第2話 魔獣と奇跡
酒場を飛び出したアレンたちは、轟音の響いた方角へ駆けた。
街路は騒然としている。
人々が荷を放り出し、泣き叫びながら逃げ惑う。
母親は子を抱えて必死に走り、衛兵が倒れた老人を背負って後退する。
その頭上を、濃い黒のもやが渦を巻きながら覆っていた。
「……来やがったな」
ジークが低く唸る。
瓦礫を蹴散らして姿を現したのは、瘴気に侵された巨大な猪型の魔獣だった。
本来の獣の皮膚は爛れ、黒い筋が血管のように全身を走る。
牙は黒くひび割れ、地を踏みしめるたびに石畳が染みるように黒ずんでいく。
咆哮に合わせ、濃い瘴気が波のように広がり、周囲の人々が一斉に咳き込み膝をついた。
「衛兵だけじゃ止められん……!」
「こいつが最近の瘴気の源か……?」
叫び交わす声が混乱にかき消される。
アレンはゆっくりと片腕を掲げた。
掌の上に、最初は頼りない火種がぽつりと灯る。
火はじわじわと膨らみ、人の体を覆う程の火球となった。
「……行け!」
鋭い声とともに腕を振りぬき、掌の火球が唸りを上げて飛び出した。
魔獣の肩口にぶつかり、爆ぜる。
一瞬だけ黒煙が吹き上がったが、魔獣は爛れた毛皮を焦がすだけで怯む気配もない。
それどころかさらに怒り狂い、瘴気を撒き散らして突進してきた。
「っ──!」
アレンは咄嗟に風を混ぜ、炎を押し出すようにして剣の威力を増そうとした。
魔獣の突進を受け流しながら、続いていつものように剣に炎を纏わせようとする。
だが力加減を誤り、炎が暴発する。
魔獣には浅くしか届かず、横の家屋の壁を大きく焦がしてしまった。
広がる悲鳴。
胸が締めつけられる。
手が震え、次の魔法が出ない。
「おいおい、ビビってんのか?俺の体はお前の炎なんかで焼けやしねぇ!」
ジークは皮肉を飛ばしながら、怯える人たちの前に立つ。
剣を振るい、牙を受け止める衝撃で石畳が砕ける。
それでも彼は笑みを崩さず、振り返らずに叫んだ。
「思い切って撃ちやがれ!」
背中に託された信頼が、アレンの胸を熱くする。
ジークが止めてくれている間にアレンも切りかかるが、毛皮が分厚く剣が通らない。
一方ダリオスは大剣を盾のように構え、的確に周囲の人々を退かせていた。
「皆、広場の外へ!衛兵は負傷者を担ぎ出せ!」
冷静な声に従い、混乱していた住民が次々と逃げ出す。
ダリオスの守りがなければ、すでに犠牲者が出ていただろう。
魔獣はなお暴れ、黒いもやを吐き散らす。
アレンの炎だけでは押し切れず、ジークの動きも瘴気で鈍り始めていた。
その時だった。
広場の向こうから、一人の少女が駆け込んできた。
銀色の髪が光を反射し、灰色の霧の中でひときわ鮮やかに揺れる。
広場に光が差し込んだ。
時間が一瞬だけ止まった気がした。
「なっ…、危ない!」
思わず叫んだ。だが、少女は止まらない。
むしろ恐怖に足をすくませながらも、一歩を踏み出していた。
彼女は両手を胸の前に掲げ、ぎゅっと目を閉じる。
次の瞬間──
白銀の光が、爆ぜるように広がった。
淡く優しい波紋が瘴気を洗い流し、澄んだ空気が街に戻ってくる。
人々が一斉に息を吸い込み、「……楽に、息ができる……!」と声をあげた。
倒れていた子供が咳をやめ、「きれい……!」と呟く。
猪の魔獣も光に包まれ、動きが鈍る。
爛れた毛皮が焼けるように煙をあげ、咆哮が苦悶の声に変わった。
「今だ、アレン!」
ジークの声に背を押され、アレンは炎を再び呼び出す。
炎だけでは表面にしか届かない。やはり斬撃に乗せる必要がある。
今度は風を恐れず混ぜ込んだ。
剣が炎を纏い、刀身が膨れ上がって伸びる。
魔獣の側面に回り込み、アレンは飛び上がった。
巨大な獣の体が視界いっぱいに迫る。
「ここで折れたら、誰も守れない!」
その首に剣を振り下ろす。
初めて魔獣に、刀身がめり込んだ。
そのまま深く喰い込む。
魔獣が断末魔を上げる。
更に力を込める。
炎を噛んだ刀身が首を裂き、熱が奔った。
アレンは振り抜きざまに石畳へ着地した。
着地の瞬間、足元を中心に石畳に放射状のひびが広がる。
広場全体に衝撃が響いた。
半拍遅れて──轟音。
巨体がアレンの背後で、横にのしかかるように崩れ落ちる。
土埃が風に巻き上がる。
舞い散る瘴気のもやは、光に溶けるように消えていった。
戦いの余韻の中、広場に静けさが戻る。
人々が少女に向けて祈るように手を合わせ、誰かが震える声で呟いた。
「……奇跡だ」
アレンは息を整えながら、銀髪の少女に歩み寄る。
近くで見ると年は自分とそう変わらない。だが彼女の顔は蒼白で、疲労が滲んでいた。
「君は、セレナ村の……」
声をかけると、少女は小さく頷く。
「……フィオナです。両親が食堂を営んでいて、私もそこで働いてます」
かすかな声でそう名乗ると、膝が震えたのか小さくよろめいた。
アレンは思わず手を伸ばし、その体を支えた。
あの奇跡を起こしたとは思えないほど華奢だった。
まるで風に吹かれれば倒れてしまいそうな少女が、この街を救ったのだ。




