第7話 撤退の影
腕や脚の筋肉が重く、動作は鈍くなっている。
体中に小さな痛みが走り、剣を握る手も時折微かに震える。
「……ふむ、これ以上ここにいても得るものはありませんね」
ヴァルセリオの声は、戦場の混乱の中でも穏やかで、どこか遠くを見つめるようだった。
「――まだ、だ……!」
アレンは胸の奥で冷たい焦りを覚えた。
全力で攻めても、相手には届かない。
体は限界に近く、呼吸を整えても腕や脚が痛い。
ヴァルセリオは黒いローブをひらりと翻すと、一歩後退した。
「お前ごときでは、私には届きませんよ」
まるで炉端の石でも見下ろすような冷たい目に、僅かに挑発めいた微笑が混ざる。
風にはためくローブの音、残響する黒炎の痕跡。
それは、戦いの終止符ではなく、次なる局面への序章のようだった。
ヴァルセリオは微かに肩をすくめる。
「私は大切な用事がありますので、これにて失礼します」
言葉とともにわずかに首を傾げるように礼をする。
そして身を翻すと、戦場から一歩ずつ離れていく。
「待て!」
アレンが叫ぶが、ヴァルセリオは振り返りもしない。
黒い環を従えたヴァルセリオの背中が、戦場の黒煙と瘴気の向こうに小さくなっていく。
その余裕すら計算されたものに見える。
「あの禍々しい環……あれこそ竜に通じるものではないのか?」
アレンは仲間たちに視線を移す。
イゼリアが疲労の色を隠せず、槍で体を支えながら言う。
槍の握りは緩み、肩が小刻みに震えている。
「だったら、逃すってのはねえな」
ジークは膝をつき、肩で荒く呼吸をする。
汗と血で汚れた顔が歪み、膝の擦り傷から血が滲み出している。
ナッシュもしゃがみ込み、息を整えている。
汗がその額を伝う。
フィオナは浄化魔法を振るい続け、手がわずかに震えている。
よく見ると、皆傷だらけだった。
アレンは奥歯を噛み、体の痛みを振り払うように息を吸った。
胸の奥で冷たい怒りと焦燥が渦巻く。
どれだけ不利でも、それでも撤退は許されない。
「追うぞ」
その声に仲間たちは疲労を押してうなずく。
ダリオスも、汗を滲ませつつ、戦意を示した。
体は限界に近い。だが、決して止まるわけにはいかない。
ここで止まれば、竜に、瘴気の本体に届かない――。
アレンは決意を胸に、一歩を踏み出した。
*
アレンたちはヴァルセリオの背を追い、標高が上がる山道を進む。
眼下にはカルドニア草原の戦場が広がっていた。
光盟の戦士たちと、救済の環が膠着状態で戦っているのが小さく見える。
黒煙と瘴気が渦巻き、光と闇の奔流が交錯する様は、まるで荒ぶる海を俯瞰しているかのようだった。
「ヴァルセリオは、あの山に向かったのか……あの余裕は、まるで…、っ」
アレンは息を荒くし、拳を握りしめた。
体は痛むが、視線は決して逸らさない。
「エルヴァント峰。かつては霊峰として名高かったと伝えられる、が……」
「見る影もねえな」
ダリオスが呟き、ジークが疲れたように零す。
眼前にそびえる山は、瘴気に覆われ、古の呪いを秘めたような空気を漂わせていた。
「…行こう」
「ああ。立ち止まっている時間はない」
フィオナの声に、イゼリアが頷く。
仲間たちは再び重い足を踏み出す。
膝の痛み、肩の疲労、手に残る微かな震え……それでも決意は揺るがない。
戦場を後ろに、目指すはエルヴァント峰――。
風が冷たく、薄暗い霧が山麓を包む。
道中、岩肌に手をつき、息を整えながら前に進むアレンたちの姿は疲弊していたが、その目は決して諦めを示していなかった。




