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60 待ち合わせ

 *鈴丘可憐視点*



 体育祭が終わってから二日過ぎた放課後。私は駅前の喫茶店に来ていた。

 どうしてかというと待ち合わせのためだ。

 待ち合わせの相手も同じ高校に通ってるんだから、わざわざ喫茶店を待ち合わせ場所にしなくてもよかった気がするけど、なんでか。

 たぶん、見られることを嫌ったからだと思う。もっと言えば知られることを。知られて何か不都合があるとも思えないし、はっきりとした理由はないけど、ただなんとなく。

 ちびちびとコーヒーを飲み、その苦さに眉を寄せながら、ふと時計を確認する。時刻は四時を回ろうとしていた。待ち合わせの時間からはもう五分くらい過ぎてるけど……。


「ごめん遅れて! まさかあんなことがあるなんて〜」


 明るい声に顔を上げると、すごい美人さんがいた。

 美しく流れる黒髪に、水晶をはめ込んだような瞳。大きい胸には、ほんの少しだけ憧れを感じる。

 武藤くんの姉である、武藤香さんはパタパタと慌ただしく席に着くところだった。


「大丈夫です、五分くらい。誤差みたいなものですから。というか、あんなことって?」


「それはね、マリアナ海溝よりもはるか〜に深い事態だよ」


「は、はい……?」


 そんな大変なことが。

 でも深い理由ならともかく、深い事態ってなんだろう。深刻なってことなんだろうか。

 真剣さを増す私の視線を感じてか、香さんは少し決まり悪そうになって、


「いや、今日掃除当番だったの忘れてただけなんだけどね」


「あ、そうですか」


 別に深刻でもなんでもなかった。

 香さんはほのぼのとした空気を崩さず、注文を聞きに来たウエイトレスに私と同じコーヒーを頼んだ。


「可憐ちゃんは何頼んだの?」


「私は普通にお財布に優しいやつですよ。あまり違いとか分からないので……」


「あ〜、だよね。ダージリンとかオーガニックチャイとかカモミールとかブルーハワイとか、どこがどう違うのか。同じ黒い液体じゃん」


「それって全部紅茶の種類じゃ……ちょっと待ってください。紅茶でもないのが混ざってた気が……」


「カモミール?」


「たぶんそれの次……」


「ブルーハワイ」


 それです。


「ブルーハワイはかき氷のシロップじゃないですか。普通間違えませんよ」


「あれ、じゃあブルガーニンだったっけ?」


「それはソ連の首相じゃないですっけ?」


「ブレジネフ?」


「書記長ですね」


「ゴルバチョフ、君に決めた!」


「決めないでください。なんですかそのソ連シリーズ……」


 それも冷戦期ばかりの。


「実は今ね、世界史に力を入れ始めたんだけどさぁ。ソ連周辺あたりが複雑で複雑で。たっくさん機構が出てくるし、ソ連の最高指導者の名前は覚えづらいし、苦労してるんだよ。覚えたそばから記憶の境界の彼方へバンバンとんでっちゃう。私じゃ追えない」


「その例えはよく分からないですけど、大変なんですね」


「うんうん、大変大変。その点、可憐ちゃんは大丈夫そうだけどね〜。なんかちゃんと覚えてるみたいだし。もしや世界史向いてるんじゃない?」


「いえ、たまたま覚えてただけですよ。本当に偶然です」


 実際、冷戦周辺はついこの間やったばかりなので忘れようがない。それよりもっと前の時代……例えば第一次世界大戦くらいまで遡ると、人物も何もほとんど出てこない始末だ。いきなりバルカン同盟の加盟校とか聞かれても答えられないし。

 しかも受験世界史はかなり古代。紀元前から二十世紀までが範囲なので、とてもじゃないけど覚えきれないと思う。だいぶ前に武藤君が、「ギルガメッシュは慢心王でな……」と語ってくれたことも忘れ気味……というか覚えられなかったし、ほぼ確実に不可能だ。


「でも香さんも勉強に苦労するんですね。なんか意外です」


「そりゃするよ〜。いい? 可憐ちゃん。勉強はね、ああ私勉強嫌いなんだなぁって思った瞬間からすご〜く辛くなるんだよ。気がついてからの日々が地獄に早変わりするんだよ。気なんて乗らないから全然覚えられなくなるんだよ」


「は、はあ」


「そしてね、勉強嫌いなんだなぁって気がつくのはだいたい受験生になってからなんだよ! 何この不条理! どうして狙い撃ちしてくるのよ!」


「知らないですけど……」


 受験生になれば勉強時間がどうしても増えていくからじゃないんだろうか。やる回数が増えれば飽きていくのは当たり前だ。

 いつになく力説する様子からは、香さんの本気加減が垣間見える。本当に苦労してるようだ。


「とりあえず、香さんの教訓を生かして、私は世界史だけは選択しないようにします」


「あと日本史もね。あれ、戦国武将とか天皇の名前だけじゃなくて、仏像の名前も覚えさせられるらしいから」


「仏像の……?」


 素人に見分け、つかなくないかな。

 幸い日本史は得意でもないので、選択しようと思ったことはない。その点を言えば、香さんの心配は杞憂だ。

 そうして益体のない……というより、香さんの愚痴みたいなのを延々と聞いていると、彼女の分のコーヒーが運ばれてきた。

 途絶えるところを知らなかった香さんの受験への不満は、そこで一旦ストップ。

 コーヒーに口をつけ、ホッと一息つく香さん。

 どうしてだろう。ここまでの会話に何か今までと違うことがあったわけでもない。香さんはいつも通り同性の私から見ても文句のつけようがないほど美人さんで……いやそうじゃなくて。香さんの様子も、あの文化祭の日と違って平常通りに見える。

 それなのにどうしてこうも空々しさを感じてしまうのか。

 そんな疑問も今回は一旦後回し。香さんが現れてから、圧倒されっぱなしで目的の話題を切り出せずにいた私は、ここがチャンスだと判断し、意を決して切り出した。


「あ、あの、香さん……!」


「うん。ごめんね、長く話しちゃって。本題に入ろっか」


「……っ」


 たははと笑う香さんは、いつになくーーほんの少しではあるけれどーー緊張しているように見えた。それで彼女が、今日ここにそれなりの覚悟をして来ていることに気がつく。


「まあ本題っていっても、私はあくまで可憐ちゃんの質問に答えようと思って来ただけだから。なんなりと聞いておくれい☆」


「…………」


 綺麗な笑みで、香さんはvサイン。いっそ子供っぽい仕草が、彼女が無理やりにでも空気を明るいままにしようとしているのを表していた。

 それは萎縮してしまいそうな私への気遣いであり、自分自身を落ち着けるための手段でもあるのだろう。完全無欠のように見えていた人の、ほんの少しだけ見えてしまった弱さ。

 だからあえて言及はしないで、私は本題を切り出した。


「聞きたいのは、文化祭の時に会ったあの人ーー夕陽思優理(ゆうひしゆり)さんと武藤くんの関係……。いえ、あの二人の間に何があったのか……です」


 一息に言い切って、香さんの言葉を待つ。

 ーー体育祭で、見えてなかったものの正体をぼんやりと理解してから、私の心は軽くなるどころかむしろ重くなっている。知らぬが仏、という言葉の意味を、こんなに身にしみて理解したことはない。

 もしかしたら私は、知らないうちに彼を追い詰めるようなことをしていたんじゃないかって恐怖が、どうしても晴れてくれない。

 とはいえまだ確信じゃないから。だから確認するために今回の待ち合わせだ。

 いや、本当はとっくに確信していて、でも心の準備ができないから、こうして時間稼ぎをしているだけかもしれない。

 しばしの沈黙ーー私にはいささか以上に長く感じたけれどーーの後、香さんはスッと、私の瞳を覗き込んできた。


「まあそこらへんの事だろうと思ってたし、何なりと聞いておくれなんて言っちゃったあとだけど、一応聞いとくよ? 本当に聞いても後悔しない?」


「は、はい。大丈夫です」


 真剣な口調から、一体どんな恐ろしい話になるんだろうと、思わず私は体を硬直させた。それを目ざとく看破し、彼女は苦笑いする。


「いやいや、そんなに緊張するような話じゃないよ。わたしが言うのもなんだけど、本当に大したことがないようなことだから」


「は、はあ」


「ただあの子にとっては重要で、そのせいで、どうにもならなくなってるの。普通だったらなあなあで済ませたり、簡単に折り合いをつけられることを。なんなら、そもそも深く考えようとも思わないようなそんな些細なことをね。ーーで、可憐ちゃんはそれでも、聞く? 怖い話じゃない。むしろ飛雄馬に幻滅するかもしれないけど」


「聞きます」


 つらつらと前口上を並べる香さんに、迷わず私は頷いた。

 どうやらちょっと思ってたのと違うみたいだけど、でも今さら引き下がる気はない。引き下がってもいけないと思う。

 香さんは私の瞳をのぞき込んだまましばらく停止して、次には頷く代わりに目を閉じた。


「うん。まあ私をここに呼び出した時点で、覚悟なんてのは決まってるよね。いやはや、無粋なこと聞いたね〜。ごめんごめん」


 からからと笑って彼女はコーヒーに口をつける。

 香さんはカップを置き、その中に視線を落としてポツリポツリと、というには少しにぎやかな声音で、


「それでは、漫画やアニメで言うところの過去編。暗くて悲しい主人公の経験をお聞きくださいーーまあさっきも言った通り大した話じゃないんだけどね☆」


 口調は完全にいつも通り。見た目にも変化があるようには感じられないけれど、そんな香さんの様子はやっぱりどこか空々しいままだった。

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