父親だった頃の話
父親だった頃の話
「これは俺が、父親だった頃の話なんだがな」
グラスを片手に、隣の中年が話しかけてきた。急に知らないおじさんに話しかけられた訳ではない。むしろ、何か重いものを抱えていそうな彼に最初に声をかけたのは自分だ。
「父親だった……と言うと、まるで今は違うみたいですが」
「その通りだ」
深くは踏み込めない事情があるのだと、肌で感じた。
「よく笑うやつだったよ。どんな時も気持ちだけは負けないような子でね。ただ、元々体が弱くてな。インフルエンザなんて毎年かかるようなやつだった。……それが、ステージ4だ」
「それは……お気の毒に」
「無理に同情しなくていいさ。たまたま隣に座っただけの仲なんだから。人間、ちゃんと深く関わらないと同情なんてできない……いや、軽々しくしない方がいいと思うんだ。理不尽だな、俺から話し始めた癖に」
「いいえ。ここはため息とお酒を交換する場所ですから」
これ以上聞きたくはない、というのが本音だった。だがそれ以上に、他人の不幸話を余計な同情抜きで聞いている自分に、どこか新鮮さを覚えていた。
見透かされたのだろうか。おじさんは少しだけ目を細め、優しい顔をした。
「では、甘えさせてもらおうか」
おじさんは一口酒を含み、遠くを見る目になった。
「あいつが生まれた時、俺は二十八だった。小さくてな、抱きしめると手が余るくらいだった。最初は産声をあげなくてヒヤヒヤしたが、助産師がお尻を叩いて、ようやくあの声が耳に届いた。今の時代は男も育児をするもんだろ? 仕事と育児で毎日てんてこ舞いだったよ。でもな、疲れて家に帰ってドアを開けると、倍になって聞こえてくるんだ。たったそれだけのことなのに。」
おじさんの口元が、少し緩む。
「三十二の時だ。あいつに将来の夢を聞いたら『ドラゴン』だって言うんだよ。無理に決まってるだろって笑ったら、本気で泣き崩れちゃってな。怒られながらなだめたよ。黒龍になりたかったらしい。中学二年生くらいになったら絶対にネタにされるぞって、本気で心配したものさ」
「三十六の時には、二人でよく格闘ゲームをやった。手を抜くつもりは毛頭なかったよ。甘やかすと現実を見失うからな。あいつが使うキャラを、容赦なくメテオで叩き落としてやった。どこで覚えたのか、負けるたびに『運命に抗おうぜ』なんて言ってきたっけな。多分意味はわかってない。」
「三十九の時、好きな人が出来たと報告された。……嬉しかったなぁ。成長したんだなって。どんな子だとか、どこが好きになったのかとか、色々聞きたかったさ。でも、しつこく聞くとウザがられると思ってな。『そうか、楽しめよ』とだけ言った。素っ気なく聞こえたかもしれないが、あいつは満足そうに笑って自室へ戻っていったよ」
グラスの氷が、カランと音を立てた。おじさんの声から温もりが消える。
「四十を過ぎた頃だ。……癌と診断された。どこの癌だったかも、正直よく覚えていない。恐怖で目の前が真っ暗になっていたんだと思う。治療費を稼ぐためだって自分に言い聞かせて、仕事漬けになった。……今思えば、目の前が真っ暗だったんじゃない。ただ単に、息子から目を背けたかっただけだ。病室に行くのが怖くて、ひたすら仕事と睡眠を繰り返すだけの毎日を選んだ」
「診断から二年半が経った頃、病院から『今日が山場だ』と連絡が入った。慌てて駆けつけたよ。痩せ細って、薬の影響で髪もなくなっていた。先生からは、やはり今日を越えるのは難しいと言われた」
「4時間後、一度だけあいつの声が聞こえた気がした。だが、なんて言ったかは聞き取れなかった。……奇跡なんてものは、起きなかったよ」
おじさんは静かにグラスを置いた。
「夜が更けてしまうな。この辺にしておこう」
なんとなく分かった気がした。この人が抱えている後悔の形が。
「今夜は、若返りの薬を飲んでますから」
「残念ながら、グレープフルーツも一緒に口にしちゃったみたいだ」
「……後悔してるんですね。息子のことを、最後まで見守れなかったこと」
「若い人は容赦がないな。……その通りだ。俺はあいつから目を背けた。言い訳をして逃げた。あいつはきっと、俺を恨んでいる」
おじさんはカバンのファイルから、一通の封筒を取り出した。
「手紙をもらったんだ」
「封、まだ開けてないんですね」
「大体なにが書いてあるか分かるからな。見たくないんだよ」
「恨まれている……というのは?」
「当たり前だろ。ろくに病院にも行かずに放置したんだ。妻に苦労をかけているのも、あいつは一番近くで見ていたはずだ」
「そうですか。でも、それでも読んだ方がいいんじゃないですか?」
「見たくないんだよ。自分のことを許せなくなってしまう。今の、後悔している自分のままでいたいんだ」
現実を理解していながら、真実を知ることを恐れて逃げている。矛盾しているが、責める気にはなれなかった。
「……それでも僕は、向き合ってほしいです」
おじさんは一瞬だけ息を呑み、静かに「そうか」と言った。
ゆっくりと封を切り、中の便箋を広げる。内容を目で追うにつれて、おじさんの目からボロボロと涙がこぼれ落ちた。ずっと泣きたかったのだと思う。
「……やっぱりあいつは、言葉の意味をわかっていたんだな。多分」
初投稿です。やからそこまで厳しく見ないでください




