55 思考の亡者。
呼吸が荒い。自分の顔がわずかに引きつるのが分かる。
本能がーーあるいは俺の腐った意思がーーすぐに逃げろと警鐘を鳴らす。
何をバカな。確かに相対した相手は、俺が嫌いで苦手とする相手だが、だからといって即座に逃げなければならないほど危険ではない。自ら相手に怪我を負わせることは決してない少女だ。先の蹴りにしても、俺が防げるように調節していた。
そう思う一方、足は身を翻して走り出しそうだった。走り出さなかったのは、彼女のーー夕陽思優理の視線に貫かれたからだ。
本質を捉え、考えすらも見抜き、全てを見透かす瞳。そんなものに観察されれば、確かに一瞬硬直するだろう。
実際俺はそうで、そのせいで逃げる機会を逸してしまった。
「三年ぶりくらいかな。飛雄馬は……少し変わったね。背が伸びて、筋肉も少し落ちたみたいだ。もっとも、ボクの蹴りを受け止められるってことは、維持する努力はそれなりにしてるようだけど」
「変わらないものなんてないだろ。三年経ってるのにほとんど変わらないお前がおかしい」
「いや、ボクとて全く変わってないわけじゃないさ。そうだね、具体例を挙げるとすれば、少し胸が大きくなった」
「知らねえよ」
肩口をくすぐる漆黒の髪。整った中性的な美貌には、空虚な微笑を張り付け、左目のあたりにある泣きぼくろが醸し出す色気を完全に潰している。身につけた髪と同じほどに黒いジャージも、身体の凹凸を隠してしまい、独特の口調も相まって、およそ少女らしさと呼べるものがなかった。
「……え? えっと、誰……?」
途端に凍りついた空気を敏感に感じ取ってか、はたまた突然の攻撃に動揺してか。鈴丘はどうにも場の流れについて行けていない。もっとも、ついて行ける方がおかしいが。
思優理は鈴丘を一瞥。それだけで取るに足らないと判断したようで、視線をすぐに俺に戻した。
「いやはや、すまないね。取り込み中だったみたいで。うっかり見落としたよ」
「嘘つけ。分かっててやってんだろマイペース。つーか、さっきの蹴りはなんだよ。今廊下にいるのが俺らだけだから良かったものの、そうじゃなかったら通報ものだぞ」
「もちろん廊下が人で溢れかえるなんて不快な状況だったら攻撃なんかしなかったよ? 警察沙汰なんて、いかにもボクが嫌いそうなものだろう? キミの中のボクが、そんな事に思慮が回らないほど愚かに写ってるのだとしたら口惜しいよ」
「思慮が回るならそもそも蹴るな」
「いやいや、普通に声をかけたり、肩を叩いたりして再会を喜ぶなんてあまりにもつまらないじゃないか。あれはボクなりのユーモアと、そう解釈してほしい」
実に面白そうに押し殺した声で笑う思優理。それすら、少しわざとらしく見える。もっとも、それは彼女の本性を知ってしまったからなんだろうけど。
「その迷惑なユーモアはこの際どうでもいいけど、お前なんでここにいるんだよ」
「……かの有名な哲学者デカルトは、自身の著書『方法序説』においてこう語っている。曰く、我思うゆえに我あり、と。つまりーー」
「いや、そういうのいいから。俺が聞いたのはそういう哲学的なアレじゃなくてだな……」
「まったく、女性が話してるのにそれを遮るだなんて、飛雄馬は紳士とは言い難いね」
セリフこそ拗ねた女の子のそれなのに、そう言う思優理は空虚な微笑を崩さない。多分彼女は、拗ねてもなければ笑ってもない。そこまでは分かっても、それ以上の内心となると、欠片も見透かす事がかなわず、もどかしい。
「ボクがここにいるのなんて、別におかしい事じゃないだろう? 高等学校における文化祭は多くの場合一般公開されるのだから、他校生がいてもなんら不思議ではないよ」
「だから……」
「そう言う事を聞いてるんじゃないんだよね? そのくらい分かるさ。そうだね、今は、答え合わせ、とだけ言っておこうか。より深い意味を考える事はキミに委ねよう」
「はあ?」
何を訳のわからないことを。
疑問を表情の全面に浮かべるが、思優理は気づいていながら一切取り合わない。「ーーところで」とマイペースに語りだす。
「飛雄馬、キミは今、人間かい?」
ドクン、と。心臓が脈打った。
思優理に出会った時からの警鐘が、一際大きく聞こえる。
……やばい。
今度は考えるよりも先に体が動いた。
感じた危機感そのままに回れ右をし、
「逃げるなよ?」
分かっていたかのようなタイミングで楔を打ち込まれて、動けなくなる。
「逃げるのはボクの質問に答えてからでも遅くない。それとも質問の意味が分からないのかな? そんなことはないと思うけど、まあ一応ヒントだけはあげよう。ーーかの有名な数学者パスカルは、自身の著書『パンセ』においてこう語っている。曰く、人間とは考える葦である、と。もっともこれはヒントというより答えそのものみたいなものだけれど」
逃げ道を完全にふさいだ上で、思優理は問いかける。
ーーお前は考えているのかと。
思考思慮熟慮、そういったものから逃げているのではないかと、問いかけている。
いかにも彼女らしいやり方に、いっそ懐かしさすら覚える。だが声は発せられない。首だけを思優理に向けたまま、体も動かすことができない。
それでもなんとか振り絞って声帯を震わせ、音を紡ぐ。
「逃げることは……」
「ん?」
「逃げることは必ずしも悪じゃねえだろ。深追いすることで逆にダメージを被ることだってあるんだ。ほどほどのところで止めて、後は知らないふりすることも、利口なやり方のはずだ」
「…………」
言い切るとほぼ同時に、思優理の値踏みするような視線が俺を射抜いた。
一から十まで、武藤飛雄馬という人間を暴くことすら可能だという、居心地の悪さを感じる。だから俺は小さく身じろぎして、その視線から逃れようとする。
けど、そんなことで逃れられるのなら、こんな感覚とはもっと早く決別できていたはずだ。
値踏みを終えたのか、思優理は少し肩の力を抜くと、ため息をついて大仰に首を振って見せた。
「確かに、ボクも逃げることそれ自体を悪と断じるわけではないよ。時には戦略的撤退も大いに必要さ。それは思考においても同じことだね。算数の基礎もおぼつかない者が、数学者が苦心する問いに立ち向かってもさして意味はない。問いについて思考するのなら、ある程度数学というものを学習してから、というのが定石だろう」
「あぁ……」
「もっとも、思考そのものに重きを置くボクとしては、答えの出ない問いに立ち向かうことを否定するつもりもないけれどね。どうせなら答えの出る問いを考えたいと、そう思ってしまうのは、まだボクが未熟という証なんだろう」
そう自己分析を口にして、思優理はジッと俺を見据えた。
「話が逸れたね。つまりボクはいわゆる戦略的撤退ーー彼我の戦力差や実力差、能力差を考慮して、今はまだその時ではないと思考を、答えを保留することは否定しない。否定はしないけれど、キミのそれは駄目だよ。飛雄馬」
「……どういう意味だよ」
「簡単な話さ。キミのそれは戦略的撤退ではなく、単なる逃亡であり逃避だ」
何を語ったわけでもない。大した時間話したわけでもない。
それなのに突きつけられた言葉は的を射ていて、
「……めろ」
「逃げて自分を高めるわけでもなく、ただただ流れる時間に身を費やす。生まれた問いから目を背けて、なかったことにして、違和感を押しつぶすことにのみ集中する。いや、もしかしたらキミは違和感にも背を向けていたのかもしれないね」
「やめろ」
「飛雄馬は変わったよ。悪い方に、だけれどね。言い換えれば、ボクが望まなかった方向に」
「やめろっつってる」
自分の口から出た声に驚いた。こんなに敵意を向けたのは一体いつ以来だろう。
だが、思優理は俺の敵意を、殺気をものともしない。相変わらずそこにあるのは空虚な微笑で、でも、その瞳には微かな怒りが見て取れた。
「やめないさ。まだキミには可能性があると思うからね。"人間"である可能性が。そういえばさっき、キミは言っていたよね。逃げることは悪くない、だったか。繰り返すけど、戦略的撤退であるならボクは認める。けど今言いたいのはそこじゃない。もっと大前提さ」
「…………」
「逃げることを肯定するなら、まずキミが逃げ切ってほしいな。だけど飛雄馬、キミは逃げ切れていないだろう? ーー自身の問いから」
「…………」
トドメだった。
きつく閉めていた蓋は二度にわたって開けられ、三度目である今回で破壊された。
遮るものは何もない。視界から外すことも目を閉じることもかなわずに直視させられる。
たぶん、こうなるのが分かっていたから、俺は焦った。激しく警鐘が鳴った。
その上で何もできなかったのは、警鐘の理由を考えれば、自ずと逃げてきたものを見なければならなかったからだ。そして、理由のはっきりしない警鐘に、俺は従えなかった。
もしくは、思優理に出会った瞬間から、すでに諦めていたのかもしれない。今となっては分からない。
思優理の瞳からは怒りの色が消え、代わりに元どおりの虚無が広がっている。その真意を確かめることはできないが、彼女の言っていた"答え合わせ"の意味は分かった気がする。
俺が彼女の言う人間であるのかどうか。それを確かめに来たのだろう。
酷く、迷惑な話だ。
だが迷惑だと思うのと同時に、肩の力が抜けた気もして、自分で自分が分からなくなる。
「何してるのかなぁ、思優理ちゃん」
不意に、俺と思優理だけで構成されていた空間に、声が届けられた。
反射的にそちらに目をやり、見慣れた姿を確認する。
「姉さん……?」
「久しぶりだね、香さん。まあ、貴方に再会を喜ぶつもりは、それこそ微塵もないようだけど」
気づけば、劇を見終わった人々が増え始めてきている廊下。
思優理の後ろ。いつからいたのか、姉さんはその表情に綺麗な笑みを張り付けている。
だが、友好的なものではない。知る人が見れば、いや、知らない人が見ても体を震わさずにはいられない、攻撃的な笑みだ。
俺自身、若干の恐怖と寒気は拭えない。
「思優理ちゃん、私は、何をしてるのかなって聞いたんだよ?」
「別に。ただ単に答え合わせをしてただけだよ。予定外ではあったけれど、意識改革のようなこともしたと思う」
「……そう、ちょっと遅かったんだね」
「遅かった? そうだね、確かに貴方は遅かった。遅かったけれど、それは別に今、この瞬間の問題ではないよ」
「どういうこと?」
「そのままの意味だよ。具体的な時間は分からないけれど、貴方に限って飛雄馬の異変に気がつかないなんてことはないはずだ」
「そうだね……」
触れれば怪我をしてしまいそうな笑みに、空虚な微笑は遠慮をしない。
同じ笑みなのに、そこには激しい対立があった。
「これだけの短時間で、飛雄馬の非人間化に気がつけたのも、ひとえにその異変があったからさ。おかげで、いつもより。いや、ボクの知ってる飛雄馬のいつもはもう三年前だから、あまりアテにはならないだろうね。ーー以前よりも簡単に読み解くことができた。だから貴方が飛雄馬の逃避を確固たるものにするなら、異変が起こった瞬間にどうにかしなくてはならなかったんだよ」
ただ淡々と事実を語る口調。それに姉さんは目を細め、
「思優理ちゃんは、相変わらずよく喋るね」
「勘違いしないでほしいけれど、ボクがこんなに喋るのは飛雄馬が絡んでいるからだよ? 彼のように素質がある者は珍しいからね」
至極当然という風に、語る思優理は、確かに上機嫌に見えた。あくまで表向きは。おそらく腹の底は、もっと違う感情が渦巻いているのだろう。
読めない。姉さんを前にしても、少しも動じない彼女は。
だから思優理が次の瞬間、ため息をついくことも分からなかった。
「なのに、姉弟だというのに、香さんに素質がないことは口惜しいよ。今もほら、自分には踏み込めない領域だと勝手に判断して傍観している。ーーそれは逃げだよ」
俺に向けたのと同じ、諭すような、それでいて試すような口調。
「分かってるよ」
それに姉さんは、表情を一つも変えないで答えた。
「私のこれは逃げだって分かってる。いくら理解したくて必死に考えても、結局はダメだったからね」
「だから諦めて逃げた、と?」
「諦めたのとはちょっと違うと思うよ。だったら何って聞かれたら答えられないけどさ。……それに、逃げることは別にいい悪いことじゃないよ」
「その問答はすでに飛雄馬としたよ。まったく、ボクのセリフに対する反論はここまで似てるのに、貴方に素質がないなんて、本当、何かの冗談なんじゃないかと思えてくる」
「飛雄馬は私と違って頭がいいからね」
「そうかな? 頭だけなら貴方もかなりのもののはずだけど……。いや、この問答は無駄だね。なんにせよ、揺さぶっても何も出てこない貴方に、ボクはもう興味がない」
「言いにくいこともズバッと言うところ、変わってないね」
「貴方相手に取り繕う必要もないだろう? それに、今日ここに来た目的は、少し遺憾なものではあったけれど達成できたしね。帰ることにするよ」
「そうだね。私も、飛雄馬も、その方がありがたいかな」
「貴方も十分、言いにくいことを言う」
姉さんを視界から外した思優理は俺を見る。
瞳には、満足度は行かないまでも、納得の色がある。奥底まで見通せなくても、そのくらいの表層だけなら分かった。
「じゃあね、飛雄馬。また会うのを楽しみにしているよ。今度がいつなのかは、残念ながら今のところは分からないけれど、ね」
「そうか。俺は首をこれでもかってくらい短くして待ってる」
「もう会いたくい、という思いと、自分から会いには行かない、という意思を慣用句になぞって一言に集約する……。なかなか面白いね」
「うっせ、解説すんな。早く帰れ」
「言われなくても」
空虚な微笑をたたえながら、夕陽思優理は俺のいる方に向かってくる。一瞬身構えるが、何もせずに通り過ぎた。
帰るなら普通、回れ右をするものだろうに。
そう思ったと同時、普通という言葉が、彼女に全く似合わないことに気がついた。
通り過ぎた思優理は、自分の道を歩く。自分の信念のまま、正しいと信じる道を。
その姿を視界に収めないというのも何だか癪で、俺は思優理の進んだ方に目をやった。
嵐のごとく猛威を振るった彼女の後ろ姿は、雑踏に紛れてもう見えなくなっていた。
ーーいや、黒いジャージの裾だけは、視界に収めることができた。
あなたは、人間ですか?
と、偉そうなこと言ってみる。




