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66 過去編⑤

 思優理との問答から数日が過ぎた。

 あるいはあれは問答というより、一種の宣告のようなものだったが。

 二学期は何事もなく始まった。日に焼けた者が多くいて、互いに夏休みの思い出を語り合っていたが、俺だけはどこか空虚だった。

 あの日を境に、俺は迷い続けている。

 いや、進めないでいる。


 ーー俺の信じていた「優しさ」は「優しさ」ではなかった。


 事物を正確に表すなら、ただこれだけのことでしかない。

 善意からの行動は万人を幸せにする。そんな、子供ですら抱かないような「優しさ」という名の幻想を信じていた、俺がおかしいのだ。

 だって人は誰かのことを一から十まで理解できない。相手の望むものを取り違えれば、たとえその行動が善意からだとしても、幸福にはしないかもしれない。

 だって人の望むことをすることだけが優しさとは限らない。お菓子を食べたいと言う子供に際限なく望むものを与えていれば、いずれ健康を害するだろう。それは幸せとは呼べない。


 なんて下らない妄想に耽っていたのだろう。万人を幸せ? 愛されることが苦痛となる人間もいるだろうに。

 今の時代に、地球は平らで、両端には巨大な滝があると信じていたようなものだ。恥ずかしさすらある。

 馬鹿馬鹿しい。救いようがない。分別のない子供以下だ。


 ーーではなぜ俺は今も、こんなに悩んでいるのか?


 決まっている。あと一歩を踏み出せないからだ。これを踏み出してしまえば、俺は俺でいられなくなる。そんな危うい予感があるからだ。

 どうしようもなく怖い。それと同時に、踏み出さねばならないことも分かっている。

 俺の信じた「優しさ」は「優しさ」ではなかった。その先へ。


「……い。お〜い。飛雄馬っ! 飛雄馬く〜ん! 私の可愛い弟飛雄馬く〜ん?」


「…………」


 顔を上げると、目の前に姉さんの顔があった。しかも近い。

 けど俺は仰け反る元気もなく、ただぼんやりと見つめ返した。


「どしたのん、そんな灰になったようなポーズして。一人で電気もつけないでソファーで佇むって、帰ってきた方からしたら結構ホラーだよ?」


 言われて周りを見回す。

 なるほど、カーテンは閉めきってありエアコンが効いている。


「けど電気はついてる」


「私がつけたんだよ〜。リビングのドア開けたらひんやりしたし、電気つけたら飛雄馬がパッて。パッて! すごくびっくりしたんだよ?」


「……それは、ごめん」


 姉さんは中三だ。ちょうど受験生で、塾に行った帰りだろう。カーテンの隙間からうっすら見える外の色は真っ黒だった。

 俺は普通に学校から帰ってきたので、すでに二時間以上もこうしていたことになる。まったくそんな感じはしなかったが。


「まあ、そんなのはいいんだけどね~。私が聞きたいのは何でそんなことしてたのってことだし。本当に灰になってたわけじゃないでしょ。もしかして悩める主人公ごっこでもしてたの?」


「何だその特殊なごっこ遊び。しないよそんなの……」


 どこかの国民的アニメの幼稚園児じゃあるまいし。


「そ。じゃあごっこ遊びじゃなくて、ほんとに何かに悩んでたのかな?」


「…………」


「沈黙は肯定なり、だよ?」


 あっさりと看破されたーーというかそもそも、それ以外に可能性がなさそうな状況だった。

 姉さんは沈黙する俺の、すぐ隣に腰かけた。ぎしっ、というソファの音が静かな部屋に響く。

 そしてうつむきがちな俺の顔をのぞき込んで優しい声音で、


「お姉ちゃんに話してみな。お姉ちゃんに任せなさい♪ だよ」


「心がぴょんぴょん? さすがに今はしないな」


 冗談めかして言った後半は、そんなに固くならなくていいと、怖がらなくていいと。そんな姉さんの気遣いが含まれているような気がした。それに冗談めかしているにもかかわらず、その言葉を聞いた瞬間、どうにかなるような気がしたのだ。姉さんになら話せて、答えが得られるかもしれないという。

 踏み出したら俺が俺でいられなくなる。そんな瀬戸際に立っていたはずなのに、そう錯覚した。

 しかし錯覚は、錯覚と認識されなければ真実でしかない。


「姉さん、あのさ……」


 俺は姉さんにすべて話した。

 真也先輩にわざと負けたこと。思優里との問答。今の俺の心境に至るまで、すべて。

 姉さんがそれをどんな表情で聞いていたのかはあまり記憶にない。俺は終始下を向いていたし、そも単純な位置関係の問題もあった。

 だけど姉さんの表情が、話を聞くごとに暗くなっていったことだけは何となく覚えている。

 上の空だったわけではない。姉さんはちゃんと聞いていてくれたし、相槌も打ってくれた。

 そうして俺はすべてを話し終えると、ぽつりと、一つの問いを漏らしたのだ。


「姉さん……『優しさ』って何なんだ……?」


 それは俺を根本から支えていたモノそのものについての問い。

 優しさは万人を幸福にするという定義が壊れた今、俺はどうしてもその答えが欲しかった。正確には、俺の望む答えが欲しかった。

 しばしの黙考ののち、姉さんは口を開いた。


「……よく分からないけど、飛雄馬の言ってるような優しさはどこにもないでしょ? 思優里ちゃんが言ってたのが、つまりは優しさってことだよね?」


「…………」


 必死に理解しようとしているのは分かった。姉さんは、俺が悩んでいる本当にちっぽけな問題を聞いて、戸惑いつつもなんとか言葉を発してくれたのだ。

 だがあいにくと、それは俺の求めていたものではないかった。


「そりゃ相手を思って行動したらみんなが幸せになるのが一番いいんだろうけどさ、有難迷惑とかあるじゃん。飛雄馬が言うようなのは理想で、現実じゃないってことで……」


 そこで俺が一言も発せずにいたことに気がついたのか、姉さんは言葉を止めた。


「えっと、ほら! 気にすることはないんだよ! 仕方ないことなんだから。それに飛雄馬は、優しさってこういうモノなんだって分かったわけだから、これからは人に対してもっと優しくなれるんじゃないかな! 何をすれば相手が喜ぶのか頑張って考えられるようになるんだもん」


「………」


「だからね、そんな悩みなんか捨てちゃえ。小さいことなんだから、悩んでたってしょうがないよ。むしろどうして悩んでるのか不思議なくらい。一つ大人になったんだって、胸を張ろう!」


 正しい。姉さんの言ってることはこの上なく正しい。くよくよ悩む暇があるなら、未来のことを考えようという。前向きな考え方だ。これは正しいものなんだと理解できる。

 それと同時に、どこかで違うと叫ぶ声がする。

 ああ、たぶん思優里が言っていた『ただの葦』というのは、つまりこういうことなんだろう。

 前向き結構。確かに前を向かなければ何も生まれず、効率化など以ての外だ。

 けどそれは熟慮の放棄。過去などどうでもいいと、切り捨てる行為なのではないのか。

 胸を張ろうと言いつつ、本当に胸を張る実演をしてくる姉さんを視界にとらえた。わざとらしく明るい表情を作る姉さんは、いつもの姉さんだが、どんな反応が返ってくるのか不安そうでもある。


「そうだな。確かにそう考えた方がよさそうだ」


 これ以上の相談を拒絶しつつ、姉さんが納得するであろう回答を言い放つ。


「……うん、そだね。飛雄馬がいいんならそれでよし」


 言いよどんだ姉さんは、気がついたのかもしれない。

 だがこの日以来、姉さんとこの話をしたことはない。


 ***



「やめる!? なんで!?」


「一身上の都合ですね。お金とか」


「もったいない……。もったいないけど……そうか。休会って手もあるぞ?」


「いえ、戻れるかもわからないのにぐだぐだといるよりは、きっぱりとやめた方がいいと思って」


「んー、そう、かぁ。帯のこともあるけど、きっぱりやめたら、また無級からだぞ?」


「気持ちを切り替えるにはいいかと」


 すべて、師範との会話だ。

 師範は終始、もったいないもったいないと連呼していた。本当だったら本気で引き留めるところだろうし、事実、師範はそうする。道場の問題というより、やめる本人が納得できるのかという点を心配してのことなのは、長い空手生活において知っていた。


「その点、飛雄馬はずいぶんうまくやったね」


 思優里は、道場から出てきた俺に開口一番そう言った。

 いつも通りの空虚な微笑。どうやら、師範と俺の会話を盗み聞きしていたらしい。そうされないために稽古後を狙ったというのに、勘の鋭いやつだ。


「うまくやったとかいうな。俺が悪いことしたみたいだろ」


「嘘をつく、というのがイコール悪であるならば、君は間違いなく悪いことをしたと思うけれど?」


「そんなの、落とし物を交番に届けるのが悪だってことにすれば善人も悪人になんだろ。人殺しが悪だって言いながら、戦争になると積極的に人殺しをするような世の中なんだ。善悪の価値観なんてもろい」


 言うと、思優里はわずかながら目を見開いた。


「驚いたね。ここ数日で何かあったのかい? そんな屁理屈を言うなんて飛雄馬らしくもない」


「屁理屈だって理屈だろ」


「まさにそれとかね。別に悪いことだとは言っていないよ。ただね、ほんの数日の変化とは思えなかっただけなんだ」


 思優里は、本当に驚いた顔だ。それと同時に嬉しそうでもある。


「飛雄馬は、逃げなかったんだね」


「…………」


 理解したくもなかったことだが、ここ何日も迷い続けた俺は、主語と述語が抜けた言葉を耳にしてもその意味を正しく受け取った。

 確かに、俺は逃げなかった。

 姉さんとの会話で、俺は、優しさが存在しないことに気がついてしまったのだ。最後の一歩を踏み出してしまった。俺が俺である基盤を、完全に否定してしまった。

 それは、想像を絶する痛みだ。自分という人間が何なのか、欠片もわからなくなる感覚。

 普通なら、こんな感覚なかったことにして、逃げてしまうのだろう。なのに俺は、完全に否定してしまった優しさについて、未だに考えている。逃げていないのだ。

 だが俺は声を大にして言おう。だから何だと。

 第一俺は、逃げなかったのではなく逃げられなかったに過ぎない。こんな苦痛に身をゆだねるくらいなら、逃げられた方が万倍もマシだ。


「だいたい、俺は空手から逃げようとしてるんじゃないのか?」


「そうかい? 今まで自分を縛り付けていた強固な概念から身を引くというのは、新しい視点を獲得するうえで非常に利口な方法だと思うよ、ボクは」


 真正面から断言される。

 別に、思優里の意見なんてどうでもいい。空手という共通のモノを失えば、どうせもう会うこともない。そう考えると少し気が楽だった。


「ボクは君を称賛するよ。人間は考える葦だ。考えないのはただの葦だ。飛雄馬は、ただの葦から晴れて人間へとなった。仲間を得たことをボクは喜ぶし、そうして考え続ける姿勢には敬意を払おう」


「お前からの敬意なんていらない。むしろ気持ち悪いからやめろ」


「そういうわけにもいかないよ。正真正銘の人間を、周りの愚鈍な非人間と同列に扱うことなんて無理な相談なのだから」


「偉そうだ」


 中学生の分際で何を言っているのか。世間をまだ何も知らないガキなのに、思優里の弁は傲慢というモノだろう。


「飛雄馬が、そんなくだらない固定観念にとらわれているのなら教えておこう。世間を何も知らない? そんな子供にまでそう言われる程度の世間、たかが知れている。そもそも、傲慢というなら、子供の発言を世間を知らないなんて言う理由で押し殺して説教を垂れる、そんな老害のことを言うべきだ」


「知るかよ。そんな話、子供の俺にされてもな」


「別に、今の話に大きな意味はない。頭の片隅にチラッと置いておくべきものだろうしね」


 肩をすくめる思優里は変わらず微笑。その笑顔も、そろそろ見たくない。


「それじゃあな。俺は帰る。もう会うこともないだろ」


「……できることならば語らいたいけれどね。確かに、頻繁に会えるほど近くない」


「俺は語らいたくもない」


 言い切って、俺は背を向ける。そのまま振り返らないで歩き始めた。

 そんな俺の背中に、


「それじゃあ飛雄馬、君が、人間であり続けることを祈っているよ」


 幼馴染の声が投げかけられた。

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