1.発車ベルが鳴る
追われてる。誰かが追ってくる。恐怖が追ってくる。捕まったらどうなるんだろう―――
此処は何処だろう。夢の中なのだろうか。いや、夢を見てる時にそんなことは思わないだろうから恐らく違うんだろう。音がかすかにピッピッピッと聞こえてくるが、その音だけしか無くてすごく静かだ。でも感じられるのはそれだけで、やがて私はまたあの深いまどろみに呑まれていった。
深谷美佐が覚醒した。張りつめていた空気は緩み、彼女の家族は喜びの涙を流し、中年の医者は安堵の吐息を漏らした。が、当の本人だけはこのお祭り騒ぎを理解できないようで、戸惑いの表情をその顔に浮かべている。
「美佐ちゃん。どこか痛い所はないかい?」
「すみません。私なんで病院にいるんですか?」
ごく単純な彼女の質問に、お祭り騒ぎはその嫌な余韻を残して立ち去って行った。
「覚えてないの?美佐ちゃん、神社の階段の所で倒れてたのよ?」
「知らないよ、ママ。私ほんとにそんなところに居たの?」
その言葉を聞いて、ただ中年というだけではなく経験を重ねていた医者は、美佐を残したまま深谷夫婦を病室の外に連れ出した。
「先生?どういうことですか?美佐は…その…覚えてないって…」
医者は神妙な顔を作る。
「逆行性健忘というのをご存知ですか?よくドラマなどで描かれる一時的な記憶喪失です。おそらく美佐さんの場合は頭を強く打った事が原因でしょう」
混乱する母親に代わって、落ち着いた父親が言う。
「記憶が全部消えたわけではないんですよね」
「ええ。彼女はここが病院だということを認識していましたし、そしてなによりも奥さんのことをママと呼んでいましたから」
「娘の記憶は戻るんですか」
「正直わかりません。ですが、質問をしていけばどのくらい昔までの記憶を失くしているのかは恐らくわかります。言うまでもなく、その期間が短ければ短いほど日常生活への影響は少ないです。想像ですが、この感じですとほとんど影響はないと思います。問題は学校生活です。交友関係や、人の性格までもを忘れている可能性が高いですので」
「そうですか…」
どんな家族であろうと、母親は子の全てが自分の予定通りでないと胸を痛め心配し、父親は大抵子の未来に問題がないと知ると特に問題視しないと、医者は悟った。
独りになった病室。あの母の言葉からして、どうやら私は神社の階段から落ちたようだ。でもどうして、神社に居たんだろう。あんなところ普段いかないのに…。まだうまく回らない頭で考える。しかもその記憶が私には無いみたいだ。どこまで忘れたのだろう。友達も覚えてないかも知れない。目の前に広がる少し曇った白色にはもう飽きていた。手元の携帯が鳴る。そうだ、友達なら何か知ってるかもしれない。そっと見てみると、友達からのメッセージが溜まっていた。知らない名前は無くて、ホッとした。とりあえず学校では何とか生活できそうだ。画面の上の吹き出しを上にスクロールして、過去へと辿っていくうちに私は事の顛末を知った。
どうやら、私は独りで神社に居たわけではなさそうだ。
twitter→@kakimiya_yuki
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