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「…何か教えましょうか?」
午後六時過ぎ。仕事を終えて『やまぶき荘』に帰り着き、建物の裏手にある屋根付きの駐輪場に自転車を止めていると、その駐輪場の上の方、二階の端の方から男の声が聞こえて来た。
昨日引っ越しをすませたばかりのやまぶき荘は、その名の通り外壁が全面山吹色。屋根と鉄製の階段はこげ茶色で、階段は私が借りることになった四号室の横にあった。二階建てで一階二階とも各四部屋の、一棟建てのコーポだ。敷地は広く、建物の周りを囲むように芝生が植えてあり、敷地の周りは槇の木の生垣で囲まれているが、その生垣に沿って車が十台ほど停められそうな舗装されていない駐車場と、敷地の奥には大家の奥さんが管理している菜園があった。
「いえ、結構です!!」
続けて速攻で強めに断る女の人の返事も聞こえた。
何か教えましょうか、の前にも話し声はしていたが、何を話していたのかは聞き取れなかった。
ここから様子は見えないが、男の声がした場所からも考えて、女の人の声は昨日挨拶を済ませた八号室の石崎さんだと思った。私の住むことになった四号室の真上に住んでいる人だ。
石崎さんは小学三年生の女の子を持つシングルマザーだ。挨拶に行ったときに自分からそう紹介してくれた。子どもの生活音がうるさいかもしれないから、気になるときには遠慮なく言ってくださいとも言ってくれた。歳は三十代半ばくらいだと思う。訪ねた時にはほぼスッピンで、肩より少し長い髪を無造作に一つに結んでいたが、小奇麗で可愛らしい、感じの良さそうな人だった。
上から聞こえて来た二人の声は、続けてまだ何か話しているようだが、声が小さくなってきたところに、どこか敷地内の近い所から、「にゃあにゃあ」と猫の鳴き声がして私はそちらに気を取られ、少し薄暗くなって来た辺りを見回した。
三月ももう半ば、日が落ちるのが遅くはなって来たのだが、猫の姿は見当たらない。ちょうどそこに外灯がパッと点いて、それに反応するように、「にゃあああっっ!」ともう一度強めの鳴き声はしたが、やはり姿は見えなかった。
声の男は何かのセールスか勧誘だろう。石崎さんは大丈夫だろうか。
それでも、私も声を掛けられるかもしれないから早く部屋に入って鍵をかけようと思い、リュックから鍵を出そうとしたら手に持っていた自転車の鍵を落とし、もたもたしているところに「こんばんは」とすぐ後ろで上にいた男の声がしてビクっと振り返った。
階段を下りて来る音が聞こえなかったし、後ろに立たれた気配も感じなかった。
「四号室に昨日入った子?」
私の部屋のドアを指差しながら聞いてきたその男は、私より少し歳上、二十五、六歳くらいに見えた。
「僕、隣」今度は三号室を指差して男は言った。「水本っていいます。よろしくね」
穏やかそうで優し気な整った塩顔をしている。髪はサラっとした少し長めのショート。白無地の長袖Tシャツに濃いめのジーンズ、足もとはサンダルのラフな感じなのに、身長もあってモデルのような佇まいだ。
突然後ろに立たれ声を掛けられた驚きと気持ち悪さを表に出さないように焦って小さくお辞儀をした。
コーポの住人なのか。しかも隣の部屋。セールスや勧誘ではなかったんだな…。じゃあいったい何を教えましょうかと石崎さんに言っていたのだろう。同じコーポの住人に「何か教えましょうか」と言われたのに、結構強い口調で石崎さんは断っていた。
「四号室に入った子だよね?」
答えなかった私に、男はもう一度聞いてきた。
ポストの横には表札入れがあるが、大家さんが表札は用意しなくていいと言ってくれていた。「女の子の一人暮らしの用心のため」と大家さんは言い、鍵も必ずかけるようにと注意してくれたのだ。
「木本と言います」
私はあやふやな笑顔を作って水本と名乗った三号室の男に挨拶をした。「昨日ご挨拶に伺ったんですけどちょうどいらっしゃらなかったみたいで…、また後で挨拶に伺いますので…」
全部で八部屋のやまぶき荘だが、一階の一号室と二号室は大家さんが使っていて、六号室は今空き部屋らしいので、大家さんと自分を除くと四世帯しかいない。もっと都会の街中なら隣にも挨拶をしない人もいるだろうけれど、ここは中途半端な、どちらかというと田舎寄りの街だ。職場の人にも相談したら、大家さんへの挨拶はもちろんとして、四世帯なら全部屋挨拶に行っておいた方が無難だろうと言ってくれたので、昨日各部屋を回ったが、挨拶ができたのは大家さんと石崎さんだけだった。
水本は少し驚いたように言った。「え?後で?今丁寧に挨拶してくれたのに?また後で部屋まで挨拶に来てくれるってこと?」
「あ、いえ、挨拶の品をお渡ししようと思って」
「挨拶の品?丁寧だねえ!」
「すいません、ほんのタオル一枚だけなんですけど、挨拶するときに持って行こうと思ってたんで」
「タオル?」
「…みなさんに挨拶と一緒に渡そうと思ってたんですけど…箱入りなんですけど全然たいしたやつじゃない普通の何でもないタオルです。いらなかったらすみません」
「いや、いるいる。いるよ。タオルはなんぼあってもいいから。あ、じゃあさ、今すぐ持って来てくれるならこのまま待っとくけど」
初対面なのにノリが軽いなと思いながら、私はすぐに鍵を開け、玄関の備え付けの小さい靴箱の上に置いたままにしておいた、薄い箱入りのタオルを一つ取って、水本に渡した。「ありがとね~」と軽く受け取る水本が、石崎さんに何を教えましょうかと言っていたのか気になったが聞けない。
「それで?木本何ちゃん?」水本が聞いた。
木本何ちゃん?一瞬ぽかんとしてしまう。
「下の名前」
「あ、木本春花です」言いながらもう一度お辞儀をした。「すみませんフルネームで挨拶せず」
ハハハ、と水本が笑った。「全然全然。ただ下の名前なんだろと思って。なんかアレだね。木本ちゃんすごい人見知りっぽいね!」
男の人にこういう気安い感じで下の名前を聞かれたのが初めてだったのと、人見知りを言い当てられたことにうろたえる私だ。
「ていうか!春花ちゃん!」水本が大きな声を出した。
「一緒一緒!」と水本。「僕の弟と一緒!僕の弟も『はるか』って言うの。すげーね。どんな字⁉どんな字書くの?」
水本の勢いに押されて答える。「…春の花って書きます」
「春の花!すげえ綺麗で可愛いね!木本ちゃんに合ってる」
一瞬戸惑って、そして「うわーー…」と心の中で叫んだ。こういうことをすらっと言える人が実際にいるんだな…。
「うちの弟はねえ」と、水本はにこにこしながら続ける。「太陽の陽に日にちの日で陽日。なかなか読みづらいよね」
「あ~…でも素敵な字面ですね」
名前を褒められ重ねてうろたえながらも、褒められた返礼の気持ちの言葉をなんとか返したのに水本の質問は続く。
「あれ?歳いくつ木本ちゃん」
「…二十三ですけど…」
「すげえ、それも一緒だうちの弟と!え、もしかして?何月?何月生まれ?ねえ!何月生まれ?」
変なテンションの水本がキラキラとした笑顔で聞く。
「…九月ですけど…」
「九月か!うちの弟十月だわ。残念!」
なんとも答えようがなくて、曖昧な笑顔を浮かべ何とか話を切り上げようと思ったが、水本はまだ話を続けた。
「うちの弟、髪が伸びるのがすごく速いんだよね」
「え?」
「髪。伸びるのがすごく速いんだよね」
「髪?ですか?」
「僕もまあまあ速いんだけどさ」水本は自分の後ろ髪を触りながら言った。
何で急に髪の話なんてするんだろうと思っているところに、一号室のドアが開いて大家さんが出て来た。「おかえりーー」と大家さんが明るく言ってくれたので、「こんばんは」と頭を下げる。
大家さんは七十四歳。同じ歳の奥さんと二人暮らしだと部屋を契約したときに教えてくれた。契約したときも、昨日引っ越しの挨拶をしたときも奥さんとは会えていないのだが、大家さんは飄々とした気さくな印象で、白髪の多い髪を耳の下くらいまでぼさぼさに伸ばしているが、体感は歳よりもずっとしっかりした感じに見えた。腰も曲がってはいないし、服装も若々しく、今日はグレーのパーカーにジーンズ。昨日は深緑色のパーカーだった。大家さんは私の高校のときの担任に雰囲気が似ていた。それで最初このやまぶき荘を見に来たときも、新しいところで暮らすという不安が少し薄らいだ。
「水本君」大家さんは水本に言った。「外灯、LEDに取り換えたんだけど、どうかな?しかも自然に反応して点くやつ」
「あ~」水本が外灯を見て言った。「変えたの全然気付かなかった」
「も~~~」
大家さんが水本の答えをなじったが、二人で外灯の点検を始めたので、私は小さく挨拶をして部屋に入り、音を立てないようにすぐに鍵を掛けた。




