第1話 瘴気の街
アルデンの街並みが見えてきたとき、アレンの胸には久々の安堵があった。
村の粗末な宿屋では、三人で詰め込まれるのが常。
そのため、野営で済ませることがほとんどだった。
今度こそ、清潔なベッドに横になれる――そんなささやかな期待が、自然と足を軽くさせていた。
だが、門の前に立つ衛兵の顔を見た瞬間、その期待は打ち砕かれる。
鎧の下から覗く肌は青白く、額には汗。声も掠れている。
「今アルデンに入るのは、おすすめしねえよ」
彼は咳き込みながら言った。
アレンが思わず眉をひそめると、ダリオスが一歩前に出る。
「用がある。通してくれ」
門番は止めようとしたが、結局は弱々しく手を振るだけだった。
*
街に入ると、すぐに異様さが目に飛び込んでくる。
灰色のもやが路地に漂い、石畳の隙間には黒い水が滲む。
井戸の水は濁り、通りの店は活気を失っていた。
市場の果物はしなびて皺だらけ、並んだパンも数が少ない。
遊んでいた子供たちは咳き込み、母親に抱きかかえられて家に引き戻されていく。
本来なら賑やかな街角のはずが、呻き声と咳だけが重く響いていた。
「……ここも、長くはもたねぇな」
ジークが唇を噛んで呟く。
その視線の先では、軒先に吊るされた護符が瘴気に触れて黒く変色し、紙片がぼろぼろと崩れていた。
人々の顔に宿るのは諦めと恐怖。
セレナ村で見たものより、ずっと深い絶望だった。
そのとき、路地裏から小さな影が飛び出した。
鼠のような姿の魔獣だが、全身を黒いもやが包んでいる。瘴気魔獣だ。
アレンは即座に剣を構え、炎をまとわせる。
距離があるため風を加えて斬撃に乗せて飛ばそうとしたが、力の配分を誤った。
炎は制御を外れて広がり、鼠の魔獣を焼いたものの、その背後の壁まで黒く焦がしてしまう。
「危ないじゃないか!」
「よそ者が街を壊す気か!」
近くの人たちから一斉に怒声を浴びせられた。
アレンの体が強張る。
喉が乾いて、言葉が出なかった。
役に立つどころか、恐怖を与えてしまった――。
しかも仕留め損ねた。
すぐにダリオスが前へ出て剣を振るい、残ったもやを正確に断ち切った。
「判断は悪くない。次は落ち着いてやれ」
落ち着いた声で言いながら、ダリオスがアレンの肩に手を置く。
横ではジークがにやにや笑いながら、わざと大声を出した。
「まぁまぁ!若ぇのは伸びしろだらけでな!」
周囲の視線はなお冷たかったが、その場は何とか収まった。
アレンは唇を噛みしめたまま拳を握る。
力になりたいのに、足を引っ張ってしまう自分が悔しかった。
*
気まずい空気を切るように、三人は街の中心にある酒場へと向かう。
扉を開けば、すぐにむっとした空気が鼻を突いた。
安酒と腐臭の混ざった土のような香り。昼間だというのに、店の中は妙に暗い。
窓を覆う布のせいか、炎の灯りに頼るほかなく、影ばかりが揺れている。
木製のテーブルを囲んで男たちはうつむき、杯を片手に愚痴をこぼしていた。
「……聖導教会の儀式があれば、少しは楽になるんだろうがな」
「バカ言え。焼け石に水さ」
別の席では、肩を落とした農夫らしき男が呻くように吐き出す。
「護符を買ったところで、黒く変色して終わりだ。あんな紙切れにいくら払わせる気だ……」
「光の押し売りめ……」
苛立ち混じりの声に、場の空気はますます重く沈む。
ダリオスは酒場の隅で耳を傾け、言葉を選ぶように口を開いた。
「最近、この街を出た行商人を見なかったか」
年配の男が顔を上げる。
「もう三人も帰ってきちゃいねえ。瘴気に呑まれたか、魔獣にやられたか……」
「……そうか」
短く答えるダリオス。その横でジークがぼやく。
「どこもかしこも地獄みてぇだな」
ジークの軽口に、すぐ近くの酔客が声を荒らげる。
「外から来た奴に何がわかる!お前らは、好きに旅してりゃいいんだ!」
「お、おい、そんな怒るなよ」
苦笑いで手を挙げるジーク。
だが、酒場の客たちの視線は冷たく、刺すようだった。
アレンは言葉を飲み込み、拳を握りしめた。
この街の人々は、ただ生き延びることに必死だ。
自分の未熟さで余計に場を悪くしたのが、今さらのように胸に重くのしかかる。
「……聖導教会の聖女さまが来れば」
ぽつりと、若い女の声がした。
だがすぐに、隣の男が吐き捨てるように言い返す。
「来るわけねえだろ!俺たちは見捨てられたんだ!」
かすかな希望すら打ち消すような声に、沈黙が落ちた。
酒場の灯火が小さく揺れ、客たちの影が歪んで伸びる。
その時――床が、かすかに震えた。
酒瓶がかたん、と揺れる。
客たちは一瞬息を呑み、互いに顔を見合わせる。
「……なんだ?」
低くつぶやく声が、店内に広がった。
やがて揺れは収まった。だが、不安は確かにそこに残った。
アレンたちは無言で視線を交わす。




