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65 過去編④

 師範にはわざと負けたことはばれていた。

 当然だ。我ながらあからさますぎた。だが残り時間的なことから考えて、そうせざるを得なかった。


 先輩は優勝した。

 優勝して、それは喜ばしいことなのに。だけど彼は笑っていなかった。

 トロフィーを持つ先輩は目を伏せ、納得がいかなそうな顔をしていた。


 ーーそして、俺はもう先輩と喋ることはなかった。


 何度か話しかけた。なのに先輩はやりきれなさそうに睨んでくるだけで、会話に応じようとはしなかった。

 当然、その日で道場をやめる先輩と俺の接点は、それ以降なかったのだ。試合が終わって二日後には、先輩が引っ越したという情報が思優里から入ってくる。

 俺は、最後に挨拶はできなかった。

 なぜかなんて、そんなことは分からない。どうして先輩が、優勝したのに喜んでいなかったのか分からない。

 無理解が次から次へと襲ってきて、俺の足を遠ざけていたのだ。

 なぜ先輩は、あんな顔をしていたのだろうか。


「ーー君は、どうやらボクが思っていた以上に愚か者のようだ」


 心底蔑んだ瞳で、思優里はそう言った。

 道場からの帰宅途中。ついこの間まで先輩もいた道は、どうしても寂しい感じがする。


「愚かってどういうことだよ」


「そのままの意味だよ。わざわざ情けを受けて勝利することで、真也先輩がほんとうに喜ぶとでも思っていたのかい?」


「…………」


 そう言われれば、確かにそうだ。そんなの、何の達成感もない。普段から一生懸命稽古に励んでいた先輩が、そんなまがい物の勝利で喜ぶはずがなかった。


「けど、あそこで俺に負けたって喜びはしなかっただろ」


「ボクは直接その現場を見ていないから具体的には分からないけれどね、要は納得の問題だろう」


「どういうことだよ」


「こんなことまでボクに説明させる気かい? 自分で少し考えれば分かることを他人に説明させるなんて、もはや悪の所業だよ。そうそう看過されるべきものではない」


「うっせ。つべこべ言うな」


 有無を言わさず詰め寄ると、思優里は残念そうにため息をついて、しかし結局は説明しだした。


「真也先輩は、まあ確かに勝ちたかっただろう。そこに疑う余地はない。けれど負けたところで、すべてが失われるわけではない。それは飛雄馬もわかっているだろう? 真也先輩は優勝したことはないし、入賞だってほんの数回だ」


 その通りだ。先輩は、確かに強かったけど、その実力はここ半年くらいでようやくついてきたものだ。いわゆる、大器晩成というやつだ。おまけに本番に弱かったことも手伝って、試合ではどうしてもあまり勝てていなかった。


「真也先輩は、言ってしまえば敗北に慣れている。それは先の大会でも同じことだよ。たとえ中学最後の大舞台だったとしても、真也先輩は敗北に強くいられただろう。だから、極論を言えばね、真也先輩は勝ちたいと言いつつも、勝敗にはほとんど重きを置いていない。彼は結果よりも内容を求めていた。すなわち、その試合が自分に納得できる内容だったかどうか、さ」


「…………」


「言い換えれば、勝ってもその内容に納得できなければ何の意味もない。ーー偽物の勝利だったらなおのことね。ただ相手の慈悲によってのみ勝利する。戦場なんかなら、つまりは生きるか死ぬかということなら、それでも構わないだろうけど、あいにくボクたちがいる舞台は空手という、いわばスポーツだよ。しかも中学生のだ。そこに求められるのも求めるのも、結果というよりも中身だ」


「…………」


「さて、それを踏まえたうえで、君の行いは真也先輩にとってほんとに喜ばしいことだっただろうか?」


 沈黙した。

 思優里の言う通りだった。もしかしたら先輩は、俺に変な気を遣わせたと罪悪感を抱いていたことも考えられる。

 けど。だけれども。それだったらおかしいのではないか。

 俺は、あくまで気遣いから価値を譲ったのだ。


「それなのに、どうして……」


 呟く俺の言葉に、思優里はおかしなものを見るような顔つきになる。その呆けた印象は、彼女にしては珍しい。

 思優里は、しばし思案し、そして今度は不愉快な感情を隠すことなく眉をひそめた。


「君はーー飛雄馬は、優しさから発生した行動が必ず幸福につながると、そんな馬鹿げた妄想を信奉しているのかな?」


「…………」


 沈黙が流れた。

 俺も思優里も、相手の言っていることが理解できずに、ただ呆然とするしかなかったのだろう。そしてこの瞬間に限って言うのであれば、俺こそが、まぎれもなく異端で異常で、底抜けに愚かだった。


「馬鹿げたって……違うのか……?」


「ーーはっ!」


 当たり前のことを確認する。そんな調子でその言葉を発した俺に、思優里は盛大に鼻を鳴らした。


「さっきもボクは君のことを想像以上に愚かだったと言ったけれど……その評価すら覆すとは! ボクは人を見る目にはかなりの自信を持っていたけれどね、これは、予想に輪をかけてもなお足りない愚かさだ。君ほど愚鈍な人間を、ボクは見たことがないよ! ーーまあ、君という予想外に出くわしている時点で、ボクの観察眼も信ぴょう性があったものではないが」


「ひどい言い草だ。なんでそこまで言う」


 少なくとも俺にとっては自明のことだった。疑うべくもない、世界の理だった。そこには何の疑問も食い違いもなくて、だから俺は生まれてこの方、優しくあろうと生きてきたのだ。

 ただ他者に対して思いやりを持って、気遣いを忘れずに。そうすればみんなが幸せになると。

 それだけに、思優里の反応が解せない。なぜこうも愚か愚かと繰り返すのか。だって、優しさは必ず幸せをもたらすものなのにーー。


「そんなことはあり得ない。個人曰く、有難迷惑、と。説明するまでもないよ。自分が善意でもって行った行動は、相手にとって迷惑になることだ。ーー飛雄馬の言うような幻想は存在なんてしないんだよ」


「嘘だっ!」


 無意識に叫んだ声は、暗い夜道に反響した。

 思優里の言う、そんなことは許容できない。許容してはならない。優しさは、必ず人に幸福をもたらしてくれる。だから、思優里の言うような優しさは優しさなんかではない。限りなく近い、別の何かだ。


「嘘なんかついてはいないさ。ボクは、嘘を嫌悪するからね。オブラートに包んだ物言いや、指示語だけで成立させる会話なんて、聞いているだけで虫唾が走る。そんな逃げを、ボクは断固として否定しよう」


「いや、そんなはずはない! 人を思ってやったことが、不幸を招くんだ。おかしいだろう!」


「何もおかしくなんかないさ。人がその時求めるものは、この地球上にいる人間の数だけ存在するよ。食い違って当然なのだから。ーー飛雄馬の言うようなことが真実である方が、この世界はもっと住みやすいものだっただろうという一点に関しては、ボクも否定はしないけれどね」


 長々と、ただひたすらに事実のみを述べていく思優里。

 そして、それを事実(、、)だと認識してしまった自分が、信じられないとともに気に食わない。

 思優里は俺との距離を一歩詰め、俯きがちだった俺の顔をのぞき込む。


「ところで、飛雄馬が大声を上げるなんて珍しいじゃないか。ふざけ合ってる場面ならともかく、真面目な場面なら、君は淡々としている印象があったのだけれど」


「そんなの、関係ないだろう」


「いや、関係あるね。察するに、飛雄馬は気づいていたのではないのかい?」


「なにに」


「知れたことを。優しさは人を必ず幸せにするものだと言い切っておきながら、優しさが時に不幸を招く、ということをだよ。自分の中の触れられたくないところを刺激されでもしない限り、今の飛雄馬の顔はあり得ない」


 俺が今、どんな顔をしているかなんてさすがに気にも止められなかった。だから思優里の言う通り、俺は触れられたくない部分を触れられたことで焦って、狼狽して、恐怖して。とにかく、無様をさらしていた。


「他人の触れられてほしく場所だってわかってて、それでも一切遠慮することなく土足で侵入し続けるなんて、お前本当に性格悪いな」


「まあね。別に嬉しい評価ではないけれど、事実を事実と認めないほど子供でもないよ」


 本能的に会話の流れを切ろうとすると、思優里は鼻を鳴らして答えた。


「自覚あるなら治せよ」


「治す理由が見当たらないね。目を逸らしていたモノへと目を向けることで、人は人間としての資格を得る。目を逸らしていたモノとは、すなわち触れられたくないことのことだよ。人間を人間たらしめるためにも、ボクは悪い性格のままいよう」


「なに言ってんだ。人間はどうなってても人間だろ」


「いいや違うよ」


 断言。思優里は確固たる自信をもって言い切った。そのあまりに強すぎるありかたに、俺はうっすらと恐怖を抱く。


「かの有名な数学者パスカルは自身の著書『パンセ』においてこう語っている。ーー曰く、人間は考える葦である、と。けれど、この言葉は、裏を返してみればまた違った意味を持つんだ」


「…………」


「ーー考えなければただの葦である。これほど核心を突いた言葉はない。聞いたときは爽快だったよ。思考を放棄してしまった者は、人間から別の何かに転落するんだ」


 自明のことを語る思優里は、先ほど俺が優しさについて語るときと同じ顔をしていたのだろう。彼女は彼女の信じるところを言って聞かせているのだ。


「考えなくなった何モノか。そんなのが今の世の中には闊歩していてね。これはあくまでボクの目から見てのことではあるけれど、案外的を射ていると思う。社会には非人間ばかりあふれてるんだ。ーーそんなの、気持ち悪いだろう?」


 だから思優里は治さないという。その人物の根幹を揺るがせば、思考に陥らなければ気が済まなくなるから。いや、気が済む、済まないの問題ではないのだ。根幹を揺るがされれば、誰だってどうしようも鳴らなくなる。果てしない恐怖に陥る。

 だから使用に陥るのは、一種の防衛反応だ。


「そんなの、人を殴るのと変わらない」


「それでも犯罪ではないよ? それに、たったそれだけで人間になることができるのだから、安いものだと、そうボクは思うけれど」


「…………」


 思優里の言っていることは無茶苦茶だ。自分の価値観にのみ依存した、暴虐無塵な行いだ。なのに正しいと思ってしまう部分がある。それがどうしても許容できない。

 思優里は押し黙る俺に向かって、まるで天気でも尋ねるかのように悪魔の質問を投げかけた。


「それで、優しさは必ず人を幸福にするなんて言う愚かしい妄想を信じていた飛雄馬は、果たして今、人間なのかな?」


 目を背けている、そんな事実は本当にないのかと、思優理は問いかける。

 それを、俺は無視することもできたはずだ。

 彼女の意見は彼女独自の価値観によるものでしかなく、それは俺についても当てはまるものではない。事実、俺はそう結論付けていた。

 それなのに考えてしまったのは、自らを形作る根幹に根差す、極めて重要なことだったからだろうか。見て見ぬフリは、根幹を揺るがす行為だったからだろうか。

 思優理の微笑はどこか空虚で、じっとりとまとわりついてくる。まるで呪いのようだ。

 気がつけば俺は、無限の思考の渦に巻き込まれていた。

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