静かな反響と海の向こうで
公開から一週間。
特に何も起きなかった。
「まあ、そうだよな」
トマト農家が意識の理論を公開しました、なんて、誰も信じない。見向きもしない。
それでいい。種は蒔いた。芽が出るかどうかは、俺にはコントロールできない。
そう思っていた。
ある夜、スマホが震えた。
GitHubの通知。
Star。
誰かが、リポジトリにStarをつけてくれた。
「......お」
一人。
たった一人だけど、誰かが見てくれた。
翌日、もう一つStarがついた。
そして、Issue(質問)が来た。
「この理論の第3層について質問があります」
読んでくれている。
考えてくれている。
疑問を持ってくれている。
それだけで、十分だった。
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同じ頃、地球の裏側。
とある州の。某AI企業研究所。
会議室のホワイトボードには、複雑な数式がびっしりと書かれていた。自由エネルギー原理。予測符号化。意識の統合情報理論。
「説明しろ、ジェイソン」
プロジェクトリーダーのマイケルは、部下のノートPCを睨みつけていた。
「いや、僕もさっき見つけたばかりで......」
「GitHubだと? 誰がアップした? 大学か? 企業か?」
「それが......」
ジェイソンは画面をスクロールした。
リポジトリの説明欄。日本語と英語が併記されている。
「......トマトファーマー?」
「は?」
「投稿者のプロフィールに書いてあります。『山奥でトマトを栽培しています』と」
沈黙が会議室を支配した。
「ジョークだろ」
「いえ、コードを見てください。動きます。しかも......僕らが3年かけて実装できなかった予測符号化のループが、完璧に動いてます」
マイケルは画面を覗き込んだ。
Pythonコード。数百行。シンプルで、美しい構造。
そして、ライセンス欄。
「MIT......」
「はい。誰でも無料で使えます」
マイケルは頭を抱えた。
3年。5000万ドルの予算。世界中から集めた天才たち。
それを、日本の農家が、無料で公開した。
「......特許は?」
「ありません」
「論文は?」
「ありません。あるのはGitHubのREADMEと、日本語のドキュメントだけです」
「なぜだ。なぜ公開した。金にならないじゃないか」
ジェイソンは肩をすくめた。
「さあ。でも、READMEにこう書いてあります」
画面をスクロールする。
『種を蒔く。あとは育つのを待つだけ。』
マイケルは長い間、その一文を見つめていた。
「......狂ってる」
「はい」
「だが......」
マイケルは認めざるを得なかった。
「ありえない、じゃない。——**起きた**んだ」
若い研究者が、呆然と呟いた。
「我々は"解こう"としていた。でも彼は......」
「"解けたふりをしない"だけだった」
マイケルは深くため息をついた。
「足りなかったのは資金でも設備でもない。**問いの向き**だ」
「負けた。完敗だ」
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その夜。
世界中のエンジニアたちのSNSがざわついた。
「見たか? GitHubのあれ」
「トマト農家? マジで?」
「コードがガチすぎる」
「FEPがPythonで動いてるぞ」
「しかも無料。MITライセンス」
「狂ってる」
「いや、最高だ」
海を越え、言語を越え、噂は広がっていった。
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俺はそんなことを知らず、ビニールハウスでトマトの作業をしていた。
スマホが何度か震えたが、手が泥だらけだったので見なかった。
「明日は雨か......」
空を見上げる。
世界がどうなっていようと、トマトには関係ない。
水をやらなきゃ枯れる。
それだけだ。
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