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 部屋に入って靴を脱ぎ、溜息をつく。

 もともと引越しの荷物は少ない方だと思っていたのだが、まだ開けていない段ボール箱が大小合わせて十個以上もあった。

 それにしても、あんなモデルのような外見の人が隣の部屋の住人…。都会でもない中途半端な田舎町のこんなこじんまりとしたコーポに住んでいるのも驚きだが、初対面で結構な軽いノリで話して来られたことに、今になって少しソワソワして来た。有り得ない。同じ年代の同性からでさえ、初対面であんなに話しかけられたことがないのに。

 とにかく挨拶が済んだのは良かったが、水本と名乗った隣の住人が、石崎さんに何を教えましょうかと言っていたのかが余計気になって来た。


 まだ二部屋挨拶が出来ていないのも気になるが、とりあえずお腹も空いたし、帰りがけに買って来たおにぎりとカップ麺の天そばを食べようとお湯を沸かしていると、大きな音でドアチャイムが鳴った。

 初めて鳴ったチャイムの大きさに驚いたが、水本か大家さんではないかと思った。外灯のことを話しているのがドア越しに薄っすら聞こえて来ていた。部屋に少しは慣れたかとか大家さんに聞かれたら面倒だなと思いつつ、ドアを閉めたまま「はい」と答えると、「私、私~」と答えた声はやはり大家さんで、私は火を止めドアを開けた。

 「もう~~春花ちゃ~~ん」

とたんに、そこに立っていた大家さんは眉をしかめ私をなじる様に言った。「すぐ開けちゃダメだよ。もっと確認して。ちゃんとモニター付けてるんだから。まずモニター確認して」

ああそうかモニターか。実家の古いドアチャイムにはモニターなんて付いていなかったから反応できなかった…と思いながら、大家さんが私を下の名前で呼んでいることに少し驚いている。

「すみません。でも声で大家さんだとわかったので」

「え?声で私だってわかったの?もう声覚えてくれたの?それは嬉しいけど。でもやっぱりモニター確認して。私と声のよく似た変質者だったらどうするの?」

「…次から気を付けます」

私の答えに大家さんはにこにこと頷いてから言った。「明日の夜なんだけど、春花ちゃんと石崎さんとこの歓迎会やるから。七時から」

「…歓迎会?歓迎会ですか⁉」

聴き間違いかと思って強めに聞き返してしまった。

「そうそう」飄々と答える大家さんだ。

「あの私!」慌てて頭と手のひらを横にぶんぶん振りながら断る。「歓迎会とかそんなわざわざ開いていただくなんて…」

大家さんが一緒に住んでいる物件というのは、世話を焼かれたり付き合いが面倒くさいことも多いと聞いたことがあったけれど、歓迎会まで開いてくれるようなところもあるのだろうか。

「わざわざじゃないよ。石崎さんとことも一緒のやつだし」

大家さんも私のまねをするように、手のひらをぶんぶん横に振りながら言った。「みんなもやりたいと思ってるからやるんだから」

「…みんな?」

みんなってまさか大家夫妻が招いてくれるだけじゃなくて…

「確認済みだから」大家さんは人差し指で大きく、ぐるっと円を描くようにコーポ全体を差す。「みんな来れるって言ってたから」


 冗談じゃない。

 絶対断りたい。引っ越しの挨拶だって本当はしたくなかったけれど、面倒な事に巻き込まれないようにと思って頑張ってやることにしたのに。

 「いえ、本当に」落ち着いてはいないのに落ち着いているふりをして私は丁寧に言った。「まだご挨拶出来ていない方たちにもご挨拶はきちんとさせていただくので、歓迎会は出来たら私は遠慮させていただこうかと…」

言い終わらないうちに大家さんは被せて来た。「でもみんな集まるよね。春花ちゃんが来なくてもみんな集まるし、石崎さん親子は来るって言ってたよ」

心の中で、あ~~~…と唸る。

 LEDのちょっと青っぽい外灯の灯りで、押しの強い大家さんの顔が少し不気味に感じはじめた。

「それでどうだろうね、今日はもうご飯作った?」

「…」

「いやうちの奥さんが、引っ越し早々大変だろうからご飯に呼んであげたらって言うもんだから」

夫婦そろって世話好きなのか…。

 気持ちはありがたいが面倒くさいし、まだちゃんと知りもしない人の家でいきなり夕飯をいただくなんて有り得ない。大家さんの奥さんにはまだ会ったこともないのだ。大家さんと同じ歳と聞いていたから、にこにこして世話好きで優し気な、ちょっとふっくらとした年配の女性を勝手に思い浮かべるが、見知らぬ人がどうやって作ったかもわからない料理を乏しいコミュニケーション能力を駆使しながら食べるより、一人で動画を見ながらおにぎりとカップ天ぷらそばを食べた方が断然良いに決まっている。

 どうやって当たり障りなく断ろうかと考えを巡らしていると、「まあねえ」と大家さんは言った。

「今日はもうおにぎりとカップの天ぷらそばを買って来てるだろうからってうちの奥さんが言うんだけど、それならそれで、そのおにぎりは明日の朝ごはんにしたらいいしとも言うもんだからね」

「…」


 怖っ…。おにぎりとカップ天ぷらそば買ったの見られてた!…気持ち悪っ…。

 よし、はっきり断ろう。

「そうなんです。今日は買って来ちゃったんです。明日の分も買って来たんです。本当に引っ越し早々親切にありがとうございます。歓迎会も、皆さんと早く仲良くなりたいのはやまやまなんですけど、やっぱり私は辞退させていただこうかと思います。今後ともよろしくお願いします」

 高校の進路相談の時に、担任に言われたことがあったのだ。

 木本はいろいろ家のことで大変なこともあると思う。でもいろんなことをすぐにあきらめたり我慢したりして、目を反らしたり語尾をうやむやにしたりしていると、この先もずっと意志を無視されて、面倒くさい厄介ごとをいろいろ呼び込んでしまうぞと。その先生は今目の前にいる大家さんの風貌にどことなく似ているところがあった。

 そんなことを言われても私には、小さい頃からあきらめたり我慢したりするほか、どうすることも出来ない仕方ないことが他の子たちよりたくさんあった。それをはっきりと指摘してくるなんてひどい教師だと思ったが、今はありがたい言葉だったと思っている。

 大家さんは急に勢い込んですらすらと断りを入れた私にびっくりしたのか一瞬固まり、私は急に心配になってきた。

 飛び込みで恐る恐る入った不動産屋で紹介された何軒かの物件の中で、一番家賃が安かったこのやまぶき荘。きっとボロボロのとんでもない建物なのではと思って見に来たら、その外壁の黄色い色がとても明るくて、日当たりもよさそう。敷地も広くてゆったりした感じ。ここでなら前より少しは明るく生活できるのではないかと思った。身寄りのない自分の事情を話したら、大家さんはふんふんうなずきながら保証人も無しで良いと言ってくれたのだ。父と母が亡くなったことを話してもうなずくだけで深く質問してくることもなく、かと言って同情するわけでもなく、ただ私が話した大まかな身の上話をそのまま受け入れてくれた。そんな懐の広い大家さんのせっかくの親切を無下にしたら、気を悪くされて明日から暮らしにくくなるかもしれない…。それに、あんな身の上話をしたからこうやって誘ってくれて、歓迎会もそれで催してくれようとしているのかもしれないのに。

 だが大家さんはまた柔らかい表情になって優しく言ってくれた。

「そう?残念だねえ。ちゃんと戸締りして寝るんだよ。何かあったらすぐに言っておいで」


 大家さんが帰ると、またすぐにお湯を沸かしはじめたが、コンロの前で考える。

 失敗してしまった。

 はっきり断りたくて嫌なしゃべり方になっていたと思う。断ったときの大家さんの一瞬固まった顔を思い出しながら、自分のコミュニケーション能力の低さが嫌になる。はっきり断るにしても、もっと落ち着いた、出来るだけ相手が嫌な思いをしないような話し方をしなければいけない。せっかく引越しも出来て新しい人生を踏み出したいと思っていたのに、さっそく人見知りで頑なな人だと思われたに違いない。

 まあ実際そうだけれど。


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