる正直さがあるのです。」
阿奴田の声、足音、窓の外からの風音と車の音、そして部屋の中を流れるありきたりな爽やかなBGM。佐鞍は眼を閉じる。BGMは徐々に交じり合い、シックなバラードへと変わっていく。
「しかしこの世を支配するフーリッシュたちはあまり正直ではありません。正直ではないにも関わらず、これが当たり前だと信じ、そして正直に生きる事から抑圧し、他人にプレッシャーを与えるのです。」
シックなバラードはやがて佐鞍の好きだったクライスラーのヴァイオリン音楽へと切り替わっていった。クライスラー。中学生時代に好きでよく聴いていたなあ。 気分が沈んだ時とか何となく聴くような感じで再生機に流していたっけ。
「過去・宿命・予測・責任・意味・・・これらの因果の縛りがいかに私たち人間を苦しめ自由の悦びを奪っていったか。すべてから解き放たれるのです。」
過去かあ。僕は特に過去を暗いと思った事がなかった、と佐鞍は漠然と思った。 とにかく自分が、なんのためにザマンを、と意味ばかりに捉われるのは、特に解き放たれるような過去も責任もなかったから、今そのザマンの意味ばかりに捉われる。 もしかしたらその、クライスラーを聴いた過去の思い出も、自分を苦しめ自由の悦びを奪っていったということだろうか。BGMの音量がどんどんと下がってく。
「これから私たちが行くのは全ての因果を捨てた、新しい自由。新しい自由を作り出す事。それをフーリッシュの皆さんにも分かっていただけるという事です。」
いや、本当に否定すべきだったのだろうか。何か否定してはいけない気がする、と佐鞍がふとひらめいた時に、阿奴田が説教を止めて言った。
「おや、音楽が止んでしまったようだ。」
そして薄いパソコンに向かい、カチカチ、と押す。
「あれ・・・?再生できない?」
カチカチ、カチカチ。
「何でだよ・・・。データが壊れるってどう言う事だよ。」
いつもの穏やかな声とは打って変わって非常にイライラした口調なので佐鞍は驚いた。しばらくしてあきらめたのか阿奴田は立ち上がって言った。
「・・・・・仕方ありません、音楽は無しですね。」
「お前さん、阿奴田を凌駕したんだな。」
帰り際にエレベーターの脇のトイレの近くで老人・眞鍋が意地の悪い笑みを浮かべて佐鞍に言った。
「・・・なんで私がやったって分かったんですか?」
佐鞍は疑問に思って訊ね返す。芹澤がエレベーターに去り際にこちらをチラリと見ていた。
「俺は別にただ、気づいただけだぜ。」
眞鍋は下を振り向きながら言う。
「あまり知られてないことだがザ・マンの力は、強い方が弱い方に従える性質がある。お前さんは阿奴田より強くなった。だから阿奴田はお前さんがもたらした音楽の変化に気づかなかったし、元に戻すためのザ・マンを使えなかったようだ。まああの音楽を適当に選んだからだと思うが、しかし、」
眞鍋はエレベーターの下のスイッチを押した後言葉を続けた。
「あいつは音楽が鳴らなくなったからといって随分と態度を荒げていたな・・・ 思い通りにならないとどうせああいう風にすぐ怒るんだろう、奥さんができたら奥さん可哀想だろうな、まあ奥さんがあのクソ女・・・じゃないだろうな、どうせあれは利用できるだけ利用するために寄生させるんだろう。本当の奥さんにはこわーい阿奴田爆弾のクッションになってもらわないとな。ひゃっひゃっひゃっひゃ。」
随分阿奴田の事を言えない性格の悪さだなと佐鞍はちょっと思ってしまった。 エレベーターが開き佐鞍は眞鍋の乗っている車椅子を押して中に入れる。
「おう、悪いな。」
「いえいえ。」
「あのな。」 眞鍋がそう言ってふと黙る。あまりに黙ってしまったので佐鞍は聞いた。 「・・・・なんですか。」
「・・・その・・・うん・・・もしもだ。」
眞鍋が口を開く。
「もしもお前さんが、より強くなりたければ・・・阿奴田とクソ女の言う事は・・・今後信用するな。」
「え?」
眞鍋はニカッと笑う。
「全ての因果を無視して自由になるというのは、過去を横暴にも書き換えるってことは、未来なんてどうでもよくなる。先を見据える力を失うと言う事を意味する。先を見据える力は、予測、運命、責任のようなもので、それ自体をも自己実現のために変えようとするザ・マンとは全く対立する概念 だからな。」
この老人はその先を見据える力があるんだな。
「先の予測無しに完全に自由になるのは、不可能ではないが、そんなやつはザ・マン・プロジェクトに行かんでも初めから達観している。お前さんたちは必死に因果を無視しようとしているが、しかし、正常な人間ならばどうせ何らかの拠り所を求めたくなるだ ろう。」
「まあ、そうですかね。」
「するとどうせここでも拠り所がほしくなる・・・自由な反面どうしていいかわからず、ザ・マン・プロジェクトを伝える事が自分の自由だ、と思わなくてはなくなる。奴隷の出来上がりだ。」
青天の霹靂。
「あ・・・。」
「だけどな、お前さんは大丈夫だ。俺はそれが見えている。ま、せいぜいがんばれよ。じゃあな。」
エレベーターの扉が開き、眞鍋は佐鞍に手を振ってさっさと先に進んでしまって いた。一体、眞鍋の言った事が本当だとすると・・いや、どうなのだろう。佐鞍は分からなくなる。
「いらっしゃいませ、ああ、佐鞍さん。」
バーテンダーの瑠田がにこやかに話しかける。
「いやあ、ビール一杯頂けないかな。」
「かしこまりました。」
瑠田は瓶とジョッキを持ってバーの机にコツンと置く。
「はいどうぞ。」
「ありがとう。」 佐鞍はビールを次いで、杯を持って冗談めかして言う。
「それじゃ、乾杯。」
「乾杯っ!」 握りこぶしで瑠田は返し、佐鞍がグイっと飲む。瑠田が話しかける。
「今日はどうでした?」
「今日は、仕事終わらせたらザ・マン・プロジェクトに行ったよー。」
「ザ・マン・プロジェクト・・・?」
「あれ、知らないのか。」そういえば前は瑠田はザマンの会員だったはずだが、気がつけば店員と客の関係になっているな、と佐鞍は気づきながら話した。「運命を操作して思い通りにし、人間の真の自由意志を解放 するとかいう。」
「それなんか怪しい宗教とかセミナーじゃないですか?大丈夫ですか?」瑠田は訝しげに言った。
「いやあ嘘じゃないよ。ほら、このジョッキがね・・・」 そう言って佐鞍は丸いジョッキが四角くなるように願ってみた。
「・・・何も起きないじゃないですか。」
「あれ、おかしいな。まあいいや。」
「騙されてそのうちお金請求されるんじゃないですか?」
「いやあそんなことないけれど・・・」
「気をつけてくださいよー。人生一度きりですから。」
「うーん、そうだね。」
「じゃあ、私持ち場戻りますね。」
人生一度きり、か。そういえば死ぬと言う事も大きな宿命ではあるな、と佐鞍は思った。つまりザ・マン・プロジェクトの最終到達点は生死からの超越という事なんだな。
ということは、普通の人間が因果に捉われるのはひょっとして生と死という明らかな宿命によって全て考えているのだろうか?と言う事に佐鞍はふと気づく。人が生きて死ぬからこそ、その中でいかに生き延びてどう振舞うかを見定めていく。それ が因果律へと発展するならば・・・
『因果を無視して自由になるというのは、先を見据える力を失うと言う事を意味 する。』
『お前さんたちは因果を無視しようとしているが、しかし、正常な人間ならばど うせ何らかの基準を求めたくなるだろう。』
『するとザ・マン・プロジェクトを伝える事が自分の自由だ、と思わなくてはな くなる。』
それらを回想しながらふと佐鞍はこの言葉が思い浮かんだ。
(自分はもしかして自由を求めて死に至ろうとしているのか?)
ますます、佐鞍は分からなくなって頭を抱えた。自分は何のために、ザ・マン・ プロジェクトに入ったのだ?自分は何がしたいのだ?どうすればいいのだ・・・?
「ちょっと佐鞍くん、最近調子悪いね。大丈夫かな?」
阿奴田が言った。
「葉っぱ一枚色を変えただけじゃないか。どうしたんだ。君にはすごい力があるのに。」
「うーん・・・。」
佐鞍は地面を見つめる。阿奴田は言う。
「ちょっと、体調整えなさいね。」
「はい。」
「佐鞍くん。ちょっとお話いいかしら?」
黄色いカーディガンの芹澤から話しかけられる。いつのまにか佐鞍は芹澤に誘導されるようにキッチンにいた。芹澤が訊ねた。
「眞鍋さんと昨日なんかお話したでしょう。」
「あ、え、まあ。」クソ女呼ばわりしたので気がひける。
「どんなお話したの?あたし気になる!」
満面の笑みでそう訊ねてきたので、ああ、そうか興味があるんだなと思って安心して佐鞍は話し始める。
「なんか面白い事言ってまして。」
「うんうん。」
「ザ・マン・プロジェクトは過去とか宿命とかそういう因果を否定して自由を手にするというものですよね。」
「否定というか越えて、ね。」
「ああ、はい。それで、眞鍋さんは、一方それは先を見据える力を否定する事に なる、と言ってたんです。」
「へぇ~どういうことかしら。」
「僕なりに考えたんですが、多分、ザ・マンは色々因縁から抜け出して自由を探求するけど、そうすると、この先どうすればいいのかというのが見えなくなるんじ ゃないかと言う事だと思います。まあ色んな考えがあって面白いですね。」
「そうなんだー。」
芹澤のあどけない笑顔で佐鞍はドキリとする。
「あのね。」
芹澤は言う。
「眞鍋さんとはもうあまりお話しないほうがいいと思うんだ。」
「え?」
佐鞍は驚く。芹澤が説明した。 「眞鍋さんは、老いてすっごい病気になって、そのリハビリとしてここに来てね、すごいザ・マンを発揮していたわけ。でもなんか途中で私と阿奴田さんの事が嫌いになっちゃったのかな?それで全く力を出さないただの老人になってしまったの。 だからね、佐鞍くん。」
芹澤は佐鞍の両腕を掴む。
「君には眞鍋さんみたいに力を失って人生を嘆くような人にはなってほしくないんだ。」
佐鞍は思わず心がじわりときた。自分はなんとくだらない事にくよくよしていたか。芹澤さんの慈愛、それだけで十分じゃないか。自分は全ての疑問が解決された、 と佐鞍は確信したのだ。芹澤様、あなたがきっと良い所に導いてくれて・・・
「人生を嘆くような人だとォ?ひゃっひゃっひゃっひゃっひゃ。」
老人の高笑いがキッチンの向こうから聞こえる。
「俺はそこのクソ女よりは100倍人生と戦っておるぞ。」
芹澤がキッチンから部屋へと出て行ったので佐鞍が着いていくと、眞鍋が車椅子に座りながら発狂に近い恐ろしい形相でこちらに眼を剥きながら笑っていた。
「だが、たしかに目の前の問題に立ち向かわなかったかもしれん。言う通り、ここを出るぞ、ここをォ、うひゃっひゃっひゃひゃ」
「眞鍋さん。あなたは迷っているのです。今冷静になって、自分が本来何をすべきかを」
「うるせえ!」
眞鍋が叫んだので芹澤は思わず黙り、間髪入れずに眞鍋は叫ぶ。
「帰るぞ!佐鞍!」
佐鞍は眞鍋と芹澤をかわるがわる見て、よく分からないまま為すがまま車椅子で部屋の外に出る眞鍋を追いかける。芹澤は呆然と部屋の中に立っていた。エレベーターの中に佐鞍と眞鍋が入ると眞鍋は佐鞍にしがみついた。
「どどど、どうしたんですか眞鍋さん。」 眞鍋は顔を涙でぬらして叫んだ。 「頼んだぞ、佐鞍・・・。」
「え・・・?」
「俺はやがて死ぬ事を『予言の眼』で知っている。そしてこの予言の目こそそが ザ・マン・プロジェクトが敵視していた存在だ。相手より強いザ・マンを持っても相手の運命操作に気づくだけで運命操作を免れるわけではない、が、予言の眼さえあれば全く防ぐ事ができる。」
「予言の眼・・・先を見据えるとか言ってたやつですね。」
「そうだ。先に何が起きるのかを予測する、観察力のようなものだ。俺はザ・マン・プロジェクトで樋口ってやつと友達になった。」
「樋口・・・?あの少年?」
「その父親だ。彼ら親子も俺たちと同じく阿奴田に導かれるように入った。だが、 息子は父の記憶を覚えちゃいない。」
「なぜですか。」
「父の運命は完全に操作されて初めからいなくなったからだ。」
佐鞍はその言葉を、理解するのに、時間がかかった。
「・・・・え。」
「樋口は予言の眼が強すぎた。息子も強かったが、父はザ・マン・プロジェクトの愚かしさが許せなくなり、ある日セミナーの途中で俺がお前に言ったような疑念を阿奴田にべらべら言ってしまったんだ。そしたらそいつは初めからいなくなっちまった。」
「・・・・。」はじめから、いなくなってしまった。
「しかしなぜ俺は覚えているんだろうな。おそらく俺は初めから嫌な予感がしていて抵抗し続けたんだ。そこで記憶が変更されずに済んだ。無抵抗だと翻弄されてしまうものだからな。あの樋口のガキみたいにな。」
エレベーターがまもなく1階に着く。
「お前には強いザ・マンと正直な心がある。何の害意なくクソどもを怒らせたのがその証明だ。自分を信じて、本当の幸福に辿り着いてほしい。俺はもう、だめだろう。どうせバレてしまってるんだ。キッカケさえあれば俺はどうせ消える運命だったのだ。そして、樋口のガキを、予言の眼をもつ樋口のガキと話してくれ・・。」
・・・そういう声がエレベーター内で響いたので何だろう、と佐鞍はあたりを見回した。 誰もいないし、幻聴だったのかしら。ちょっと佐鞍は怖くなった。しかしそれは思い返せば深い悲しみと暖かい励ましがあった。不思議とザ・マン・プロジェクトに いた時よりも心の熱さを強く感じていた。目に見えない所から、迷える自分が見守 られているのだ、と不思議とそんな気がした。
扉が開く。受付に何やらやり取りしている阿奴田がセコセコとビルから出ていた。 さて、これからどうしようか、と佐鞍は考えた。とりあえず、樋口サネヒコくんに 声をかけてみよう。「予言の眼」を持つとされる彼から何か色々な情報が聞けるはず。 そして、おそらくはこのザ・マン・プロジェクトから脱会せねばいけないという事も佐鞍は感じていた。だが、それをするのはどうやら非常に恐ろしい事らしい。まず、あのセミナーにどっぷりな阿奴田と芹澤をどうするか・・・。
「よっ」
後ろから肩を小突かれた。芹澤ショウコである。
「せせ、芹澤さん!」
佐鞍は思わず叫んでしまった。
「ずっと思ってたけど、あなたもどうせ阿奴田さんの事を疑問に思ってるんでしょ。」
「え、いや、その・・・」
キッチンの一件もあって恐ろしい質問に佐鞍は思わず口ごもる。 しかし芹澤は微笑んだ。
「私も、彼は変だと思う。」
「え?」
「何かヒステリックというか、空威張りというか・・・ちょっと指導者として怖い人だとはよく思うの。」
「そ、そうなんですか。」
「内緒よ。」
芹澤はそういって手を振りながら華麗にビルの外へと出て行く。今度は佐鞍が、35階の芹澤のようにその姿を呆然と見つめている。