第3話 黒き環の覚醒
それから二週間。
ノエルの演説は大陸中に響き渡り――カルドニア草原。
果てしなく広がる大地が、今や人類の存亡を懸けた戦場となろうとしていた。
大陸の北寄りに位置するこの草原には、まるで避けられぬ宿命に導かれるように、両勢力が対峙していた。
空気はすでに張り詰めていた。
地面を震わせるような低い共鳴音とともに、ひときわ異様な存在感を放つものが救済の環の背後に浮かぶ。
――黒き環。
両手で抱えられるほどの大きさの環が、空中で静かに回転を続けている。
外環と内環が別々の速度で逆回転し、その表面は石でも金属でもない、言葉にできぬ材質でできていた。
ひび割れから漆黒の瘴気がにじみ、時折、稲妻のような閃光が走る。
環が回転するたび、大地が低く唸りを上げ、草原の草が風に逆らうように渦を巻いた。
遠目にその環を見上げ、光盟の戦士たちは背筋を凍らせた。
決して近くにはないはずなのに、圧迫感だけが目の前に迫り出してくる。
あれを守るためなら、敵は命さえ惜しまぬだろう――誰もがそう直感していた。
アレンはその環を見て、フィオナが浄化し、ナッシュが破壊した禍々しい欠片を思い出す。
胸の奥がざわめき、かすかな寒気が背筋を走った。
救済の環の者たちが、その禍々しく忌まわしき環を守るように陣を敷く。
中央に立つ1人が両手を掲げ、叫んだ。
「竜の御名に――栄光あれ!」
その声に合わせて、無数の信徒たちが声を重ねる。
「栄光あれ!栄光あれ!」
地鳴りのような合唱が草原を覆い尽くし、まるで神を迎える儀式のように戦場を震わせた。
対峙する光盟の戦士たちもまた、己の決意を示す。
ノエルが杖を高く掲げ、澄んだ声で叫んだ。
「光の導きよ――未来を切り拓け!」
それは祈りであり、誓いであり、宣戦布告だった。
次の瞬間、両軍が同時に雄叫びを上げ、大地を踏みしめた。
のちにカルドニアの戦いと呼ばれる、人類の命運を懸けた戦いが、今、幕を開けた。
*
最初に戦場を制したのは救済の環だった。
黒き環が唸りを上げ、瘴気を吸い上げては空へと吐き出す。
濃い霧が瞬く間に広がり、黒雨となって光盟の戦士たちに降り注いだ。
そして霧の中から現れたのは、瘴気を纏う瘴気魔獣たち。
血走った眼に人の影を映し、まるで鞭で操られる獣のように信徒と歩調を合わせ突撃してくる。
「瘴気を操るなんて……聞いたことがない……」
「ひ、ひぃ……瘴気魔獣まで……!」
黒雨に打たれた信徒たちは、恍惚の表情で武器を掲げた。
その目に狂気はない。むしろ澄み切った確信の光が宿っている。
「竜の御名に栄光あれ!」
「栄光あれ!」
声は揃い、足並みも揃う。
だがそこに人間らしいためらいは一片もなかった。
彼らは命を散らすことを恐れず、むしろ誇りとさえ思っている。
本来ならば隣人を守るために武器を取ったはずの者たちが――今は己の死を、竜への捧げものと信じている。
光盟の戦士たちが怯える間にも、信徒たちは迷いなく駆けた。
誰一人として足を止めず、誰一人として恐怖の叫びを上げない。
剣戟に火花を散らし、血飛沫を浴びても、その顔には微笑みすら浮かんでいた。
「な、なんだあいつら……!」
「死ぬのを……怖がってないのか!?」
光盟の戦士たちの声が震えた。
それは狂乱の笑みではない。絶望に抗う苦痛の呻きでもない。
ただひたすら、竜への賛歌を口にしながら、命を投げ出しているのだ。
「……こ、これが……人間なのか?」
若い竜騎士が膝を折りそうになり、仲間に肩を掴まれた。
理解を超えた光景が心を圧した。
押される。
光盟の戦列はじわじわと後退し、黒雨に濡れた大地に血が混じっていく。
そのとき、重い声が響いた。
「躊躇うな!」
ダリオスが大剣を振り抜き、瘴気に染まった信徒と魔獣をまとめて斬り払った。
「人も魔獣も同じだ!今この場で立ち塞がる者は、すべて敵と心得よ!」
力強い声が戦士たちを貫く。
続いてノエルが杖を地に突き立て、まばゆい光を放った。
「浄化は私たちに任せてください!皆さんはただ、刃を振るうのです!」
聖導士が一丸となり、魔法を発動する。
白光が霧を払い、一瞬だけ視界が開ける。
仲間の背中が光に浮かび上がり、互いに顔を見合わせるだけで心が繋がるのを感じた。
恐怖は消えない。
だが、共に戦う者がいる――それが何よりの盾だった。
戦士たちは互いに顔を見合わせ、再び剣を構えた。
「やるしかない!」
「俺たちは、未来を託されたんだ!」
鼓舞の声が広がり、後退しかけていた戦列が踏みとどまる。
再び剣が交わされ、血が飛び散る。
光と闇がせめぎ合う戦場で、誰もが全身全霊を賭けて立っていた。
――だがそのとき、まだ誰も知らなかった。
戦場の彼方から、さらなる脅威が近づいていることを。




