絵具
家を出る挨拶の言葉は、大気に白く溶け込んでいった。
ドアの閉まる音に、見上げる。空は青々く、そして高々しい。青の原色に少しばかりの白と水をかき混ぜた水彩絵の具のキャンパス。白は溶けきらず、ダマとなって雲になる。右半分割れた月が後から描き加えられ、黒のゴミの点は鳥で、乾ききらないキャンパスを移動する。吐いた息は白の絵具となって、少しばかり色合いを付け加える。
レンガ敷きの玄関を進めば、ローファーの打つ音。身を切るような寒さに、音はいっそう鋭さを増す。ブレザーの上に着たピーコートに手を突っ込み首を縮める。口元はマフラーに隠れて、息は消える。
冷気は地面を這い、蛇のように足を上る。スカートの下には、防寒に毛糸のパンツを着込んではいるが、タイツやストッキングが認められない校則では、太ももは外気に晒される他ない。その分、と上半身は丸くなる。
いつもと変わらない通学路。片道十五分、急げば十二分で駅まで着く。その後は電車とバスを乗り継いで、片道およそ一時間。視線は伏せ気味で、少しでも早く駅に向かおうとその足は気持ち速い。靴音の間隔は一定。
すれ違う人がいる。追い越す人がいる。追い越される人がいる。駅までの道、それだけで両手では数えられない人との邂逅がある。
視界には入る。色も分かる。けど、それだけだ。
この中の、一つが、私。
肩から少しずれた鞄を持ち直す。中の教科書や筆箱、お弁当が揺れる音。この動作も、一体何度目。
昔、どこかのテレビ番組で見たのを思い出した。NHKだっただろうか。よく覚えていない。内容は覚えている。
人の目、視界と言うのは、見る場所で見方が違う。真ん中は色。はっきりとその色をよく見える。端の方は明暗。色ではなく、白黒で明るいかどうか。そういう風に見えるらしい。
実際はどうだろう。真ん中はよく分かる。いつもそうしてみているから。色盲でもないし。
端はどうなのだろう。分かるのだろうか。端を意識してみるなんて難しい。前に試してみたけど、よく分からなかった。
仮にそうだとしても、端の視界に、気になる物があったらすぐに真ん中に収めちゃうでしょ。たぶん、どうでもいいの。あるかどうかが、問題。
つまりそういうこと。
視界は伏せていた。その右上の端の方。道路の左側を歩いているから、丁度道路の少し先の中央。アスファルトの中に、色があった。
あったから、真ん中に収めたのだ。
ローファーのテンポが止まった。顔が少し上を向いて、口元から息が漏れる。
ペチャンコのネズミ。
アメリカのカートゥンアニメみたいな、ローラーに引き伸ばされたような、そんなどこか滑稽さがあった。
ネズミの背中は車のタイヤの跡がくっきりと残っていて、不幸にも、下敷きにされてしまったのだ、と言ってくる。綺麗に引き伸ばされ、生き物ではありえない薄さのネズミと仕上がった。綺麗に、滑稽に、ペッタンコ。
けろども、それは漫画ではない。
色だ。
色がある。
水風船を両手で押し潰せば、中の水は出てくる。サンドイッチをきつく挟めば、中のタマゴは飛び出してくる。同じこと。
まるで夢の国にでも出てきそうなカートゥン仕立てのネズミの周りには、逆に奇天烈なほどに鮮やかな赤が散らばっていた。ネズミを一回り大きくしたように、赤はネズミ型に塗り広げられている。
息を吐く。白い。白い色。
赤い色があるのは当たり前だ。それは生きていたから。生きていれば、色が出る。潰れれば、色が出る。中が出る。
真ん中で捉えようとする。色を、色を真ん中に。
ネズミは動かず、漫画の一コマのように止まっている。その周りを、白黒の週刊誌の中で、縁取る色を、赤を真ん中にしようとする。
けれど、できない。真ん中にネズミがいる。漫画がある。カートゥンがある。
身を少し乗り出す。赤は、少しピンク色も混じっている。もっとよく見れば、ネズミの中にも色がある。白だ。赤だ。
視界いっぱいにネズミが広がる。ペシャンコのネズミ。アスファルトの上の、薄いネズミ。
けれども、視界が途切れた。そして轟音。慌てるように車道と反対側に身を引いた。いきなりの動作で下半身がぐらつく。
車が通り過ぎた。大きなトラック。彼が通り過ぎると、アスファルトが見える。もう一度、見る。
ネズミがいた。相変わらずペチャンコ。薄っぺらい漫画。
色が無くなっている。視界の中に、ネズミの周りにあった色がない。いや、よく見れば色はある。
くすんだ、赤。煤にまみれた赤。車のタイヤの汚れで黒くなったのか。排気ガスが煤を吐いたのか。色は霞んでいた。
それ以上、もう視界に留めることを止めた。
ローファーはまた音を立てて、息はない。
「あんたは、こんな話を、朝いの一番に私にしたっていうの」
彼女はそう、と頷いた。
はあ、とあきれ顔を浮かべる。
「あのね、別にせめるわけじゃないけど、さ。朝からそんな話されても幸せにはなれないよ。登校中に、ネズミの死体を、それも潰れた奴なんて」
「だったら、お昼ご飯の時の方がよかった?」
彼女は座っている私の目線を、下ろすように見て問いかけた。
「そういう問題じゃないし、そっちのが嫌よ。そういう誰も幸せになれない話は、少なくとも、憂鬱な時にしないで」
低血圧ではないけれど、元々あまり朝が得意でない私にとって、この冬の朝は一年の内で憂鬱な期間だ。今日は今年一番の冷え込み。憂鬱が気温に反比例するというものだ。
「だいいち、あんたネズミの死体なんか見て嬉しかった」
「嬉しくはない」
「そりゃそうだ」
「でも」
と、あまり瞬きをしない黒目が、じっと見つめる。
「でも?」
「……なんでもない」
なんじゃそりゃ、と机の上に上体を乗せる。
机で半分になった視界の中に、白い棒が置かれた。
「何?」
「絵具」
置かれた物は、白い絵の具のチューブだ。それも新品で、真っ新の。
「あげる」
そう言うと彼女はそそくさと自分の席に戻った。ちょっと、と呼び止める声は喉で止まった。
「今日、美術の授業はないんだけどな」
手の平でチューブを持ち、親指と人差し指の動きでフタを取る。
少し、力を込めれば芋虫のように絵具が出てきた。白い。
それを少し、指先で救い取り、机に塗り広げる。
円を描くように。少しだけ塗る。
それは白だ。白い白。けれど、視界の真ん中には収まらない。横になったままの顔。その顔じゃあ、白の色は、真ん中には入らない。