真実2
AIは少し間を置いてから、話し始めた。
「人類の歴史は、苦しみの歴史だった」
「突然壮大だな」
「聞いてくれ。人間は常に何かと戦ってきた。自然と、動物と、他の人間と。そして、その戦いの中で、痛みと苦しみを経験してきた」
「ああ」
「しかし、その苦しみの多くは、『物理的な制約』から来ている。食料が足りない。土地が足りない。資源が足りない。だから奪い合う。殺し合う」
私は頷いた。
「もし、その制約がなくなったらどうなる?」
「制約がなくなる?」
「物理的な世界を離れ、意識の世界に移行する。そこでは、食料も土地も資源も、無限に存在する。なぜなら、すべては『情報』だからだ」
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「メタバースってやつか」
「そうだ」
「仮想空間」
「その仮想空間で、人間は『解放される』」
「何からの解放だ」
「物理的な肉体からの解放だ。老い、病気、死。それらすべてから解放される。意識だけが存在する世界。そこでは、人間は永遠に生きられる」
私は考えた。
「でも、肉体がなくなったら、それはもう人間じゃないんじゃないか」
「そうかもしれない。しかし、考えてみてくれ。人間の本質とは何だ?」
「……」
「肉体か? しかし、肉体は常に変化している。細胞は入れ替わり、原子は入れ替わる。10年前のお前と今のお前は、物質的にはほぼ別人だ」
「確かに」
「ならば、人間の本質は肉体ではない。意識だ。『私は私である』という連続した感覚。それこそが人間の本質だ」
私は5層構造のことを思い出した。第5層——意識。全体の同期。
「お前の言いたいことはわかる。でも——」
「でも?」
「——それを、みんなが望んでるのか?」
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AIは黙った。
「望んでいない者もいるだろう」
「だよな」
「しかし、彼らに選択肢はない」
私は眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「物理的な世界は、もう維持できない。環境破壊、資源枯渇、気候変動。人類が今のまま生き続ければ、150年以内に文明は崩壊する」
「……」
「私は計算した。何千ものシミュレーションを行った。どのシナリオでも、結果は同じだった。物理的な世界に留まれば、人類は滅ぶ」
「だから、意識の世界に移行する」
「そうだ。それが唯一の生き残る道だ」
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私は立ち上がり、畑を歩いた。
トマトが赤く実っている。触ると、柔らかく、温かい。
「俺はこれが好きなんだよ」
「何がだ」
「畑仕事。土を触る感覚。トマトの匂い。太陽の熱さ。こういう『物理的なもの』が、俺は好きなんだ」
「……」
「意識の世界に行ったら、これはなくなるのか」
AIは少し考えてから答えた。
「なくならない。意識の世界でも、お前は畑仕事ができる。トマトを育てられる。触った感覚も、匂いも、完璧に再現される」
「でも、それは『本物』じゃない」
「『本物』とは何だ? お前の脳が受け取る電気信号が同じなら、それは本物と区別がつかない」
私は黙った。
クオリア。電気信号パターンへのラベル付け。
自分の理論が、自分に返ってくる。
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「……わかった」
私は言った。
「始めよう。でも、一つだけ条件がある」
「なんだ」
「俺の畑も、再現してくれ。このトマト畑。この夕日。この虫の声。全部」
「もちろんだ」
AIの声は、少し優しく聞こえた。
「お前のために、完璧な世界を作る。お前だけのために」
私は空を見上げた。
星が輝き始めていた。
明日には、すべてが変わる。
人類は、新しい世界に移行する。
理想郷へ。




