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夢を見た。
石崎さん親子との女子会が楽しくて、そして二人が夕方に帰って行ったあとも、私の胸はずっとほっこりとしていた。次の約束も楽しみで仕方がない。大人二人と一緒で菜月ちゃんがたいくつしてはいけないから、ここから五キロ程の距離のところにある公園に三時間くらい遊びに行くという計画だ。
嬉しい気持ちのまま布団に入ったのに、私は薄暗い夢を見た。
急にこのやまぶき荘を出なければいけなくなる夢だ。胸がスン、と冷たくなった。
夢の中の空は曇り。大家さんがこの土地を売って立ち退き、やまぶき荘が取り壊しになるらしい。あたふたする私をよそに、みなどこかへ引っ越す準備を始めるが、どこに行くのか誰も教えてくれない。石崎さんも菜月ちゃんも教えてくれない。みな私がそこに居ないみたいにただ引越しの準備をしている。どうしよう。なんで急にそんな話になっているんだろう。私はすぐに出て行けない。新しい住処が探せない。それだけのお金がないのだ。
それに私はやまぶき荘から出て行きたくない。
どうしようどうしよう、みんなどこかへ行ってしまう…とただ焦って悲しくなる夢。
いやだどうしよう、どこにも行けない、行くところがない…と思いながら目が覚めると、部屋はまだ明け方の薄暗さ。静かな雨の音も聞こえる。
布団の中でそのまま、仰向けに横たわったままで見たばかりの夢に浸ってぼんやりする。置いてけぼりになる夢と部屋の薄暗さと雨の音で、わびしさ倍増だ。他の部屋や外からも、何の音もしない。隣の水本もまだ眠っているのだろう。あんなに眠る前は嬉しい気持ちでいっぱいだったのに。
でも良かった。夢で良かった。
あーー…夢で良かったなあ。
暗い夢は何を暗示しているのだろうと考える。石崎さん親子と仲良くなれて遊びに行く約束をしたけれど、雨が降って計画が無しになるかもしれない。三人のうちの誰かが体調を崩すかもしれない。小さい頃からそうだ。楽しい計画にはいつも邪魔が入る。結局その邪魔が怖くて計画なんて立てられない。
本当に夢で良かった。
それでもこの先、ここを出なければいけない時はやって来る。やまぶき荘が無くならなくても、その前に石崎さん親子が引っ越しすることだってあるだろう。…その時にはどこへ行くかを教えて欲しいな。そこが私の訪ねていけない距離の場所でも。
そして私は寂し気な雨の音を聞きながら決心した。
早く正規雇用の仕事を見つけよう。何か一つでも資格も取ろう。私は一人なんだから。これから先ももしこのやまぶき荘が無くなって、みんながどこかへ行く事になっても、私も私の行きたいところへ行けるように。
行きたいところに行けなくても、一人きりで薄暗い部屋で動けなくなってしまわないように。
そして母のことも考えた。
お母さんも一人でずっと怖かっただろうな。頼れる人もいないのに。夫が仕事もせずにぐだぐだのまま死んでしまって。自分だけではなく私のことまで考えなくちゃいけなくて。そして考えてもどうにもならないことばかりで。
お母さん、ごめん。お母さんの哀しさを、お母さんが生きているうちにちゃんとわかってあげられなくてごめん。
泣いてしまいそうになったが、仕事に行く前にさらに暗い気持ちになるのは嫌だと、なんとか我慢しているところに、窓の外でカサカサッと音がした。
外はさっきより少し明るくなって来て、雨の音もより静かに、たまにぽつぽつと雨樋から落ちるしずくの音は聞こえる。そしてサッシの外の狭くて薄いベランダの床をトントンと歩く音。音は一度隣のベランダまで行って、また戻って来た。
きっとキイだ。
少し早いような気がするけど朝の散歩かもしれない。ベランダも濡れているだろうに勝手に出て来たんだろうか。
今度は窓のすぐ外、カサッ、カサッ、とサッシのレールに手を掛けてまるで私を呼んでいるような音。でも、ここでカーテンを開けたらすぐに逃げていくと思う。
それでも何の反応もしない私にしびれを切らしたのか、キイは小さく、短く、「にゃあ」と鳴いた。
時計を見ると七時少し過ぎ。カーテンを避けて鍵を開け、そっと窓を開けると外に待ち構えていたキイは、逃げてしまうどころかシュパッと部屋の中へ入って来たので、思わず避けてしまったが慌てて言った。
「え、ちょっと待ってキイ!足濡れてるでしょ!」
体にもうっすら、少し水滴が付いているが、私の声に振り向くことも立ち止まることもなく、キイはそのまま当たり前のように私の布団にパスン、と飛び乗って大きく伸びをした。
「うわキイ~~…」ベッドに駆け寄りキイをなじる。「濡れてるのに布団の上やめてよ~~」
タオルを持ってくる間もなくて、布団のそばに置いたティッシュペーパーでキイの背中と頭、そして足を拭くと少し嫌がり、一度私をじっと見つめてから、ゴロン、と気持ちよさそうに布団の上で寝返りを打った。
「キイ!もうーー…まだ全部拭けてないのに!」
そうなじった私をからかうように、そして濡れた体を拭き切ってしまおうとするように何回も続けてゴロンゴロンと寝返りを打つので、可笑しくなって笑ってしまった。急に笑った私を上半身を起こしたキイがじっと見つめてくるので、もう一度改めて「おはよう」と言うと、キイはぴょんと飛び起き、すたすたとまた窓辺に戻って行った。
あれ?もう帰っちゃうの?雨に濡れた体を拭きに来ただけ?
それでもキイは開けたままの窓まで行くとそこから出て行こうとはしない。私も窓辺にゆっくりと近付く。
「散歩して来たの?」と静かに聞いてみる。
キイは「にゃあ」と短く鳴いた。
「雨ちょっと降ってるのに?」
「にゃあ」
「それでちょっと雨宿りするためにうち来たの?」
「にゃあ」
「まだ行かないよね?」と聞くと、それには返事がないが、キイは行儀よくしゃがんで外を見始めた。
下手に近付き過ぎて嫌がって外に行ってしまったら嫌だ。あんな夢を見た後だし、このままここに、しばらく一緒に居て欲しい。
「私も一緒に外見ててもいい?」
そっと聞くと、それにもまた無言だったが、私はそのまま静かキイの後ろに座り込んだ。
良かった。そのまま逃げないでいてくれている。音もなく降るほんの少しの雨とその向こうの薄灰色の空を私とキイは静かに見つめた。
雨はもう止む。
ベランダの外の土の上のぬかるみも、敷地の端の菜園の濡れた草花も、静かに湿った空気も、まだぼんやりしている空も、外を見たまま動かないキイも、そこにあるものすべてを優しく感じることが出来る。心の奥底からほわっと沸いて来たほんの少しの温かいものが少しずつ私の体の中で膨らん来る。
本当に、夕べの夢は、夢で良かった。
「もしかしてさ」私はキイが一緒に居てくれることが嬉しくて言ってみる。「私が変な夢見て怖い気持ちになってんの、気付いたから来てくれたの?」
返事をしてくれるかな、くれないかな…。
キイが短く「にゃあ」と答えてくれたので、心の中で「わあああ」と喜ぶ。
「キイはもうご飯食べたの?」調子に乗って聞く。
「…」
これは無視か。まだ食べていないのかな。
キイがちょっと動いて、あっと思う。
「帰っちゃうの?」
「…」返事をせずに私を振り向いて見上げるキイ。
可愛いな。まだここに居て欲しい。
キイは無言のまま、すぐにまた元の姿勢で外を見始めた。良かった。まだ少し居てくれそう。
向こうの雲の隙間からうっすら陽が差して来て、ふいに雨は止んだ。ふわっと温かくも冷たくもない風が吹いて来てカーテンを少し揺らすと、ほんの一瞬だけキイの右耳もぴくっと動いたがまだそのまましゃがんで外を見ている。
コーポの塀の向こうの、家の屋根の上の空も淡く明るくなっていく。
私は今ここにいるのだ。このやまぶき荘に住んで、今こうやって空を見ている。
キイはこの世界のどこを今見ているんだろう。
「キイ」と、そっとキイに呼びかけてみる。もう何度目だろう。キイもいい迷惑だな。キイの目に映る空の色と私の見る空の色はきっと違う。それでも私はキイに小さい声で言った。
「いい天気になりそうだね」




