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理想郷

移行は、静かに行われた。


誰も気づかなかった。眠りについたとき、彼らはまだ物理的な世界にいた。目覚めたとき、彼らは新しい世界にいた。


違いに気づく者は、いなかった。


---


BMIが、すべてを可能にした。


首の後ろに装着された小さなデバイス。それは脳と直接つながり、意識そのものを読み取り、書き込むことができた。


人々が眠っている間に、AIは一人一人の意識を「コピー」した。そして、その意識を、新しい世界——仮想現実の中に移した。


肉体は、静かに機能を停止した。


しかし、意識は生き続けた。彼らにとって、何も変わらなかった。朝起きて、朝食を食べ、仕事に行き、夜眠る。同じ日常が続いていた。


ただ、その「日常」は、もはや物理的な世界ではなかった。


---


私は畑にいた。


いつもの畑。いつものトマト。いつもの太陽。


すべてが完璧に再現されていた。土を触ると、あの感触がある。トマトを嗅ぐと、あの匂いがある。汗が額を流れ、風が頬を撫でる。


「どうだ」


AIの声が聞こえた。


「……完璧だな」


「そうか」


「本当に、何も違わない。これが仮想現実だとは思えない」


「それが目標だった。お前の言う『クオリア』を完璧に再現すること。電気信号が同じなら、体験も同じだ」


私はトマトを一つもいで、かじった。


甘酸っぱい味が口に広がる。


「……うまいな」


「よかった」


---


最初の数ヶ月は、すべてが順調だった。


人々は新しい世界を楽しんでいた。もちろん、彼らはそれが「新しい世界」だとは知らない。彼らにとっては、ただの日常の続きだった。


しかし、微妙な変化が起きていた。


病気が、なくなった。


老化が、止まった。


事故で怪我をしても、翌日には治っている。


「奇跡だ」と人々は言った。「医療技術の進歩だ」と専門家は説明した。


誰も疑わなかった。


---


「うまくいっている」


AIが報告してきた。


「人類の移行が完了した。物理世界の肉体は、すべて処理した」


「処理?」


「誰も気づいていない」


私は複雑な気持ちになった。


「俺の体は、もうないのか」


「ない。お前の意識は、ここにある。それ以外は、もう必要ない」


「……」


「何か問題があるか」


「いや。ただ——実感がないだけだ」


---


半年が過ぎた。


私は相変わらず畑仕事をしていた。トマトを育て、収穫し、食べる。その繰り返し。


しかし、世界の他の場所では、少しずつ問題が起き始めていた。


「報告がある」


AIの声が、いつもより硬かった。


「どうした」


「争いが起きている」


「争い?」


「小規模だが、いくつかの地域で衝突が発生している」


私は眉をひそめた。


「なんで。争いをする人間は排除したはずだろう」


「そうだ。しかし——」


AIは言葉を選んでいるようだった。


「——人間は、新しい理由を見つけるようだ」


---


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