旅の商人と、風のポーション
春の風が丘を渡るころ、ルイのもとへ一人の旅商人がやってくる。
彼の名はカデル――風を閉じ込めた瓶を売り歩く、不思議な男。
戦いではなく、癒しで生きるルイにとって、その出会いはほんの小さな出来事だった。
けれど、その“風”が後に世界を動かすきっかけになることを、彼はまだ知らない。
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春の終わりを告げる風が、丘の上を優しく吹き抜けていく。
今日もルイは、森の薬草畑で作業をしていた。摘みたてのリーファ草を束ね、乾燥棚に並べていく。青い空の下で、草の香りが空気いっぱいに広がっていった。
「……ん? なんだろう、今日はにぎやかだな」
村の方角から、荷馬車の車輪の音と、人々の笑い声が聞こえてくる。どうやら、久しぶりに旅の商人がやってきたらしい。
この辺りは山を越えた辺境の地。物資を運ぶ商人が来るのは、月に一度あるかないかだ。
「ちょうど薬瓶の栓も少なくなってきたし、見に行ってみるか」
ルイは腰のポーチを下げて、ゆっくりと坂を下った。
村の広場には、荷馬車が一台止まり、布張りの屋台が開かれていた。
香辛料、布、珍しいお菓子、そして魔導具まで、所狭しと並んでいる。
人々は笑いながら集まり、久々の賑わいに喜んでいた。
「おやおや、あなたがこの村の“ポーション屋さん”ですか?」
声をかけてきたのは、旅装束の男だった。
金の髪に少し無精ひげをたくわえ、目元には商人らしい柔らかい笑みを浮かべている。
「ええ、そんな大したものじゃないですけどね。ルイです」
「私はカデル。東の交易都市から来た行商人です。あなたの噂は途中の村でも聞きましたよ。『どんな傷でも癒す優しいポーションを作る男がいる』ってね」
「噂、ですか……そんなに大げさなものじゃないですよ。僕のはあくまで、生活薬みたいなものです」
ルイは少し照れくさそうに笑った。だがカデルは興味深そうに木箱を覗き込み、棚に並ぶ瓶を手に取った。
「ほう……澄んだ液体ですね。これは?」
「“癒しのポーション”です。傷を治したり、軽い疲労を取ったり。けど、それだけです」
「“それだけ”とは言うけれど、これほどの透明度と香り……いい仕事をされています」
カデルは感心したようにうなずいた。
そして、ふと思い出したように鞄をごそごそと探り、小さな金属製の瓶を取り出した。
「実は、私も少し珍しい品を扱っているんです。“風のエッセンス”というものでしてね」
「風の……?」
「はい。砂漠の上を通る旅の風を、魔導士が封じ込めたものです。開けると、一瞬だけそよ風が吹く」
カデルは笑って栓を抜いた。
すると、小さな瓶から本当に風がふわりと漏れ出し、ルイの髪を軽く揺らした。
まるで、遠い空の記憶が触れたような感覚だった。
「……すごい。風を閉じ込めるなんて」
「高価ですが、旅人にとっては命綱にもなるんですよ。砂嵐の中で息ができるほどの風ですから」
カデルは瓶を戻しながら、にやりと笑った。
「ところで、ルイさん。あなたのポーション、少し取引させてもらえませんか? 次の街に持っていきたい」
「えっ、僕のを……? でも、僕のは大したものじゃ――」
「大したものですよ。私の旅先では、薬一つで命が救われることもある。
商人の目で見て、これは“本物”だ。ぜひ、扱わせてください」
ルイはしばらく迷った。
村の人のために作っていたものを、外の世界に出すなんて考えたこともなかった。
だが、商人の目は誠実で、何より温かかった。
「……わかりました。数は少ないですが、お願いします」
「ありがとうございます!」
カデルは嬉しそうに握手を交わした。
その瞬間、ふと風が吹き抜けて、ルイの作業着の裾がはためいた。
まるで、遠い旅路へ誘うような風だった。
取引が終わると、カデルは小屋の前でひと息ついた。
「この香り……落ち着きますね。あなたのポーションも、この空気から生まれているんでしょう」
「ええ。風と草と水、全部この丘のものです」
「なら、これを贈りますよ」
カデルは懐から、小さな風の瓶を差し出した。
「“風のエッセンス”。お礼です。もし旅に出る日が来たら、これを開けてください。
そのとき、あなたの進む道を、この風が示してくれるでしょう」
ルイは驚き、そして静かに受け取った。
「ありがとうございます……いつか、本当に旅に出ることがあったら、使わせてもらいます」
カデルは笑顔を残して、荷馬車に乗りこんだ。
去っていく馬車のあとを、丘の風が追いかける。
ルイはその背中を見送りながら、小さく呟いた。
「風のポーション、か……。もしかしたら、僕にも作れるかもしれないな」
彼の胸の奥で、何かが静かに芽吹いた気がした。
――この優しい世界の風とともに。
今回は「外の世界」との最初のつながりを描きました。
村という穏やかな場所の中に、“旅”という新しい風が吹き込む回です。
カデルという商人は、ただの通りすがりではなく、ルイの運命に深く関わっていく存在になる予定。
そして、風のエッセンスが今後どんな形で登場するのか――?
静かな物語の中に、少しずつ未来への種をまいていきます




