62 過去編①
信念とは、その人そのものである。
より正確に言うなら、その人の軸である。
信念を持っている人間は強い。その軸を折られさえしなければ、決して倒れない。自分という人間を見失わない。確固たる自信を持って生きていける。
ああ、その姿はなんと素晴らしいものだろうか。
何物にも流されず、ひたすらに個を貫き通す。
ああ、その姿はなんと危うげなのだろう。
信念。それさえ折れてしまえば、ただ惰性でしか生きられなくなる。そこには意思も意味もない。生きることそのものが、当人にとっては無意味になる。生きることが悪にすら思えてしまう。
『こころ』は分かりやすい例と言えるだろう。
Kは、自らの信念を貫き通せなかったがために自殺をした。
信念とは、その人そのものである。
それが折れることは、自分という人間がいなくなるのと同義だ。
信念を失って惰性で生き続けるのか。生きるためにまた新たな信念を見つけるか、どちらも容認できず、Kのように命を絶つのか。
ーー俺が選んだのは、惰性だった。
***
中学二年の夏というのは、どうやらこの短い中学生活の中でも、最も楽しい時期に該当するらしい。
クラスメイトも、やれ友達と海に行くだの、やれ部活三昧だの、やれ初めてできた彼女と遊びに行くだのと微笑ましい。いや、やっぱり彼女は微笑ましくない。リア充末永く爆発しろ。
今しがた配られた「夏休みのしおり」とゴシック体ででかでかと印刷されたプリントを受け取った俺は、そうして口の橋を緩めながらクラス内を見渡していた。
「飛雄馬、どうしたの? 周り見渡してニヤニヤするとか、なんか気味が悪いよ?」
振り向くといるのは幼馴染。
紫苑は物珍しいモノを見るような瞳で俺に向いていた。
幼稚園時代から腐れ縁で続いてるこいつと同じクラスになるのはこれで三度目。これまでに十回クラス替えがあったことを考えると、多いと言えるのかは微妙だったが、中学二年の俺が真っ先に挙げる友達の名前には紫苑が出てくる。
まあ、それなりに仲は良かった。
「いや、夏休み前ってみんな幸せそうだなと思って。なんか嬉しくなっただけだ」
「出たー、飛雄馬の底抜けの優しさー。イエスキリストかよ」
「ああ、尊敬できるよな」
「イエス様を信仰じゃなくて尊敬する奴って珍しすぎる……」
紫苑は恐ろしい者を見るようなったが、残念ながら俺はこれでもそれなりに本気である。
隣人を愛せ、とかすごいかっこいい。一回でいいから言ってみたい。なにせ俺の信念はーー
「"優しくあろう"。それに照らし合わせれば、イエスキリストは信仰っていうか尊敬だろ。難しいことじゃない」
「なんて恥ずかしい信念……」
「恥ずかしくなんかないだろ。信念はどんな形であれ、尊いものだぞ」
「うーん、飛雄馬は本気でそう思ってる節があるから始末に負えないんだよなあ。ところで、夏休みどうする?」
問われてしばし黙考。
「まだちゃんとは決まってないけど、やっぱ空手だよなあ。大会あるから特別練習もあるだろうし。ああ、でもちょっとは遊びたいな。紫苑遊べる?」
「無理。コンクールが近いからひたすら練習。まったく遊べなくはないだろうけど難しいと思うよ?」
「そうか。じゃあやっぱり空手だな。大変だ」
これから始まる俺の中二の夏を思い浮かべて少し精神にダメージを受けていると、紫苑が知れっと口を出す。
「大変っても、空手って室内だろ? 野球とかに比べれば全然楽じゃん」
「はっ、笑わせるな紫苑。特別練習では外を一時間ぶっ続けで走るし、道場に戻っても十分くらい休んだら四十分くらいスパーリングだぞ。確かに室内だから直射日光にはさらされないけど、その代わり窓を開けても逃げていかない湿気がモンワリと……。聞いて驚け、過去の道場内最高湿度は九十七パーセントだ」
「え……」
「そんな中でも誰一人として熱中病にならなかったという偉業もある」
「根性座りすぎだろ……」
紫苑が尊敬を通り過ぎてちょっとドン引きした。
だが残念なことにこれは事実である。あの時は類を見ないくらいに地獄だった。
それ以来、結構こまめに換気をするようにはなったものの、悲しいかな、一度稽古を始めれば湿度が八十パーセントを切ることはない。一応クーラーはついてるのに……。
そんな過酷な空手事情を話していると、担任が通知表を抱えて教室に入ってきた。
これを受け取れば一学期は終わり。楽しい楽しい夏休みが始まる。
***
「--で、成績はあまりよくなかったと?」
「うん、まあ、うん……」
本日の稽古を終えた帰り道。
夏ゆえまだ暗くなりきらない空の下で、俺は一つ上の先輩に自分の成績を報告した。一つ上といってもそれは年齢の話で、空手の級は同じだ。
実際、俺の成績は5は国語だけ。あとはほぼ3だった。納得いかない。
「大した内容でもないだろうに。それでほぼ3というのは、なかなかどうして微妙だね」
横を歩いていた思優理が、いらない茶々を入れてくる。ついカチンときて、
「うっせ。そういうお前はどうだったんだよ」
と問えば、
「当然オール5だったけれど?」
「誰か当然の定義を教えて!」
常識外の答えが返ってきて俺に頭を抱えさせた。オール5? そんなもん本当に存在すんの?
「ところで、真也先輩はどうだったのかな? 今年は受験生だから、下手な成績は取れないと思うけれど」
「俺? 頑張ったよ。4が増えた」
「5が4になっていないことを、陰ながら祈らせてもらうことにするよ」
「あー、確かに、それでも4は増えるよな」
俺が思優理と先輩ーー真也先輩と出会ったのは小学一年生の頃。俺が空手道場にやって来た時だ。二人とも四歳からやっていたらしく、俺が後から入った形だ。
同じくらいの年齢というのは、どんなコミュニティの中でも仲良くなりやすいもので、それは俺たち三人も例外ではなかった。
今では、稽古後にこうして三人並んで駅を目指すのが慣わしになっていた。
先輩は年下二人の微妙に失礼な反応に苦笑。
「ちゃんと上がってるよ」
「つーか先輩ってどこの高校受けるんだっけ? 受からなそうなの?」
「ん? んー、ちょっとヤバそうかな。この間の模試ではD判定食らった」
「それってどのくらいまずいの?」
「一般的に、合格率二十パーセント以上、四十パーセント未満のことを言う。受験まで日があることを考えても、少し難しいと言えるだろう。ボクたちも来年は無関係ではないからね。覚えておくといいよ、飛雄馬」
「そのつもりはないんだろうけど、なんか馬鹿にされた気がするのは何でだ……」
「それはまごうことなき被害妄想だとも。君が馬鹿にされたと勝手に思い込んでいるに過ぎないよ。それにボクは、馬鹿にするならもっと心をえぐるように試行錯誤するしね」
「陰湿だ!」
思優理のあまりの性格の悪さに、思わず一歩距離をとる。するとその分だけ詰めてきた。
「なに、嫌がらせ?」
「その通りだ。どうも昔から人の嫌がることをしたい性質でね」
「知ってるよ! 結構散々その被害にあってきてたからな俺」
しばらくそうして、一歩下がっては詰められるということを繰り返していれば流石に飽きる。
結局諦めて元の位置に戻った。そんな年下二人の様子を微笑ましく眺めていた先輩は俺らが戻ってくるなり口を開く。
「まあ、そんなわけで結構やばいからな。だからってわけでもないけど、次の大会が終わり次第、いったん空手は休会するわ」
「休会?」
「無知なキャラクターがいると、説明を装って簡単に世界観の描写ができるからと言って、乱用するのは愚行だよ。思考停止以外の何物でもない」
「うっせ、休会の意味くらい分かってるわ。要は休むんだろ、受験終わるまで。あと無知って言うな」
妙に切れ味の鋭い毒舌をなんとかいなしてダメージを殺す。一歩間違えれば精神を病みそうになる話し相手、それが思優理だ。何が面白いのか、ずっとニヤニヤしてるし。道理で学校では友達がいないはずである。ざまあみろ。
とはいえ、一応幼馴染と言える付き合いの長さゆえか、はたまた稽古では合法的にパンチにキックをお見舞いできるからか、あまり悪感情はない。
「けどウザいことに変わりはない。会えて言及はしないけど。隣人を愛せ……隣人を愛せ……」
「なにをぶつぶつ言ってるかは知らないけれど、はたから見ると不審者そのものだよ。ーーそれはそれとして慎也先輩」
「ん?」
一人で尊敬すべきキリストのセリフを唱えていると、思優理はあっさり俺を見限って先輩に向き直る。
「確かに休会はある種の別れではあるけれど、それにしてもあなたの目はいささかさみしさが強すぎるように見受けられる。どういうことかな?」
思優理の言葉に、俺も先輩に目をやる。
別にいつも通りだと思うが……思優理にはそうは写ってないのだろう。彼女の、いわゆる観察眼はなかなかに稀有だ。
先輩は図星をつかれたのか、困ったように頭をかいた。
「いや、まあ確かに休会なんだけど、実際は辞めるっていうかなんていうか……」
「やめる!? なんで」
「飛雄馬、落ち着けって。一応夜なんだからあんまりでかい声出すな」
しかも場所は路地裏。
先輩と空手は切っても切れないものだった。
試合に勝てる勝てない関係なしに、ただ愚直に、空手という格闘技を愛している。それが真也先輩だ。
それだけに、思わず詰め寄ってしまっていたらしい。反省。
「別に辞めるって言っても空手そのものを辞めるんじゃなくて、固心塾を辞めるだけの話なんだよ。だから飛雄馬が心配してるようなことじゃない」
「え、固心塾を辞めるの!? なんで」
「飛雄馬、そう何度も途中で遮らないことだね。普通に考えれば、流れ的にちゃんと話してくれるに決まっているだろうに」
今度は思優理に諌められてしまった。テンパりすぎだろ俺。
先輩は少し言いづらそうに目を逸らし、
「まあ、簡単に言うと引っ越しみたいな」
「引っ越し?」
「そう、なんか親父がいきなり田舎に住みたいとか言い始めて……。母さんがそれに賛同した……」
「えぇー……」
「……それはまあ、なんというか……」
エキセントリックで予想の遥か斜め上だった。どうなってんだよ真也先輩の家庭事情。
「あ、でも安心しろ! ちゃんと近くに空手道場のある田舎にしてもらった!」
「粘るところそこ……?」
「真也先輩は、たまに凄まじいまでの天然ボケをかますものだね……」
俺はもちろんのこと、思優理まで呆れてた。
とはいえ、寂しいことに変わりはない。
「じゃあ、一緒に稽古できるのは次の大会まで?」
「そうだな。中学最後、そんでもって、固心塾で最後の試合だ。やっぱり悔いのないものにしたいよな」
それはそうだろう。
何事も、最後というのは悲しいものだ。終わりの始まりとか、ちょっとかっこいい事を言い出す輩もいるにはいるが、終わりはどこまでいっても終わり以外の何物でもない。
だいぶ小さい頃から付き合いのある人との別れ、か。歓迎し難いものだ。
「おいおい、飛雄馬。そんな寂しそうな顔すんなよ。……いや、お前そこまで表情変わるわけじゃないからちょっと微妙だけど。別に空手自体を辞めるわけじゃないしな。試合で会えるだろ」
何気にちょっと失礼なことを言いながら、先輩は慰めようとしてくるが、
「たぶん、田舎とそこそこの都会じゃ試合区分が違う……」
「そうだね。どこの田舎かは知らないけれど、一応ここはそこそこの都会。近くに田舎はないのだから、真也先輩が引っ越す田舎はそれなりに遠くだろう。となれば、全国大会レベルにならないと会う機会はないのでは?」
「全国行けばいいだろ! みんなで」
「観戦ならどうとでもなるから、行く必要はないけれどね」
「やる気に水差すようなこと言うなって」
「さっきも言っていたけれど、これはボクの性質でね。治すことはできないよ」
「ああ、まあ確かに言ってたけど……悪いこと言わないから治せ」
思優理がいっそ救いようがないほどアレな性質を披露していると、しみったれた空気も吹き飛んだ。これはこれで一応役に立つあたり、思優理は空気を読みすぎる。あるいは読めなさすぎる。
「まあそういうわけで。悔いのないものにしたいから俺も今まで以上に頑張る。お前らも頑張れ。以上!」
そうして先輩が強引に締め、言葉少なに別れを告げて走っていく。
気づけば十字路。三人の行き場所が別れる地点だ。
「それじゃあ、ボクも行くとするよ」
「おう。お疲れ」
「ああ、お疲れ様」
思優理とも別れて、俺は家に向かった。




