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67 武藤香の苦悩。

 *鈴丘可憐視点*


 香さんは語り終えると、カップに口をつけようとし、その中身が空だということに気がついてテーブルに置いた。

 そのまま、空のカップを見つめる香さんは、どこか寂しげだった。


「まあ、そんなわけでね。人に言うのもはばかれる、小さな事のお話だったわけだけど。どう? 可憐ちゃんは飛雄馬のこと、がっかりしちゃった?」


「いえ、そんなことはないです」


 そんなことはない、けど、香さんが話す前に言っていたことが理解できた。本当に、きっかけはどうしてそんなところに目をつけるのかってくらい些細なこと。

 それと同時に、武藤君にとってはすごく重要なんだ、とも思う。


「私はね、あの相談を受けるまで、飛雄馬のことはなんだって分かるつもりだったんだ」


 香さんは、伏し目がちに語る。


「でもね、相談を受けて、初めて自分の弟のことを分からなかった。なんでそんなことを悩むのか、そもそも、飛雄馬が何を問題にしてるのかも。それは結構ショックだったなぁ。理解たいのに、理解してあげたいのに分からないんだもん」


「……香さんは、武藤君にがっかりしたんですか?」


 ふと投げかけた質問に、香さんは顔を上げる。


「なんで? がっかりなんてしないよ。可愛い可愛い弟だもん。この愛情、増すことはあれど減ることはなし、だよ」


「…………」


「私ががっかりしたのは自分自身。分かるって思ってた自分が恥ずかしくなった。分からないって気がついた自分が情けなかった。……そして、飛雄馬から距離をとった自分が、許せなかった」


「え? 仲良しに見えますけど……」


 武藤君と香さんは、本当に仲がいいと思う。距離感もそうだし、深いところでしっかり繋がってる感じがするのに。


「そりゃね、仲はいいよ。この絆が嘘だってことはない。世界のどの姉弟と比べたって絶対負けるわけないし。飛雄馬と私は最強!」


「ああ、そうですか……」


「……まあ、今のは冗談だとして。仲はいいし絆もあるけど、なんだろ。飛雄馬が私に向けてくれる信頼みたいなのが減ったというか。私が飛雄馬に対してグイグイ行くのが減ったというか。そんな感じなんだよ」


 それは一般的に言われている姉離れとか弟離れというやつなのでは。

 そんな疑問も浮かんだが、たぶん、香さんの言いたいのはそういうことじゃない。

 一種の諦めが、武藤君と香さんの間に出来上がってしまったということなのだろう。それは、悲しいことだと思う。


「本当は私が理解してあげられればいいんだけどね〜。多分無理なんだ。思優理ちゃんも言ってたでしょ? 私には素質がないって。よく意味が分かるよ」


 肩をすくめて、香さんは言った。

 そんなことはない、ことはないのだろう。たぶん、香さんの言うような言い訳を持ち出した時点で、思優里さんの言う『素質』はないってことになるんだ。

 香さんは「だから」と続けると、ますっすぐと私の瞳をのぞき込む。


「私には無理だから、誰かほかの人に飛雄馬と一緒に考えてあげてほしいって、そう思ったんだろうね~」


「…………」


「もちろん誰でもいいわけではなくって、ちゃんと、あの子に寄り添えるような。そういう面では、可憐ちゃんはバッチシだよ。私が前置きはたくさんしたけど全部話したのは、そういう理由。可憐ちゃんとしては、あまり気持ちのいい理由じゃないだろうけど」


「いえ、そんなことは……」


 弟のことを心から考えて起こした行動だ。打算を含んでいたとしても、完全に否定しきれるものではない。


「ううん、そういうことじゃなくて。私が、こういう風に言えば可憐ちゃんは逃げたりはしないって、少しでも思ってるのがいけないんだ。……もちろん、話して聞かせたんだから飛雄馬を助けてくださいなんて言うつもりはないよ。助けてあげてほしいとは思うけど、強制できるわけじゃないし」


「…………」


「だから、この話を聞いた可憐ちゃんがどうするかは、可憐ちゃんの勝手。聞かなかったことにしてもいいよ。聞いたからって、何かをしなくちゃいけないわけでもない。可憐ちゃんの自由」


「ちゃんとそうして念を押してくれるんですから、打算とか計算とか気にするわけないです。それに」


 私はそこで言葉を切って、香さんの瞳をのまっすぐ覗き返した。

 大丈夫。香さんをここに呼び出すときに決めた覚悟は、話を聞く前に散々確認された覚悟は、今もここにある。それを確認して、私は宣言した。


「話を聞いた以上、聞かなかったふりなんてしませんから」


 *武藤飛雄馬視点*


「ーーそういうわけで、俺はしばらく考え続けたわけだけど、まあさすがにキツかったんだな。結局は思優里が言うところの非人間化が起こった。それだけだ」


 話し終えて汐留を見ると、ほけーとあからさまに呆けた顔をしている。口なんか半開きだ。


「どうした、憑依でもされたのか?」


「されてませんよ。なんですかそれ、ユニークジョークのつもりですか?」


「違えよ。なんとなく言ってみただけだろ。お前こそなんでボーっとしてたんだよ」


「いえ、聞いたはいいものの、ちゃんと正直に最後まで話してくれるとは思ってなかったもので」


「む……」


 俺が不誠実だと言わんばかりの汐留の言い分に、反射的に抗議しそうになるが、冷静に考えると彼女のいう通りだった。確かに、どうして俺は誤魔化しも躱しもしないで、ありのままの事実を伝えたのだろうか。こんなくだらない過去を。


「やっぱり、似た者同士っていうのは変な絆があるんですかねー」


「いや、お前との絆とか絶対いらない。なんなら関わりも必要ない」


「結構辛辣に言い切りますね!?」


 ぎょっとした汐留はショックを受けたように身をのけぞらせる。わざとらしすぎて反応もしたくない。


「……けど、もしかしたらそうなのかもな」


「なにがですか?」


「俺がお前に話した理由だ」


 似ているからこそ、理解者足り得るのではないかという希望を抱き。だから己を知ってもらうために自己の情報を開示した。十分あり得そうな理屈だ。


「けど、私は先輩の理解者にはなれないと思いますよ?」


「…………」


 思考を読み取ったかのような物言いに、俺は一瞬黙り込んだ。


「私も、先輩が下らないことに悩んでるんだなあって思いますし。たぶん、そこは理解できませんもん。それに、私も私で悩んでますしね」


「何に」


「うーん。あれだけ話させといて白を切るのも違いますねー。いいです言います。でもオフレコですよ?」


「まあ、そらな」


 人の悩みを言いふらす趣味はない。何も問題はない。

 汐留は俺の返答にうなずいて、視線を中空へとさまよわせる。


「ーー『知る』って、どういうことなんだろうってことですね」


「はあ?」


 素っ頓狂な声を出して、思わず汐留を凝視してしまう。「知らないことが怖い」と言っていた当の本人が、よりにもよって「知る」ことそのものに疑問を投げかけるとは。まったくの予想外だった。


「はあってなんですかセンパイ。はあって。ため息じゃないですよね? せっかく後輩が悩みを打ち明けたのに、その反応はあんまりじゃないですか」


「いや、別にため息じゃねえよ。ただ意表を突かれただけで」


「そうですかそれは良かった。ため息だったら生きていけなくなるところでした」


「大げさな……」


 気づかぬうちに俺は汐留の生命線を握っていたらしい。いらねえ。


「ともあれ、別に私が『知る』ってことに悩んでたとしてもおかしくはないと思いますよ? 過去の先輩も似たようなものだったじゃないですか」


 確かに、それが自分にとって大事なものだからと言って疑問の対象にならないなんてことはないのかもしれない。むしろ、それが自分という存在を根本から支えているものであればあるほど、自分という存在をより確固たるものにしたいがために疑問の渦に自ら身を投じることもあるのだろう。

 それに、思優里はそう言った根本を問いただすことで、人を思考へといざなっているのだ。

 と、何かが引っかかった。


「そもそも、お前はどうしてそんなこと考えるようになったんだよ? 


 汐留にとって「知る」とは自分がこの社会で生きていくためには必要不可欠なモノ。それの定義を疑い始めるなんて、簡単にできることではない。なにか、それなりにインパクトのあるきっかけがあったはずだ。


「あれ? 私言ってませんでしたっけ? 夕陽思優里さんに会って話をしたんですよ、私」


「言ってねえよ」


 なんだその新情報。しかもかなり優先度が高い。

 だが、納得はできた。


「まあ、あいつと会えば今まで気にかからなかったことが一気に気になってもなんも不思議じゃないか。災難だったな」


「はい。怖すぎます、あの人」


 最も、あいつは「考えるきっかけを作ったんだ。災難なんてとんでもないよ。感謝はされずとも、恨まれる筋合いなんてこれっぽっちもないはずだけれど」くらいは言いそうだ。


「というわけで、私は『知る』ことが何なのかに悩んでるわけです。だから、先輩の悩みにまで付き合ってる暇はないんです」


「辛辣だ……。分からないでもないけどな」


 考え続ける。それは本当につらくて大変なことだから。

 だからまあ、ヒントくらいは与えておいてやろう。夕陽思優里被害者の会の先輩として。


「残酷かもしれないが、自分自身でさえ自分のことを完全に知ってるわけじゃない。誰かと話してるうちに、今まで気がつかなかった自分の側面に気がつくこともあるしな」


「……どうしたんですか急に」


「いや、たぶんちょっとした気まぐれだ。ーーだからって、自分で気がついてない自分を指摘してくれた相手も、自分のことを完全に知ってるわけじゃないだろ。『知る』ってのが、知らないことがないことなんだとしたら、この世に『知る』ことはないんだってことになる」


「……………なんですか、気まぐれでいじめてるんですか」


「違えよ。最後まで聞け。でもな、完全に知ってることだけが『知る』ってことじゃない。何かしら限定すれば、何かを『知る』ことはできるはずなんだ」


 俺は、一回絶望した。絶望なんて言い方は大げさかもしれないが、「優しさ」がこの世にないと知ったとき、確かに心が揺れたのだ。

 でも、今は「優しさ」があるのだと信じている。万人が幸せになる行動は、どこかにあるのだと信じている。

 それは果てしなく愚かな願望かもしれないけれど。希望を持ち続ければ、屈することなく考え続けることができるはずだから。


「無責任だろうけど言っておく。お前の探してる『知る』ってことは必ずどこかにある」


「……そうですか」


 汐留は、面を食らったまま、無意識のうちにそう呟いたようだった。

 まあ、今まで自分に対して散々邪険に接してきていた人間が突然こんなことを言い始めたら、俺でもこうなる。


「センパイはたまにいいことを言いますよね」


 かと思ったら汐留はこんなことを言い始めた。


「別にいいことじゃないと思うが。というかたまにってなんだ」


 俺は結構頻繁に言ってるだろ。迷言だけど。


「いえいえ、希望を持てってことですよね。センパイには珍しく前向きです」


「確かに」


 その表情は、おそらく安堵と呼ぶものだろう。思考の渦は、ゴールがあるかも分からない荒野だ。そこに一筋光明を与えたのが、俺だというのがなんとも気恥ずかしい。


「ともあれ、私も考えてみますよ。センパイみたいに」


 汐留はそうして、いたずらっぽく微笑んだ。

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