小太郎の思い
それからの日々は、思っていたよりも幸せな時間だった。
毎日、毎日。一緒に話しをしたり、ご飯を食べたり、遊んだり、散歩したり。
朝から晩まで、私は彼の側を片時も離れなかった。彼が笑ってくれるから、私も笑顔になれる。幸せでいられる。
でも
相変わらず彼は私を『冬月さん』と、呼んだ。
「誉くん。一応今日で退院になるけど、病院通いは続けてね」
「はい」
誉は松葉杖と、小さな荷物バッグを持って、病院の玄関に立っていた。
「腕は完治、足はあともう少しで治るわね。あと…、そうそうっ。あんまり無理すると肩の傷が開くから注意してね」
「はい」
誉はあの若い看護婦さんに最後の注意を受けていた。
そういえば、看護婦さんは真央に「用事が無くてもいいからたまには病院まで会いに来てくれると嬉しいわ。また屋上に行きましょう」と言ってにっこり笑っていた。
ドクターも「弟の利緒をよろしく頼むよ、真央くん。君の事を慕っているらしいが、どうでしょう?真央くんが利緒の彼女になってくれると私としては嬉しいのですが」と言って、真央を苦笑させていた。
「誉ちゃん」
「冬月さんっ!」
自分の名を呼ぶ真央の声に返しながら、誉は真央に駆け寄った。
「退院おめでと。丁度よかった、明日から学校だから病院に行くのどうしようかと思っていたところだったから。」
「何、学校優先で行くつもりだったの?ひでー」
「まさか、毎日学校休む理由考えなきゃって思ったのよ。」
と、真央は肩をすくめながらおどけて言った。
誉はそれを聞いて笑っていた。
結局のところ、誉の退院を迎えても誉の記憶が戻る気配はなかった。
でも真央は、もう誉の記憶が戻らなくても別に構わないと思うようになっていた。
今までの記憶が戻ってくれるのならば、それが一番いいけど。戻らないのなら、今度は新しい思い出を作っていけばいいんだとさえ思っていた。
― ただ『冬月さん』と呼ぶ声だけは、真央の頭には妙に響いて聞こえた。
「おはよう」
次の日の朝から、真央と誉の日々は元に戻った。
何も変わってはいない。
そう、何も変わってはいないのだ。
彼と私の関係以外、は。
彼は今までと同じようにクラスメイト達とあいさつを交わす。
「おはよう、小太郎君」
「真央ちゃんおはよ。今日も息を呑む程、可愛いねっ…ってそうじゃない!!なぁ、真央ちゃん。あいつ…誉はどうしちゃったんだよ!真央ちゃんの事だけ忘れてるって・・・。」
「いいのよ。誉ちゃんが悪いわけじゃないんだし。」
「でも…っ!―…俺は納得しねぇぞっ!!」
小太郎は小さくは吐き捨てるようにそう言うと、不機嫌なようすで教室から出て行こうとしている。
「ねぇ、どこ行くのよっ。もうすぐ授業始まっちゃうよ。」
「授業なんてやってられっか。さぼりだよさぼり。先生には適当に誤魔化しておいてよ。」
小太郎は真央を残し、教室を出てった。
「小太郎君ってば…。やれやれ、ね。」
「何が『やれやれ』だって?冬月さん。」
小太郎とのやり取りを見られていたのだろうか。誉は少し心配そうに真央にそう言った。
「小太郎君が『やれやれ』なのよ。授業さぼるって言ってどっか行っちゃったんだから。」
「…―ふぅん。んじゃ、ちょっと俺も次の授業さぼるから、よろしく。」
「あらそう、行ってらっしゃい…って、違うっ!!誉ちゃんまでさぼる事ないでしょっ。―…あーあ、行っちゃった…。」
真央が『ノリ突込み』をしている間に、苦笑しながらも誉は教室を出てった。
「……同じ班の人が二人も抜けてどーすんのよ。」
「やっぱり、ここだと思ったよ小太郎。」
「来ると思ってたぜ、誉。」
誉が向った先は屋上だった。
屋上には、先にさぼりをつげた小太郎が誉の登場が分かっていたような、満足そうな笑みを浮かべて立っていた。
屋上のフェンスの隙間からは、生ぬるい空気が吹いている。
小太郎は、表情の穏やかさに反面した重い口を、静かにあけた。
「お前は本当に真央ちゃんのことを忘れてるんだな?」
「…そうらしい。」
誉は少し申し訳なさそうにうつむいた。
「昔の…真央ちゃんの事を覚えている時のお前は、真央ちゃんが好きだと言っていた。」
「・・・・・・。」
「俺はお前がお前が本気で好きならいくら好きでも真央ちゃんの事は諦めようと思った。お前が相手なら…って。でも前にも言ったが、今のお前が相手なら俺は諦めきれない。」
小太郎は、真剣な口調とは裏腹に穏やかな表情をしている。
「…それを言った所で、小太郎は俺にどうしろって言うんだ?」
誉の問いかけに、小太郎は答えなかった。ただ、ポツりと力強く言った。
「今のお前に1つ聞く。…真央ちゃんの事好きか?」
「え?」
いつもの小太郎からは想像もできない朗らかな顔で、小太郎は言葉を繰り返す。
「もう一度聞く。真央ちゃんの事、好きか?」―