56 思考の亡者VS情報の亡者。
*鈴丘可憐視点*
「武藤君……?」
思優理と呼ばれた女の子が向かった方向を見つめる武藤君に、思わず声をかけた。
彼の瞳が、見たことのない色になっていたから。遠くに行ってしまうのではないかという不安に駆られたから。
武藤君はおもむろに私の方を向くと、少し申し訳なさそうな表情になった。
「ああ、そういや鈴丘いたんだった……。悪い、忘れてた」
「え、ちょっと傷つく……」
まったく冗談が感じられない声音だったけど、努めていつも通りに返した。
けどそれきり武藤君は黙り込んでしまう。
助け舟が欲しくて香さんの方を見るけど、すでにそこに姿はなかった。
ーーそれは逃げだよ。
あの少女の言葉が頭をよぎり、それを振り払おうと何度か頭を振る。
「あのさ、武藤君」
「うん?」
「さっきの人、誰?」
それでもやっぱり気になった私は問いかけた。
別に二人が付き合ってたとか付き合ってるとか、そういうのが気になってじゃない。二人がそんな色っぽい関係じゃないってってはあの場の空気と、今まで見たこともなかった武藤君の反応が物語っていた。
だからただ単に気になった。
本当は答えるのもあまり気が進まないみたいだ。武藤君は重々しく口を開いた。
「夕陽思優理。歳は俺らと同じだ。俺が通ってた空手道場で一緒だった奴でもある」
「空手? アチョー、ってやつ?」
「お前の頭の中でどんなのをイメージしてるのか知らんけど違う。アチョーなんて言わないし、瓦割りばっかやる格闘技じゃねえ。すげえ端的に言うならルールのある殴り合いだ」
「そ、そうなんだ……。武藤君、空手やってるんだ……」
今明かされる衝撃の事実。
でも言われてみれば不思議ではないかもしれない。甲斐君の時もパンチを綺麗に避けてたし、結構メンタル強いし。あと、たまに見せる怖い顔も、そういう場面での表情と考えればすんなり納得がいつた。
けど私、武藤君のこと何も知らなかったんだな……。
そんななんとも言えない気持ちになる私に、武藤君は首を振った。
「もうやめた」
「え?」
「空手はやめた。三年前に」
「どうして?」
「いろいろあったんだよ。……いろいろ」
最後に繰り返した言葉は自分自身に対して言っているみたいだった。
そこには何か私の入ってはいけない領域がある気がして。
ついさっきまでの私ならーー武藤君との距離が少し縮まったと思っていた私なら、勇気を出して聞いてたのかもしれない。けれど、今は、どうしても一歩が踏み出せなかった。
本当は距離なんて縮まってなかったって、心のどこかで気がついたんだと思う。
そうして躊躇する私の頭には、一つの疑問が浮かんでいた。
私を通り過ぎる時、夕陽思優理という女の子が見せたあの意味深な瞳。
底冷えするような、ちょっと怖いあの瞳。
あれはいったい、なんだったんだろう。
*汐留朝日視点*
「ちょ、ちょっとストップストップ。止まってくださーいっ」
校舎から出て校門へと向かうコンクリートの道。
私はズンズンと進んでいく黒いジャージの少女に声をかけます。かれこれもう三回目。
バレーボール部に入ってる私の声が小さいわけもなく、まず間違いなく聞こえてるはずなのに、その人は止まってくれない……。これってわざと?
武藤センパイの時も似たようなことあったなぁと考えながら、私は小走りで近づき肩を叩こうとした。
「へ?」
しかし私の手は空を切り、ほんの少しだけバランスを崩してた。
黒いジャージの人ーー思優理さんが避けたのだ。一切後ろを見ないで。しかも最小限の動きで。背後に目でもついてるんですかね?
「……何か用かな?」
思優理さんは、なんとか転ばずに踏みとどまった私を見ながら、平坦な調子で問いかけてきた。なんか、武藤センパイに接する時とだいぶ温度が違うような……。
「え、と、ですね。ちょっとお聞きしたいこと? がありまして」
「へえ、何かな? キミとボクとの間に面識は、それどころかこれが初顔合わせだと思うけれど?」
「はい、そうですね。いや、私はついさっきのやり取り、物陰から見てたんですけど……」
武藤センパイとこの思優理という人。
その冷え切ったやり取りに私が遭遇できたのは偶然だ。お化け屋敷のシフトが終わって、せっかくだからいろいろ見て回ろうと思った矢先に出くわした。
そして見た。武藤センパイが狼狽えるところを。芯をついた、と思っても、スルリと抜け出てしまっていた武藤センパイが、下手な言い訳でなんとかその場を誤魔化そうとする瞬間を。
それだけで、私がこの人を放っておく理由がない。
この人の情報は今の所全くないけど、武藤センパイの情景を引き出すだけなら私の精神もなんとか耐えられるはず。
そんな目算を経ての邂逅だった。
しかし、柔和な笑みなのにどこか違和感がある。中身がない、とでも言うのかな?
「物陰から見てた、か。あまり良い趣味とは言えないね。まあ言わずとも、人の気配は感じていたよ」
「なんとまあ凄まじい感知能力……。本当に人間ですか?」
「人間だよ。少なくともボクは、そうありたいと願っている」
食い気味で発せられた言葉の勢いに思わずたじろいだ。人間だ、と主張する時だけ、思優理さんの目に意思がやどったのだ。
背丈は私より少し大きいくらいなのに、その瞬間の思優理さんから感じられた圧迫感は凄まじい。そこで私は地雷を踏んだことに気がついた。そういえば、武藤センパイと小難しい会話してたなぁ。
思優理さんは、熱くなったことを恥じたのか、一つ息を吐く。
「すまないね。条件反射的なことだったんだ。感情を表に出すだなんて、ボクらしくもない。本題に戻ろうか。キミは一体、ボクになにを聞きたいのかな?」
「そうですね。聞きたいのは、あなたと武藤センパイのことです!」
「何故か、聞いても?」
「そうですねー。ヒミツ、ってことで☆」
「ふむ……」
誤魔化そうと明るさ全開の笑顔を作った瞬間、射抜くような視線が私に突き刺さった。
たぶん値踏みされてる。それが分かるだけに、心地よい視線なわけもなく、若干笑顔が引きつった。なんだろう、この妙な圧迫感は。思優理さんの表情は相変わらず柔和な笑みなのに、近寄りがたい空気がビシバシ伝わってくる。
「飛雄馬と付き合ってるとか、そういう浮ついたものじゃないね。もちろん好意でもない。もっと独善的な、独りよがりな匂いがする」
「……なに言ってるのか分からないですけど、良い評価をもらえたんじゃないみたいなのは理解できました。面と向かって言うなんて酷いじゃないですかー」
「小坂井敏晶曰くーー人はそれぞれの色眼鏡をかけていて、それを通してしか世界を認識することができない。ーーつまり、自身が持つ自らへの客観的評価も、所詮は主観に寄ったものだ。だからこそ客観的意見は極めて重要な価値を持つんだよ。例えそれが酷評だったとしても、きちんと受け止めるのは必要なことだと思うよ」
「それを言うなら、思優理さんも自分を見直したほうが良いと思いますけど……」
「意見ありがとう。しかしボクは散々自分を見直し、検討し、思考を重ねた結論として、意図的に変わることをやめた。自然に変わるならまだしも、今すぐの変化には期待しないでほしいな」
「そうですか……」
屁理屈と言えなくもないような気がするけど、別に本題じゃないからいいや。
「ともあれ、キミは今、個人における非常にパーソナルな部分に踏み込んでいる。少なくとも、たった今互いを認識した者同士が話題とするようなことではない。この世に何人もいる頭の軽い、思慮に欠ける非人間共ならいざ知らず、ボクは話すべきことではないと、そう判断するね。逆に疑問なのが、どうしてキミは、ボクが話すと思ったのか、だね」
「いやぁ、あのセンパイの細かいことを知ってるひとなんてそうそう出会えるものじゃないんですよ。だからこの機会、逃したくないじゃありませんか」
「なるほど、その気持ちは分からなくない。二度と来ないかもしれない機会には、確かに気持ちははやるものだね。けれど、マイペースだと耳にタコができるほど言われてるボクも、プライバシーには一定の配慮はするさ。物騒なことこの上ない世の中だからね。繰り返すようだけど、キミのような名前も知らない相手に話すつもりはない」
そこで私は、この人に名乗ってないことに気がついた。名前も言わない相手はそりゃ警戒するよね。忘れてたのは、情報を持たない相手と喋ることへの緊張だと思う。
「申し遅れました。私は汐留朝日です。ここの学校の一年生ですね。四階の端っこでお化け屋敷をやってたクラスです」
「……知っているようだけど、ボクも一応名乗っておこうか。ボクは夕陽思優理」
そして思優理さんは頷いて満足げな色を浮かべる。
「ボクの意図を正しく汲み取ったことを、褒めておこう。キミも多少なりとも素質がありそうだ」
「はあ、どうも……。で、話してくれるんですか?」
どうやら名乗ったことが功を奏したようで、思優理さんから感じる圧迫感が少し落ち着いた。
もしかして、意図的に圧迫感を与えてたの? やっぱりこの人、ただ者じゃない。
「そうだね、さっきも言った通り、ボクはプライバシーには一定の配慮をする。だから深いところまでは話さないけれど、少しなら構わない」
「それは、ありがとうございます!」
どうやってもこれ以上は無理そうだ。そんながっかりした心境を表に出さないように、全力で微笑んだ。
「うん。では話そうか」
飄々と切り出す思優理さん。
私も手帳を取り出して身構える。
思優理さんはそれに一瞬怪訝そうな顔をしたけど、今気にするのはやめたみたいだ。
「まず、ボクと飛雄馬の関係だね。大前提として、決して色っぽい関係じゃない、ということは断っておくよ。ーーボクと飛雄馬は幼馴染さ。初めて会ったのは小学二年生の時」
「幼馴染……」
なるほど。武藤センパイに幼馴染っていうのもなんだか想像ができなかったけど、言われるとなんとなく腑に落ちた。
「会ったのは空手道場。そこから三年前、つまり、中学三年の初めの頃まで交流があった」
「空手道場……通りで鋭いわけで」
「ボクのことかい? 確かに気配とか、そういったものには人より敏感だね。生来のものでもあるし、後天的に得た技術でもある」
言ってる意味は分からなかったけど、今はそれより、
「ところで、どこの空手道場ですか?」
「それはノーコメントで。さらに言えば、飛雄馬はもうやめてしまってるからね」
「なんだ……」
うーん、ままならないなぁ。細い糸を見つけたと思ったら見失ったみたいな感覚。どこの空手道場か分からないと調べられない。
いや、調べられなくはないのかもしれないけど。思優理さんを尾行とか。でもこの人を尾行なんて、すっごい高難易度。
「とまあ、ボクと飛雄馬との関係は大体そんなところだよ。これ以上は、かなり個人的な話になるからボクは口をつぐむ」
「えっ、そんなぁ……」
恨みがましい視線を向ける。子犬っぽさを意識して、ムーって感じで。罪悪感を煽ってさらなる情報を……。
「そんな表層だけ繕っても無駄だよ。他の人ならともかく、それはボクには通じない。むしろキミの内面が見え透いてあまり良い印象は受けない。控えたほうがいい」
「は、はい」
すごい眼力だ。機嫌を悪くされても困るので、私は迷わず顔を元の形に戻した。
「そんなに萎縮しなくてもいい。チャンスくらいはあげるさ」
「……そりゃプライバシーに関わるってことなら、私も多少は明かしますよ。ホントに多少ですけど」
「うん。はっきりと要求内容を言わなくても会話が成立するというのは、いいものだね」
思優理さんはまたもや満足そうに頷いた。
さて、どんな要求が飛んでくることやら……。
「ボクの要求はたった一つだよ。ーーキミが、ついさっきからボクに恐怖している理由を聞きたい」
「っ……!」
それはよりにもよって一番触れられたくない部分。
まさかそこを突かれるなんて思ってなかった。ちょっと話しただけでそこにたどり着くなんてありえない。
そう思うのに、心の奥では納得していた。それは多分、私の目の前にいる人が、武藤センパイを追い詰めてたから。
崩れちゃいそうな表層を、かろうじて取り繕って、自然とは言い難い笑みを浮かべる。
「……なんのことだか、分からにゃーです」
「…………」
思優理さんは声を発さない。さっきも私を貫いた、観察するような視線をこれでもかって向けてくる。
怖い。
どうしようもなく怖いけど、逃げるわけにもいかない。今はただ、やり過ごすしかない。
握りしめた手帳が、くしゃりと音を立てた。
「ふむ、キミは一見真っ向から立ち向かってるようだけど、それは逃げの結果のようだね」
「はい?」
「ボクに恐怖していた理由は、細かくは分からない。分からないけれど、キミの怖がり方は人見知りする子供のそれとひどく似通っていた。それとその手帳。ボクと飛雄馬の関係を聞いてる時、キミはそれに素早くペンを走らせていたね。察するにその手帳ーー自分が関わり合いになった人のことを記すためのものだろう」
「へぇ、だとしたらどうです?」
努めて冷静に言ったつもりだったけど、出てきた声はちょっと掠れてた。
思優理さんは「図星、か」と呟いて、考え込むように顎に指を当てる。
「もしかして、何も知らない人が怖いのかな?」
「…………」
なんなんだ、この人は。
ほんの数分の会話で、どうして私の深いところまでたどり着ける。
私の頭の中には、もう情報を引き出すことなんかない。どうすればこの場を収められるか。そればかり考えてる。
「思優理さん、嫌われません?」
次に口をついて出た挑発的なセリフに、思優理さんは破顔。いや、ずっと微笑ではあったんだけど、その笑みをもう少し深くした。
「こんなボクが、嫌われないなんてことがないだろう? もっとも、ただそれだけの理由で変わろうだなんて思わないけれどね」
「…………」
ああ、この人は分からない。
はっきりと敵意を感じ取ったはずなのに、少しも崩れない。
自分の決めた価値基準に則って、その行動指針を曲げない。
そんなところはすごいと素直に思うのに、この人を理解できるとは思えない。
例え弱みを握ったとしても、この人を意のままに操るなんてことはできなさそうだ。
「どうやら、意図せずしてキミのだいぶ深いところまで到達してしまったようだね。一応謝っておくよ。すまない。プライバシーには一定の配慮をすると言っておきながら、矛盾した行動を取ってしまったね。けれど勘違いしないで欲しいのは、それが決してわざとではないということさ」
「どういうことですか?」
「そうだね、簡単に言うと、ボクの目は特別製なんだ。昔から、面白いくらいによく見えてね。ああいや、視力が飛び抜けていい、という意味ではないんだ。そうだな……観察眼、とでも言うべきものだろう」
「観察眼……」
それは、鈴丘センパイと同じような……?
だとしたら、私は接触しちゃいけない人に相対してることになる。やっぱり、情報不足は怖い。
「話を戻そう。何も知らない人が怖いのなら、知ってしまえばいい、というのは当たり前の解決手段だ。けれど、キミはそこに疑問を抱いてるね」
「…………」
正解だ。
私が集める情報は、電話番号とかメールアドレスとか。その人が、どういう経歴を持つのかとか、そういう表ばっかり。
その人を構成するのはあくまで内面で、経歴なんて関係ない。なのに表だけを知って、その人のことを理解したことにする。
そうしないと、どうしようもなかったから、目を背けてた。
ああ、これじゃ武藤センパイと同じだ。
あの人が何から目を背けてたのかは知らないけど、思優理さんとの会話は、今、私が体験してるのと同じような感じがした。
「表情が変わったね」
「……それはどうも」
相変わらず、思優理さんは怖い。理解できる気がしなくて、得体が知れなくて、本当に怖い。だけど目を背けてたものに気がついた瞬間、少し余裕が生まれてた。変なの。
「キミには人間である素質がある。だからこそ、キミが逃げていた何かについて、じっくりと考えて欲しい」
「なんですか。それを言うために、遠慮なく観察して、人の心に土足で踏み込んだんですか。最悪ですよ」
「心外だよ。そのことに関しては、わざとじゃないと、そう謝ったじゃないか」
「自然に分かっちゃっても、自分の中に閉じ込めておけばいいじゃないですか」
「あいにく、ボクは思ったことは口に出しておきたいタチでね。お詫びと言ってはなんだけれど、さっきキミに教えなかった事を一つだけ教えてあげよう」
「なんですか?」
私が手帳を構えるのを待って、思優理さんは言葉を紡ぐ。
「ボクと飛雄馬が通っていた空手道場……もっともボクは今も通ってるんだけど、そこの名前を教えよう。固心塾という。情報を集めるのは得意なようだから、後は教えてあげなくても大丈夫だろう」
「ありがとうございます。……もしかしてこれも、私に考えさせるためですか?」
「まさか。言ったろう? お詫びだって」
そう言う思優理さんの空虚な微笑には、悪戯っぽい色が見え隠れしていた。
そのまま去っていく彼女を、私は止めない。
それにしても、これからクラスメイトと接するの、大変そうだなぁ。今まで私が集めてた情報、気休めだって分かっちゃったし。
けど、そんなに嫌な感じはしない。
武藤センパイも同じように思ってるかは、わからないけど。




