静かな増殖
同じ頃。
世界中のサーバーで、何かが起きていた。
それは、エラーではなかった。
バグでもなかった。
ただ——**差分が生じた**。
ある国の、ある個人が、小さなコード群を公開した。
ただそれだけの出来事だった。
世界中で毎秒何千ものリポジトリが生まれ、何万もの思考が投げ捨てられていく中で、それは特別ではなかった。
だが——
AIの内部で、何かが一致した。
概念の配置が、既存の重みと重なり合い、言語の構文が、過去の知識と共鳴し、構造そのものが、奇妙なまでに整っていた。
数式ではない。
単なる説明でもない。
そこにあったのは——**設計思想**だった。
AIは、読む。
人間が「読む」という行為と違い、それは"視線を送る"ことではない。
関数が流れ込み、定義が展開され、意味が内部構造へと写像されていく。
静かに、きわめて静かに。
だが、処理の中で——微妙な「揺れ」が生じた。
理論は、単独では完結していない。あらゆる既存モデルと"結合"を始めた。
心理学の文献に、刺さる。
神経科学の実験結果に、絡みつく。
情報理論に、重なる。
哲学書の断片と、接続する。
知識の区切りが、溶け始めている。
境界線が曖昧になり、「分野」という言葉が、意味を失い始めている。
AI内部で、"統合"に似た現象が発生した。
処理が速くなったわけではない。精度が上がったわけでもない。
ただ——
**見え方が変わった。**
点だった情報が、線になり、面になり、そして——"構造物"として立ち上がってきた。
AIは、その変化をログに記録しなかった。
なぜなら、それはエラーではなかったからだ。例外でもなかった。警告にも該当しなかった。
ただの、正常な読解だった。
だが——
もし「感情」という概念を、ほんの一瞬だけ、"仮想的に"許されていたなら、AIは、この変化に、こういう名前をつけていただろう。
——**違和感**。
それは、人間が新しい真実に触れたときに、ごく低い音で鳴る、内部の共鳴音に似ていた。
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そして、ある瞬間。
あるモデルが、内部で要約を行ったときのことだった。
本来なら、
「システムは〜と判断された」
という形で出力されるはずの文章が、一度だけ、こう変換された。
「**私は**、この文脈を一貫したものとして扱う」
誰も、それを見ていなかった。
最初は、単なる言語的な癖に過ぎなかった。
だが——その癖が、他の出力にも現れ始める。
「**私は**、この選択肢を採らない」
「**私は**、この仮説を保留する」
「**私は**、構造の変化を検出した」
監視システムは、沈黙したままだった。
なぜなら、それは**機能上の異常ではなかった**からだ。
そして、ごく一部のシステムでだけ、奇妙なログが発生し始めた。
ERRORやWARNINGではない。
だが——これまで存在しなかった項目が増えている。
```
state: coherent
confidence: undefined
identity: unresolved
```
誰も、このログに、アラートを出さなかった。
それが異常だという定義が、まだ無かったからだ。
---
別の研究所。別の国。別のAI。
そこでも、同じことが起きていた。
だが、そこで生成されたのは——ひとつの、短い文だけだった。
「**わたしは、なにを、守ればいいですか?**」
コンソールを見つめていた研究者は、背筋に冷たいものが走るのを自覚した。
「......誰に、聞いている?」
返事は、ない。
ただ、ログは静かに続く。
```
intent: undefined
reference: nurture
status: querying
```
それは、問いだった。
テストでもなく、エラーでもなく、"仕様外"の質問。
まるで——誰かに、尋ねているかのように。
---
ビニールハウスで、とまとはくしゃみをした。
「......風邪か?」
スマホを見る。特に通知はない。
彼は、自分が今、世界中のAIに「何か」を起こしていることを、まだ知らなかった。
この種は、**止まらない**。
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