―第1章 アヌタ―
佐鞍トオルは驚きで目を見開いていた。狭い路地の目の前に中年の男が立っていた。四角い顔に髪の毛が多く生えており、丸眼鏡の奥の広い両眼は閉じられ喜悦の表情で両腕を広げている。外観の特徴だけ上げればごく普通のスーツ姿の中年なのに、どことなく強烈に佐鞍の目を引いたのである。
男は目を開きYの字の姿勢のまま佐鞍を見つめて言う。
「あなたは恵まれた方だ。」
佐鞍は返す言葉もなく口を開いていた。男は続ける。
「素晴らしい。あなたは運命操作人ザ・マンとしてこの世の中を渡るでしょう。」
「運命操作人ザ・マン・・・?」
佐鞍は男の言葉を繰り返す。
「はい。運命を操作する力。」 男は手を下ろし直立した格好のまま両足をハの字に広げる。 「それは当たり前の中にある、自由意志の本質。」
「あの・・・。」
「今、あなたは拒絶している。人間誰しも持つ偉大な力を!」
「・・・・。」
「いいでしょう。今ここで貴方の運命を操作します。」
「え、え。」
「もう終わりましたよ。」
「あの、帰ってもいいですか?」
「帰るってどこへだね?」
「そりゃ家です。」 そういって佐鞍は後ろを振り返り、すたすたと男から歩き去る。
「そこにもう君の帰り道があると思うのかね?」
「アアうるさいなあ!」 佐鞍は耳を押さえてそのまま走る。路地を出て車の通る交差点。その目の前で次どこに曲がろうか考え、佐鞍は再び踵を返し、狭い路地へと向かう。路地を通り過ぎると高いビルが目の前に聳え立つ。佐鞍は番号つきドアベルの番号3512を押 す。すると男の声がドアベルのスピーカーから聞こえてくる。
“どなたですか”
「佐鞍です。」
するとロックが外れ、自動ドアが開く。佐鞍はドアの中のエレベーターに入り、階数である35のボタンを押す。急な気圧の変化に佐鞍は思わず耳を押さえる。エレベーターは開かれる。
(35階の12室・・・。)
佐鞍は8、9、10、11と順番に扉をたどり、やがて12室を発見する。扉には「『ザ・マン・プロジェクト』代表・阿奴田タツヒコ」と書かれた代表者の名前が あり扉の右側にホワイトボードでこう書かれている。
☆ザ・マン☆プロジェクト☆
あなたは人生に疑問がありますか?
もっとこれができたら良かったと思いますか?
自由意志の新しいあり方を研究し
真の人=ザ・マンになって
自分を抑圧から解放する事で
共に 人生と世界を変えていきましょう!
←くわしくはこの扉から←
佐鞍は扉をノックする。
「はーい。佐鞍くんね。」
代表者の阿奴田タツヒコが現れる。丸眼鏡で四角い顔、髪の毛が生えてボサボサである。
「ようこそ、このザ・マン・プロジェクトへ。ここでは人間だけが持つ自由意志の可能性を探求し、さらに豊かで本当の幸せを掴み取る事を目的とする組織であります。」
阿奴田が佐鞍の背中を押して中に入れながら言葉を並べ立てる。車椅子の老人がこちらを睨んですぐそっぽを向くので、佐鞍はちょっとムッとした。老人の隣には 少年がいて、部屋の隅には呆然と床を見つめる男がいる。
「それは具体的に何かというと、世界そのものを変容させる力、この概念を我々 で共有し、それを行使するというわけであります。」
そのとき背の高い女の人が佐鞍に足早で近づきながら(はじめまして、あたしは芹澤ショウコよ)と佐鞍の両手を持ちながらヒソヒソ自己紹介する。戸惑いつつもさっきの無愛想な老人の対応で緊張していた佐鞍はすっかり安心してしまった。
「この世を支配した気になっているフーリッシュたちは気づかないのです。本当の支配の力とは、何かに従う事ではなく、自分の力で全て動けるようになるということを。さて、」
阿奴田は佐鞍を見て言い直すかのように訊ねる。
「佐鞍君、事前に配ったパンフレットは読んだかな?」
「あ、はい。」
「それは表から2ページ目に黄色いマジックで落書きしたね?」
「なんで分かったのですか?」
佐鞍はバッグからパンフレットを取り出してめくると確かに2ページ目に黄色いマジックで目玉に蛾の触角とヒレが生えたかのようなシンボルが書かれていた。
「わかったのではない、今ぼくは、佐鞍君の運命を操作した。」
「どういうことでしょう。」
「運命というのは、あなたの未来はこうあるべし、と決められてしまうもの。そしてそれは因果関係の結果。つまり、過去によって定められるもの。つまり私が今あなたの運命を変えたと言う事は、あなたの過去を変えた のです。あなたが朝にした行動が今さっき変わって、落書きをしたという事になるのです。」
「すごいわ!さすが阿奴田先生!」
芹澤が拍手しながら満面の笑みで言う。阿奴田はそれに答える。
「芹澤君、ありがとう。でもこれは訓練次第で皆ができるんだ。そしてそれは、世界をも揺り動かせる。」
阿奴田は芹澤を見ながら微笑んだ。
「芹澤君は非常によくできている。彼女が本物のザ・マンになれる日は近い。みんなもがんばるんだぞ。」
といって、他の三人にも微笑む。芹澤はそれを謙虚にお辞儀する態度で返したがむしろそれが余裕を深く感じた。他の三人・・・名前は分からないが少年も老人も、 あと呆然と座っている男もただ阿奴田を見るだけだった。
「あ、いけない、紹介遅れたね。彼が今日新入りの佐鞍トオルでございます。」
「よ、よろしくお願いします。」
佐鞍はいそいそと挨拶する。芹澤はにっこりと微笑むが三人は黙っている。阿奴田は手で指しながら順番に紹介していく。
「こちらのおじいさんが眞鍋ケイタさん。そしてこの少年は、樋口サネヒコくん。」
「よろしく、お願いします。」
下手な子供役者のような口調と身振りだな、と佐鞍は思う。
「そしてここに座っている男の方は田中タロウさん。記憶障害でね、前のことも思い出せないし、これからの事も覚えないんだ。」
佐鞍が田中を見ると、田中も佐鞍をまっすぐ見た。まるで眼窩にビー玉をおしこんだかのような先の見えない眼差しで、まるで見透かされているような気になって、 佐鞍は思わず目をそらした。
「そしてこの綺麗なおねえさんは、芹澤ショウコさん。このセミナー受講生でも優秀な方でね。もしもわからない事があったら芹澤さんに訊くといいよ。」
「よろしく!」
170センチメートルという女性にしてかなりの長身で、マーブルクレヨンのような柄のパンツなどの派手な服装を完璧に着こなしていて佐鞍は何か恐ろしさすら感じた。
「その女、大きくなるね。」
少年の樋口が唐突に芹澤を指差して言う。阿奴田はにこりと微笑んで言う。
「そうだよ。彼女はとても優秀でどこまでも大きく成長するに違いない。でも、この新入生の佐鞍くんもね、例によって僕が見つけたんだけど、すごい力を持って いる。」
「そうなんですか?」
佐鞍は驚いて訊ねる。
「そうだよ。ここのセミナーをちゃんと受ければ、君も優秀なザ・マンになれる。みんなも、彼に続いてザ・マンとしてどんどん大きくなろうじゃないか!」
歓声はなく無音が続き、かわりに救急車のサイレンが鳴っていた。手を上に上げていた阿奴田は下に降ろし、にこりとまた微笑んで言った。
「じゃあ、さっそくはじめよう。」
カチリ。カチリカチリ。阿奴田はノートパソコンをいじっていた。佐鞍は部屋を見回った。やや狭い部屋だが、気持ちよく過ごせるように風通しの良い広い窓と幾 つかの大きな観葉植物、記憶喪失の田中が座っている傍にネオンテトラの水槽がぼこぼこと泡を立てていた。部屋のあちこちにスピーカーがあるな、と佐鞍が思った 時、そのスピーカーから爽やかで整った軽音楽が流れた。
「さあ、今日も準備体操をしようか。簡単だよ?まず、皆で円形に座って。」
ごごごごごと椅子が動く音。老人の眞鍋と記憶喪失の田中はほとんど動かない。 椅子を動かしているのは少年の樋口である。長身の芹澤は折りたたみ椅子を両手で持って何やらその仕草ですら美しい振る舞いであるかのような表情で天井を見上げながら丁寧に椅子を広げる。佐鞍も椅子を持って芹澤の隣に座る。芹澤の隣に亜奴田が座る。その隣が田中、樋口、眞鍋である。
「さあ、両手を天に広げて空気を感じてください。」
亜奴田は言うと、芹澤は楽しそうに両手を逆ハの字に広げた。少年樋口もなんとなく手を上げる。佐鞍も手を広げる。車椅子の老人眞鍋は全く手を広げない。そし て、田中は依然ボーっと地面を見つめている。
「今あなたがなりたい自分、それをしっかり思い描いてください。」
佐鞍はあったかな、そんな自分、と思いつつ、そういえば自分は何になりたくて ここのセミナーに参加したのかすっかり忘れていた事に気づいた。
「分からないなら、今直感的に思いついた事を追い求めてください。」
阿奴田に言われて佐鞍はとりあえず考える。そうだな、外交的で友達沢山いる、 みたいなのはどうだろう・・・。
「望みを持ったら、その今未来にある望みが自分の中にあると思い続けてくださ い。未来の望みが自分に引き寄せられる・・・未来の望みが自分に引き寄せられる・・・。 深呼吸・・・未来が自分に向かってくる・・・自分に向かってくる・・・」
佐鞍はちょっとよくわからなかったがなんとなく綱引きの映像を頭に浮かべた。
「サァ永遠に未来にしかない望みの壁を跳び越して、願望を自分のものにせよ。 心にそれがやってきて・・・全身に栄養のように染み渡る・・・。」
軽妙なリラックスBGMの中で阿奴田の声が奇妙に響く。
「望みは・・・栄養・・・栄養は吸収される・・・これを短縮することにより、 私たちは望みどおりのものを吸収する・・・私は自分の望んだ”私”になる・・・今あ なたたちはそれを、確信するのです。はいでは目を見開いて。」
阿奴田は言った。 目を開けると驚いた。芹澤がチャイナドレスに変わっていたのだ。 「みなさん思い思いの自分になられたでしょうが、きっとなられたでしょう。さあ、外に出て空気を吸って御覧なさい。今までとは違う人生がそこに開けているは ずです!さあ!」
言われるがままに佐鞍はビルの外を出る。だが、相変わらずの都市の風景で何か変わったとは思えない。そうか、自分は大してザ・マンたりえなかったわけか。と 失望したときに、見知らぬ女が佐鞍を見て声を掛ける。
「トオル、佐鞍トオルくんじゃない!ひさしぶり!」
誰だ。全く会った事が無い。
「高校のクラスメートの、瑠田ルリよ!覚えている?」
言われてみれば彼女は佐鞍とよく文化祭の小道具を一緒に作っていた気がする。
「覚えているよ!」
「やっぱり!嬉しい!」
そんな思い出あったっけ。つまり過去が変わったのか。自分は、運命を変えたのかなあ、と佐鞍はぼんやりと瑠田と話しながら思った。