32 ボランティア活動【上】
夏休みの宿題というものがある。
あの手この手で夏休みというサンクチュアリでヘブンなタイムを消滅させそうとする、人類の敵だ。
ある者は七月中に終わらせ、ある者は計画的にコツコツと削り、ある者は夏休み最終日に徹夜を仕掛けてなんとしてでも終わらせようともがく。そしてだいたい提出ギリギリまでやってる。
それも当然のことだろう。夏休みは四十日ほどと長い手前、一日徹夜したくらいで終わる、そんな生易しい分量を、偏差値の高めな学校は出さない。
「お前ら夏休みだしどうせ暇だろ?(超笑顔)」とばかりに他教科との兼ね合いなんかちっとも考えずに出す、出す、出す。
結果夏休みが四、五割削られるのだ。
まあそれはダラダラやった場合だが、それでも半分削られるのはわけが分からない。
そんな宿題だから、先にも述べた通り一徹では終わらない。それは無謀な試みだ。
だから俺は、二徹した。
夏休み終わり頃ではなく、夏休み開始と同時にだ。
漫画もアニメもラノベも全て封印し、明るく煌びやかな連休を手に入れるべく、ただひたすら宿題をやった。
さすがに二徹となると、後半はテンションがおかしくなっていたし、気を抜いた瞬間落ちてたが。
そして俺はやり遂げた。
直視するだけで心が折れそうな量の夏休みの宿題を片付けた。
とはいえ、全てというわけではなかった。
机に向かってやるだけの宿題は片付けられたが、まだ一つ残っている。
すなわち、ボランティア活動。
都の決定だか教育委員会の決定だかで、高校生は「奉仕」の授業を受けることになっている。
ボランティア活動はその宿題だ。
出された夏休みの宿題の中でトップの面倒臭さと重さを誇る上に、これをやらなければ単位がもらえないらしいので、バックレるわけにもいかない。
仕方なく、本っ当に仕方なく、俺は今、ボランティア活動先である保育園へと向かっている。
木城保育園。
俺がここを選んだ理由は、家から割と近かったからに他ならない。
近いだけならまだ他にもあったが、保育園という文字に心が惹かれた。何故か。楽そうだからだ。
どうせ保育園とか小さい子供の相手をするだけだろう。無駄に責任のある仕事を任されるよりはよっぽどいい。
そんな思惑もあって、俺は迷うことなく木城保育園をボランティア活動先に選んだ。
そんなわけで、俺は今来たことのない路地裏を延々と歩いている。
時刻は午前八時。陽が出始めてからまだ大して時間が経っていないせいか、夏といえども比較的涼しい。日陰はなおさら快適だ。
だが涼しく快適といってもやはり夏。歩いていれば自然と汗が滲んでくる。
目元に垂れてきた汗を手の甲で拭う。
「つーか、どこだよ木城保育園って……」
手にはiPhone。地図アプリを起動して逐一自分の今いる位置を確認している。
なのに、それなのに、一向に件の木城保育園は見えてこない。
いや、決して遠いというわけではない。家からは電車こそ乗るものの、かなり近いところにあった。
そう、俺は地図読めないんだ……。
汐留の時に、そのことは十分理解しているから、早めに家を出たのが幸いした。
今自分がどこの通りを歩いてるのか全く分からないけれど、一応心に余裕を持つことはできる。
合唱祭の時も現地集合で、迷いそうなものだったが、あの時は平気だった。
一体なんでだったか……。
はたと考えるとすぐに答えは出てきた。一年の時も同じところ行ってるからだ。その時には姉さんも一緒だったし、迷った記憶がないのも頷ける。
しかし現在、姉さんも行ったことがあるという記憶もない。
「あれ、詰んでね」
気がついたら都外はおろか無人島にいる可能性もある。いや、ないか。それはさすがに。
止まっていてもどうにもならない。とりあえずすぐそこの角を曲がってみる。
行き止まりだった。
もうこのままボランティアをバックレたろかという思いが浮上しかける。
しかし単位を落とすのはノーだ。それだけは避けなければならない。
お茶の入ったペットボトルを口につけ中身を流し込むと、再び歩き出す。
そうして角を曲がり、たまにUターンし、キョロキョロと辺りを見渡すこと十数分。
いい加減心が折れてきた頃、もう何度目とも知れぬ曲がり角を入ると、パステルカラーに塗られた建物が見えた。
そこには可愛らしい像や、猫や、虎といったイラストが描かれており、一目で普通の住居でないのが分かった。
すぐさま回り込み確かめる。
正門と思しきところにある塀には、大理石に掘られた文字。
「やっと着いた……」
さすがに辿り着いただけでこうも安心するとは思わなかった。
木城保育園に、やって来た。
***
「いやー、早かったですねー」
「はい、まあ」
思う存分迷っても、来てくださいと言われた時間の十分前に着くことができた。現在時刻は八時二十分。
今は担当の人が更衣室に案内してくれている。なんか水遊びをするとかで、汚れてもいい服を持ってくるように言われていたのだ。
俺はてっきり水遊びをする直前に着替えるんだと思っていたが、そうではなかったらしい。ボランティア活動が始まる前に着替えるようだ。
廊下を道なりに進んで、いくつかの扉を過ぎると、ちょうど行き止まりにぶつかる。
その行き止まりのすぐ手前にある扉が、更衣室の扉だろう。
「えっと、ここが和室ですね。ボランティアの方には和室を更衣室代わりに使ってもらうことになってます」
「はあ」
「はい、それで、ここに荷物を置いて着替え終わりましたら、一旦職員室に来てください。園長にご挨拶と、あと本日やっていただくことの概要を話しますので」
「分かりました」
「はい、それでは」
言って去って行く担当の人を何の気なしに見送った。
エプロンをつけていたところを見ると、あの人も保育士なのだろう。やたらテキパキしていて、できる女性という印象を受けた。
しかしやたらテキパキしているということは、そうしなければならなかった理由があるはずだ。その理由は職場にあると考えるのが妥当だろう。つまりここ。
「…………」
楽そうとか思ってたけど、もしかしたら案外大変なのかもしれない。
選択を間違えたかもしれないという思いが浮上してくるが、着替えないことには始まるまい。
俺は更衣室代わりの和室の、閉じられたままの襖を開けて中へ一歩踏み出した。
人がいた。
大きな目は驚かれたように開かれ、頬は朱に染まっていて妙に艶かしい。
清潔感のあるセミロングの黒髪が、露出した透明感のある白い肌にわずかにかかり、それが少女の華奢な体躯を強調している。
着痩せするタイプなのだろうか。細身でありながら、胸は思っていたよりも豊かに見える。
俺が図らずも出くわしてしまった下着姿の彼女は、よく見知った顔だった。
というか鈴丘だった。
「へ……?」
形のいい桜色の唇が動いた刹那、硬直した俺の思考が再開する。
とりあえず目に焼き付け……いや違う。
足へと全身の力を込めて大きく後ろに跳びず去る。
過去最高速度を記録したバックステップは、一歩踏み込んでしまった禁断の園から瞬く間に俺を廊下へと連れ戻す。
それとほぼタイムラグなしで、ズバァン! と襖を閉めた。
……ふう。
これで一件落着。俺は何も見てない聞いてない。はい嘘です済みません。がっつり見ました。見てしまいました。脳内メモリーにはしっかりと残っています。なんならロックをかけて永久保存にするレベルだし、もうした。いや何いってんだ俺。そこはいの一番に削除しないといけないことであって、でも記憶を完全に消去するなんてできないしもういいんじゃね。いやよくない。
凄まじい速度で頭の中を数々の思考が巡る。その一つ一つには全く意味がなく、もはや空回りだ。
端的に言って、超動揺してた。俺にしてはなんと珍しい。
お前何そんなに動揺してんだよ童貞力高すぎんだろとか思ったお前。じゃあ逆に聞くけどお前は動揺しないのか。するだろ。どんなにアレでも多少は動揺するだろ。
と、見た方が動揺するなら見られた方も動揺することに気がついた。
不可抗力であろうとなんであろうと見てしまったなら謝らねば。土下座で。それはさすがに止めたほうがいいか。
「え、と、そ、そのだな。悪い。なんかここで着替えろって言われたもんで……。あー、つまりわざとではないというわけでな……」
未だに動揺は消え去らず、しどろもどろだがなんとか襖の向こうに呼びかける。
それに数秒遅れて鈴丘の声が聞こえる。
「そそそ、それは、うん。大丈夫。大丈夫じゃないけど、大丈夫。ちゃんと武藤君と保育士さんの声聞こえてたし、わざとじゃないのは分かってるし。分かってるし……分かってるんだけどぉ……」
相当ダメージが大きいのか、襖の向こうからは「ぅぅぅぅ……」というくぐもった声が聞こえた。本当に申し訳ない。
なんだよラッキースケベって。ラノベ主人公じゃあるまいし。いや待てよ……。実は俺が気がついてないだけで、俺はラノベ主人公なんじゃあダメだまだ動揺してる。
しかし一体どうしてこんなハプニングが起こったのか。実は誰かの策略だったり……と思ってたら、その答えは彼女が教えてくれた。
「なんか私を案内してくれた人と声が違ったから、たぶん今私がここにいるの知らなかったのかもしれないね……」
「なるほど」
なんだよそれ。頼むから連携取ってくれ。ホント、頼むから。
それっきり互いの会話はなくなり、しばしの間静寂が訪れる。
俺は自分の着替えのことなんかすっかり忘れて、気持ちを落ち着かせようと、深呼吸をしたり頭を振ったりしてた。
そうして五分ほど過ぎた頃だろうか。
ポンッと、突然肩を叩かれた。
「ぅおっ!?」
「おぉうっ!?」
まだ完全に落ち着いていなかったせいか、はたまた背後の気配に鈍感になっていたせいか、驚き反射的に声を上げてしまった。そして肩を叩いた本人も、そんな俺に驚いているようだ。
誰だよこんなに馴れ馴れしく接して来る保育士さんは。
そんな思いを胸に振り返ると、見知った、それでいて会うのは久しぶりな人物が一人。ただその声はずいぶん最近に聞いている。
そいつは片手を上げて微笑を浮かべながら口を開く。
「よっ、飛雄馬」
「紫苑……」
常盤紫苑が、そこにいた。
***
常盤紫苑。
俺とは幼稚園時代からの友達で、男の幼馴染という全く需要のない属性持ちである。
線が細い割に運動ができたり、ピアノの実力もあったり、イケメンだったりと、モテる要素が山盛りの少年だ。ただ、少しガキっぽいところはある。
最後に話をしたのは一ヶ月半ほど前。合唱祭成功の旨を連絡した時だ。
現在はどっかの音楽を専門的に学べる高校に通っているとかで、それもあまり会わなくなったことに一役買ってたのだが。
「なんでお前ここにいんの?」
頬を染めて更衣室から出てきた鈴丘に紫苑を、紫苑に鈴丘を紹介したあと、俺はいの一番にそう聞いた。
紫苑は質問に肩をすくめ、
「なんかボランティア。夏休みの宿題でさ」
「へえ、お前の学校ってボランティアの宿題とかも出るのな」
確かに都が「奉仕」の授業を定めてるのだから、紫苑が俺と同時期にボランティア活動に来るのは決しておかしいことじゃない。確率は低くとも、十分あり得るだろう。
「いやー、でもびっくりしたよ。『そこの角曲がった突き当たりに和室あるからそこで着替えてこい』って男性の保育士さんに言われて放置されたんだけど、そんで曲がってみたら飛雄馬いるんだもん」
「お前の案内した人、雑すぎね?」
俺と鈴丘はちゃんとここまで案内してもらえたぞ? お前なんかやらかしたのか?
「雑と言えば雑だけど仕方ないんじゃね? 保育士って大変な上に給料が少ない職業らしいから」
「え、大変なの?」
「……えっと、飛雄馬はもしかして大変じゃないと思ってたのか?」
どうしてそんな当然のことも知らないのかという風に聞かれた。だが待ってほしい。保育士になる興味がなければ自然と情報もカットされるというものだ。
「まあ武藤君らしい選び方だよね……」
「いやいや、だったらお前らはなんで保育園のボランティアなんて選んだんだよ。大変なんだろ?」
「そもそも大変じゃない仕事なんてないだろー……。俺は家が近かったからだな。子供も嫌いじゃないし」
「私は普通に子供が好きだからだけど……武藤君は子供嫌いなの?」
チラッと、心なしか心配そうに見られた。
その視線の意味は知らないが、子供が好きかどうかなら分かりきっている。
「好きとか嫌いとか、結構どうでもいいんだよな」
「まーだ言ってるよ」
「ああ、俺は永遠に言い続ける」
「無茶苦茶だー」
紫苑には呆れられ、鈴丘には困ったような苦笑を向けられる。
しかしこればかりは仕方ない。子供が好きかと聞かれたら、どうでもいいというのが本音だ。まず関わり合いになることないし。
まあ嫌でも今日関わることになる。好きか嫌いかはその時分かることだろう。
「それにしても、仲いいんだね」
突然鈴丘がそんなことを言った。
「ん? そうだね。仲はいいね。だよな、飛雄馬」
「自分で仲良いって言っちゃうのどうなんだよ……。否定はしないけど」
何気なく放った一言だったが、それを聞いた鈴丘は硬直する。直後、驚き百パーセントの表情をおそらく無意識に作った。
「武藤君が……仲良いのを……認めた……!?」
「そんな大ごと?」
なんでそこまで驚きなさるんだよ。さすがの俺でも少し傷つく。
「飛雄馬、お前学校で仲のいい友達いないのかよ?」
「おいこら紫苑。お前もその母さんみたいな柔らかい笑み止めろ」
「え、でも武藤君、学校でもちゃんと友達いるでしょ? ほら、西倉君」
「お前もやめろ鈴丘。あいつは断じて友達じゃない。あいつはただのうるさい人だ。迷惑な人だ。俺とは何の関係もない可能性すらある」
できれば本当に無関係であったらありがたかった。今からでも無関係にならねえかな。
そんなことを考えていると、鈴丘がハッとした表情を作る。
「そういえば武藤君と……常盤君? は早く着替えないとじゃないの?」
「「あ」」
即座に時計を確認。
長針が六、短針が八を指している。つまり八時半。あまりダラダラしていていい時間ではない。
「飛雄馬、早く着替えちゃおう。えっと、鈴丘さんだっけ? 先行ってて」
言うが否や、紫苑は和室へと入っていった。
ついさっきまで鈴丘が着替えていた部屋に。
………………。
仕方ないか。
ここで着替えてくれと言われているのだからそうするべきだろう。それに、ここ以外に更衣室と思しき部屋は見当たらない。あまり時間もないし、忙しいらしい保育士さんを呼び止めて、そんな事を聞く必要もなかろう。
そう判断すると、やや気後れしながら俺も和室に入り襖を閉める。
直前。
鈴丘も気がついたのか顔を赤くするのが見えた。
安心しろ鈴丘。お前がついさっきまで着てたTシャツとかには手出さないから。
それはホント、マジで誓う。
そんなこんなで、木城保育園でのボランティア活動が始まった。
感想かもん




