第4話 決別
――人を助けたい。
その思いだけが彼を動かしている。
ナッシュが救おうとした気持ちだけは、痛いほど伝わってくるのに――現実は、あまりに無惨だった。
だが後悔の間もなく、危機はすぐそこまで迫っている。
崩壊は止まり始めている。
仲間のお陰で避難も進んでいる。
しかし瘴気魔獣は逃がしてくれないだろう。
「ナッシュ!辛くても立ち上がるしかないんだ!嘆いていたら、本当に誰も救えないぞ!」
アレンはナッシュの肩を掴み、怒鳴った。
声が、掠れそうだった。
ナッシュを叱咤するためだけではない。
この場で立ち尽くせば、自分たちだけでは済まない。
守りたい人たちまで呑み込まれる。
だからこそ、自分にも言い聞かせるように、喉を枯らすほど、叫ぶしかなかった。
ナッシュは震える肩を揺らし、かすかにアレンを振り返る。
その瞳の奥に、わずかに迷いの光が戻った。
だが――空を裂く瘴気の風が全てをかき消す。
突如として影が落ちた。
振り仰げば、黒い外套をはためかせた男がゆっくりと降り立つ。
その髪は漆黒に近い銀で、後ろへ流れるように整えられている。
深紅の瞳は静かに光り、しかしその奥底には狂気の火種がちらついた。
細身でありながらも高身長の体つきに、祭司服を思わせる黒衣が纏わりつく。
衣には古代文字の刺繍が施され、装身具が知性と威厳を誇示していた。
ただ立っているだけで場を支配する――そんな威圧感が全身から放たれていた。
「――ヴァルセリオ……!」
ナッシュが憎悪を滲ませて名を吐き捨てる。
アレンも男を凝視する。
視線がかち合った瞬間、背筋を針でなぞられたような悪寒が走った。
――間違いない、あの男だ。
ナッシュに名を呼ばれた男は微笑を浮かべたまま、血に濡れた石畳へと視線を落とす。
そこにはまだ、子供の小さな靴と、赤黒い痕跡が残っている。
「……ああ。哀れなものです」
深紅の瞳を細め、まるで弔うかのように声を落とした。
だがその口調には、一片の痛みもない。
「ですが、これは些末な犠牲にすぎません。幾億の命を救うためには、必要な代償なのです」
「些末……?」
ナッシュの顔が引き攣り、肩が震えた。
「仕方のないこと、だと……?」
低く、ナッシュの声が震える。
アレンが横目で見た時、ナッシュの握る短剣はまだかすかに震えていた。
――だが、それも長くは続かなかった。
男はあくまで冷静に言葉を重ねる。
「現実を直視しなさい、ナッシュ。ひとりを救うために万人を危険に晒すのは愚行です。環は、世界を救うためにある」
「ふざけるなああああああ!!!」
ナッシュが絶叫した。
その瞬間、彼の手にあった短剣の震えが止まる。
初めて――まっすぐに、赤い瞳の男へと構えられていた。
「俺は……人を救いたいんだ!それがたとえ一人でも!俺の目の前にいる命を見捨てる理由なんて……あるかよ!!」
その剣幕に、周囲の教団員がざわめき立つ。
「ナッシュ……?」
「ヴァルセリオ様に逆らうつもりか……?」
男は片眉をわずかに上げると、しかし揺らがぬ態度で言い放った。
「感情に流される愚か者め。そんな小さな執着に囚われている限り、救済は訪れないというのに」
「黙れ!!」
ナッシュが怒鳴り返す。
その声に、教団員たちは驚愕し、思わず一歩退いた。
背後で、まだ瘴気魔獣がうねりを上げる。
だがそれ以上に、場を支配していたのはナッシュの怒声だった。




