病院
― 君、誰? ―
誉ちゃん?何言ってるの?私だよ。真央だよ!
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「誉ちゃん……。」
真央が目を覚ますとそこは清潔感ただよう病院で、ふかふかの白いベットに真央は横たわっていた。
(何でここに…あ…そっか。)
そこまで考えて、真央はあのまま自分も気絶してしまった事を思い出した。
それと同時に、目の前での惨劇も思い出してしまった。
「誉ちゃん…っ、誉ちゃんはどこ…?!」
真央は病室の他のベットに目を走らせた。
と、突然病室の扉が開いて、若い看護婦が入ってきた。
「あら、起きたのね。大丈夫?怪我はないわよね」
「あの…!誉ちゃ…事故にあった男の子はどこに…?」
「あぁ、あの子ね。誉くんだったかしら?」
「はいっ…そうですっ。」
「ふふっ、隣のベットで寝てるわよ。」
そう言われると、真央は素早く隣のベットとの仕切りのカーテンを開けた。
「誉ちゃんっ!」
誉は、まさに天使の寝顔ともいえるような表情で、静に寝息を立てていた。
「…生きてる…っ」
「知り合いなのね。恋人かしら?」
看護婦さんは意地悪っぽく笑った。
「ち、違いますよ!ただのクラスメイトですっっ。」
「いいのよ、照れなくても。からかったりしないから。」
「照れてませんっ!」
「ところで誉くんなんだけどね、事故の様子は随分ひどかったみたいだけど、怪我はたいした事はなかったのよ。左足の骨折と、右腕の打撲。あと、右肩のあたりに切り傷があるけど命には別状ないって。」
「そう、なんですか…。」
(よかった…)
「ただね。」
「ただ…?」
「頭への衝撃が強かったみたいで、もしかしたら何か支障があるかもしれないって。」
(ドキッ)
真央はそう言われて思い出した。
― 君、誰? ―
喋り方もなんとなく違かった。
頭への衝撃が大きかったからだろうか?でも、もしかしたらそうじゃなくて、事故の衝撃が強くて真央の事を上手く認識できなかったからだろうか?
真央はなんとなく鳥肌が立った。何故か恐ろしく思った。
「じゃあ、先生を呼んでくるから大人しく待っててね。」
「…はい。」
看護婦が出て行くと、真央はもう一度誉の顔に視線を戻した。
(…私の事覚えてるよね?目を覚ましたら笑顔で『真央』って呼ぶよね…?)
「誉ちゃん…」
「ん…」
誉は、真央の声に反応したのか、ピクリと動いた。そして、ゆっくりと目を開けた。眩しそうに何度も目をパチパチさせながらベットから起き上がると、真央の視線に気づいたのか不思議そうに真央を見つめた。
「…誰?」
(ズキッ…!)
「あ…」
真央の瞳からは、何の抵抗もなく大粒の涙が零れ落ち始めた。
(やっぱり私の事忘れてるんだ…!誉ちゃん…!)
「えっ?!何で泣いてんだよ…っ。おい…っ。」
誉は突然泣きじゃくる少女を目の前に、おろおろするばかりだった。
「誉くん。」
いつから居たのだろう。誉が病室の扉に目を向けると、そこには背の高いまだ歳の若い医者が立っていた。
「やはり脳に障害が出てしまったようだね。」
「何それ…。脳に障害ってどういう事ですか?」
「うん、一時的なものだとは思うけれど、何ていうか…、記憶喪失まがいの障害があるって事なんだ。」
「記憶喪失?別に俺、誰の事も忘れてませんけど…。両親の事だってちゃんと覚えてるし、クラスの奴らも覚えてる。」
「え?でも君は真央くんと知り合いだったんじゃないのか?なのに君は真央くんの事は覚えてないと?」
(誉くんは記憶喪失の自覚がないのか?おかしい…何らかの自覚症状がでるのが一般の場合なはず…)
「真央くんは、誉くんと知り合いなのだろう?」
真央は先生を見て、それからチラッとだけ誉を見ると、また先生に視線を戻して遠慮がちにコクンと頷いた。
「ほら、やっぱりそうじゃないか、誉くん。君は記憶喪失になっているはずなんだ。」
「だからー!先生っ俺はその人の事なんて知らないし、記憶喪失にもなってないってば!」
「じゃあ何で誉くんは真央くんの事は覚えていないんだ…っ」
話の矛盾に、少し苛立ちを感じたのか、先生は怒鳴るようにそう言った。
(記憶がすっぽり抜けているのか?)
「……。」
その場に暫しの沈黙が流れて、それから真央がそっと口を開いた。
「誉ちゃん、小太郎くんと佳絵の事覚えてる…?」
「…何で君、小太郎と佳絵ちゃんの事知ってるの?」
「誉ちゃん、小太郎君と佳絵の事は覚えてるの?」
真央は驚きと悲しみが混ざったような表情をして、答えを求めるかのように誉と先生を交互に見た。
「えーと…つまり…。言いにくいことだが…誉くんは真央くんの事だけを忘れていると。そういう訳かな?」
「…私の事だけ…?」
真央の頭の中は既にぐちゃぐちゃなのに、その中に次から次へと無理矢理いろんな事がねじ込まれていくようだった。
真央は涙を止められなくなって、まだふらふらの体で病室を飛び出した。
「きゃっ!」
病室の扉を開けた途端、真央は誰かとぶつかって、後ろに押し飛ばされた。
「おっと!急に飛び出してくるなよ…!って、あれ?真央ちゃんじゃん!」
「…っ!!っ小太郎…君。」
真央は小太郎の姿を見て一瞬動揺したが、すぐに小太郎の脇をすりぬけて病室を出て行った。
「あっ、真央くん!待ちたまえ!真央くんだってまだ安心できる体じゃないのに…っ」
先生は、焦って真央を追いかけようとしたが、その前に看護婦のお姉さんに止められた。
「先生は誉くんの側に居てください。真央ちゃんは私が追います。」
「あ…、あぁ…わ、分かった。頼む」
「はい。」
看護婦のお姉さんは、呆気にとられている小太郎を退けて真央の後を追った。
「…えーと…、何コレ?どういうこと?」
「…小太郎。さっきの女の子の事知ってるか?」
「は?てめぇ、とぼけてんじゃねーよっ。」
「……俺、その子の事知らないんだ。」
「何だよ…冗談キツイぞ、それ…。説明しろよ、誉!」
小太郎は今にも誉に襲い掛かりそうな勢いで詰め寄った。
「小太郎君と言ったかな?ちょっとこっちにきたまえ。」
先生は、その二人の間に割って入るようにしてから、無理矢理小太郎の腕を引っつかんだ。
それに対して小太郎は少しうさんくさそうな目を先生に向けながら、先生の手を振り払った。
「…アンタ、誰?」
先生の眉が、若干ピクリと上がった。
「蒔田 豊。誉くんの主治医だよっ。」
(何で…!…何でっ…?)
真央はどこへ向かっているのかも分からず、どこに行きたいのかもわからず、顔を涙で濡らしてひたすら走っていた。
「真央ちゃん!待ちなさい!」
名前を呼ばれて振り返るとそこにはさっきの看護婦のお姉さんが居た。
「もうっ、疲れちゃったわ。こんなに走ったの久しぶりね。」
「…すみません。」
看護婦さんはふうと溜息をつくと、優しく、柔らかく笑いかけた。
「ちょっと屋上にでもいかない?」
「え…っ。いいですか?仕事中じゃ…」
「いいの、いいの。少しくらいサボってもバレないから。」
笑顔でそう言う看護婦さんを見ても、真央は何となく申し訳ないような気がして、うつむいた。
そんな真央を、看護婦さんは少し力強く真央の手を引いた。
「さっ、行きましょうよ。風に当たると気分が落ち着くわ。」
「…はい。」
お姉さんは、真央の手をしっかり握って病棟の端まで連れて行き、小さな扉を開けた。
小さな扉の先には長々と続く階段があって、お姉さんは「気をつけて」とい言いながら階段を登っていった。
階段の終わりにはまた小さな扉があって、その扉を開けると風が真央の横をすり抜けた。
「今日は風が気持ちいいわね。」
「そうですね。」
「ちょっとタバコ吸ってもいいかしら?」
「…仕事中……」
「かたい事言わないのっ。」
そう言ってお姉さんは、白い制服の内ポケットからタバコの箱とライターを取り出した。
「…ふーっ…」
「…いつも持ち歩いてるんですか?」
「んー、そうね。だいたいいつも持ってるわね。嫌な事があったり、疲れたらココに来てタバコ吸って…。それだけでも随分スッキリするわ。」
「…なんか、少しだけ分かる気がします。」
「ふふっ。分かってもらえて嬉しいわ。」
それからお姉さんは、タバコを片手に屋上に置いてあるベンチまで歩いて、真央を手招きした。
「私の特等席よ。」
お姉さんは冗談っぽく笑いながら、そう言った。
「……どうして誉ちゃんは私の事だけ忘れているんでしょう…?そういう事ってあるんですか?」
「そうねぇ…、事故にあった時よっぽどその人の印象が強かったり頭に残ってたりすると、ごくまれにそういう事もあるわね。」
(…私への印象が強かった?)
「先生は誉ちゃんの記憶喪失は一時的なものだって言ってましたよね?」
「えぇ、言ってたわよ。」
「誉ちゃんの記憶は戻るんですね?」
「んー、必ずとは断言出来ないわね。もしかしたら一生って事も在り得るし、すぐに戻るかもしれない。周りの環境にもよるわ。」
「周りの環境…ですか…」
「…これは私の個人的な意見だけど、あなたの印象がそこまで強いなら記憶が戻るキーワードも、あなたにあるんじゃないかしら?」
「記憶が戻るキーワード?」
「えぇ、フラッシュバックって言うのかしら?あなたと過ごしていろんな思い出に触れる事で、記憶が戻るかもしれないわ。あくまでも私の意見だけどね。」
「でも…誉ちゃんが思い出さなかったら、どうしよう…」
真央の瞳からは、またもうっすらと涙がにじみ始めた。
「甘ったれないで。」
「…っ?!」
「泣くならもっと頑張ってから泣きなさい。何もしないで泣き寝入りするのは簡単よ。目の前の事から逃げ出すのは卑怯だわ。」
「……。」
「あなたにしか出来ない事は沢山あるんだから、それをやって、それでもダメなら泣いていいわよ。それまでは、私が許さない。」
「…はいっ。」
真央は手の甲で涙を拭うと、にこっと笑った。
「なーんて、全部ある人の受け売りなんだけどね。」
そう言ってお姉さんは照れながら恥ずかしそうに笑った。
「お姉さんも好きな人いるんですか?」
「あら、いるわよー。でもね、大人は好きとか愛してるじゃなくて『惚れた』って言うのよ。」
「…へぇ。それも受け売りですか?」
「失礼ねぇ。自分で考えたわよっ」
お姉さんはタバコの箱とライターをポケットに戻すと、ベンチから立った。
「私はそろそろ行くわね。怒られちゃうわ。」
そう言ってお姉さんはクスッと優しく笑って、屋上をでた。
真央は澄んだ綺麗な空を見上げた。
― 誉ちゃんの記憶は、絶対私が戻す! ―