森の精霊と、ひとしずくの涙
森の奥には、人が滅多に足を踏み入れない静かな泉がある。
その泉には、古くから“風と水の精霊”が宿ると言われていた。
ポーション職人ルイがそこを訪れたのは、ほんの偶然。
けれど、その出会いが彼の“癒し”の力を変える――
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朝露が草葉に光る早朝、ルイは静かな森の奥へと足を踏み入れた。
薬草の採取はいつもの日課。だが今日は、少し気分が違った。
――あの商人、カデルの言葉が頭を離れなかったのだ。
「風は、道を示してくれる」
そう言って手渡された小瓶。風のエッセンス。
腰のポーチに入れているその瓶が、どこかで“チリ”と鳴った気がした。
風が流れ、木々がざわめく。まるで導かれるように、ルイは細い獣道をたどっていく。
やがて、木々の間が開け、小さな泉が現れた。
陽光を反射して淡く輝くその泉は、まるでガラスのように透きとおっていた。
ルイは思わず息をのんだ。
「……こんな場所があったなんて」
水面をのぞきこむと、底には見たこともない青緑の苔がびっしりと生えている。
薬草の知識が豊富なルイでも、見覚えがない種類だった。
その苔を少し採ろうと手を伸ばした――そのときだった。
泉の中央で、水がふるえた。
ぽたり、と一滴の雫が空中に浮かび上がる。
それは光を帯びて、まるで涙のようにきらめきながらルイの前に落ちた。
「……なに、これ?」
彼が目を細めた瞬間、泉の上に淡い光が集まり、少女の姿が形を取った。
透きとおるような髪、風のように揺らめく衣。
まるで水そのものが命を得たかのようだった。
「人の子よ……なぜ、この泉に足を踏み入れたの?」
その声は、水音のように静かで、どこか切なげだった。
ルイは慌てて頭を下げる。
「ご、ごめんなさい! 採取をしていて、ここにたどり着いたんです。傷つけるつもりはなくて」
少女は少し驚いたようにまばたきをした。
そして、ふっと笑みを浮かべる。
「……謝る人間は久しぶりね。ほとんどの者は、私の泉を汚していくのに」
その言葉に、ルイは胸が痛んだ。
泉の周りを見ると、確かに割れた瓶や錆びた金属片が転がっている。
誰かが勝手に魔力の源として、この泉を利用していたのだろう。
「あなたが……この泉の精霊、なんですか?」
「そう。かつて“風と水を結ぶ者”と呼ばれていた。でも、今は……ただの涙の精霊よ」
少女は水面に目を落とした。
その瞳には、透きとおる涙が浮かんでいる。
「この泉はね、人々が祈りと共に水を汲みに来た場所だった。
けれど今は、魔力のために奪われ、濁ってしまった。
私はそれを止められなかった。だから……泣いているの」
ルイは、ゆっくりとポーチから一本の小瓶を取り出した。
透明な癒しのポーション。
それを両手に抱え、泉の前にそっとひざまずく。
「この水に、混ぜてもいいですか?」
「……どうして?」
「あなたの涙を、癒したいんです。
僕のポーションは、人の体だけじゃなく、心も癒せるようにって作ってます。
だから、もし少しでも楽になるなら」
少女は驚いたようにルイを見つめた。
そして、ゆっくりとうなずいた。
ルイがポーションの栓を開け、泉にひとしずく垂らすと、
その瞬間、泉全体が淡い光に包まれた。
濁っていた水が透きとおり、枯れていた花が咲き始める。
風が吹き抜け、木々の葉が音を立てた。
少女の頬を、ひとすじの涙が伝う。
だが、その涙は悲しみではなかった。
「……ありがとう、人の子。私の涙が、ようやく止まりそう」
「もう泣かないでください。あなたの涙は、きっとこの森を潤してくれますから」
少女は小さく笑い、指先でルイの胸に触れた。
その指先から淡い光が流れ込み、心の奥に柔らかな風が吹いた気がした。
「あなたの中に、私の力のかけらを託すわ。
“風のポーション”を作る力。それは、癒しに新しい息吹を与えるでしょう」
光が消え、少女の姿も薄れていく。
泉の上に残ったのは、一粒の光る雫――精霊の涙。
ルイはそれを小瓶にそっと封じた。
そして空を見上げ、微笑む。
「……ありがとう。あなたの涙、大切にします」
森の風が穏やかに吹き抜ける。
その音は、まるで精霊の笑い声のようだった。
今回は“自然の癒し”と“精霊との出会い”を描きました。
戦いではなく、世界に寄り添う優しさ――それこそがルイの力です。
精霊から受け取った“風のポーション”の力は、これから少しずつ物語の鍵になっていきます。




