第1話 瘴気の雨
グランゼリアを出たアレンたちは、突然の雨を受け、とある村に立ち寄っていた。
子供の泣き声が、街路に広がっている。
「……お母さん、空が黒いよ」
朝なのか昼なのか、もはや分からなかった。
つい先日までは霞んだ太陽の輪郭が雲越しに見えていたのに、今はただ、墨を流したような厚い雲が空一面を覆い隠している。
陽光は一筋も差さず、世界は濁った暗灰色の膜に閉じ込められたようだった。
アレンは足を止め、剣の柄に手を添えたまま、空を睨み上げた。
胸の奥に、冷たいものがじわりと落ちてくる。
剣で斬れる敵なら、まだよかった。
だが、実体のない瘴気にどう立ち向かえばいいというのか。
拳を握りしめる手に力が入り、胸の奥に無力感と苛立ちが重くのしかかる。
子供の肩を抱き寄せる母親の「大丈夫よ」という声は裏返っており、その腕は小刻みに震えていた。
屋根や石畳にぱらぱらと落ちていた雨粒は、次第にじゅっと焦げるような音を混ぜるようになった。
透明だったはずの滴が、触れた途端じわりと灰色に染み、じわじわと広がっていく。
石畳は灰に汚されるように濁り、雨粒が人の肌に触れればぴりりと痛みが走る。
「……もう、祈りが効かぬのです」
その声に反応して、人々のざわめきが一瞬止まった。
次の瞬間、誰もがその異様な気配に吸い寄せられるように振り向いた。
視線の先に立っていたのは、白い法衣を着た男だった。
見覚えのある紋章、聖導教会の使者だ。
だがその衣はすでに雨に濡れ、灰色にくすんでいる。
彼は祈るように握る手を胸に押し当て、爪が食い込むほど強く祈っているのに、声は涙に震えていた。
「北の街が……壊滅しました」
「……!」
人々の間に悲鳴が広がる。
「黒い雨が、街を覆ったのです。逃げ場がないほどに大規模な……。祈りを尽くしました。聖導士が、民と共に。ですが……」
男の声はそこで途切れた。
言葉を飲み込むように唇を震わせ、俯いた目からは雨と混じって涙が零れ落ちる。
フィオナが小さく息を呑んだ。
「そんな……祈りが……」
彼女の声もまた、かすかに掠れていた。
使者は雨に濡れた肩を震わせながらも、奮い立たせるように顔を上げた。
「フィオナ殿、そして勇敢なる皆々様。どうか……どうか前線を守ってくだされ!これ以上、民を……見殺しにはできませぬ!」
その声は哀願と怒りの入り混じった叫びだった。
人々は息を呑み、誰もが空を見上げて絶望を噛みしめている。
アレンは一歩前に出た。
胸の奥で響くのは、師の言葉でも祈りの言葉でもない。
ただ、剣を抜き続けてきた自分の衝動だった。
「……行くしかない」
誰に向けるでもなく呟いた声は、冷たい雨音に吸い込まれて消えた。
使者はノエルからフィオナの話を聞いていたらしい。特徴と一致する人物が近くにいると知って、藁にも縋る思いでやって来たのだという。
聖導教会の掴んだ情報では、救済の環が近隣の遺跡に集まって何やら企んでいるらしい。
アレンは仲間たちを見回した。
ダリオスが頷き、ジークは腕を組んだまま空を睨み、イゼリアは唇を噛みしめている。
フィオナも真っ直ぐ前を見据えていた。
瘴気混じりの雨が石畳を染め、街の人々の顔に恐怖を刻む中、アレンたちはマントのフードを深くかぶり、迷わず歩みを進める。
まずは瘴気を広げる救済の環を止めるために。
そして、これ以上の惨劇を繰り返さないために。




