第4話 災禍の大蛇
広場に、ひときわ大きな衝撃が走った。
熊型の瘴気魔獣を退けた直後、空は暗雲を裂かれたように黒雲へと変わり、瘴気が渦を巻いて流れ込んでくる。
やがて雨粒のような黒い滴が降り、濡れた石畳はじりじりと焦げるように煙を上げた。
――息を呑む間もなく。
「上だ!」
誰かの叫びに顔を上げると、鐘楼を覆うように巨大な影がのしかかっていた。
大蛇のような瘴気魔獣。鐘楼に巻き付き、瓦礫を砕きながら身をよじらせる。
その胴は塔と同じほどの太さで、赤黒い鱗の間から瘴気が漏れ出していた。
人々の悲鳴が再びあがる。
逃げ遅れた者たちが膝をつき、絶望に顔を覆った。
そこへ、耳を裂く咆哮。
イゼリアの飛竜が痙攣するように翼をばたつかせた。
瞳は真紅に濁り、鱗には黒い亀裂が走る。吐き出す息は瘴気そのもの。
「やめろ……聞け!私だ、イゼリアだ!」
イゼリアが必死に呼びかける声も届かず、飛竜はイゼリアを突き飛ばし尚も勢いよく暴れた。
咆哮一つで近くの瓦礫が吹き飛び、広場が一瞬で戦場に変わる。
「おいおい、飛竜まで敵に回るのかよ!」
ジークが悪態をつく。
イゼリアはよろけながら立ち上がると、青ざめた顔で飛竜の手綱を握りしめる。
飛竜が暴れ、手綱が跳ね、イゼリアも振り回される。
先程までの毅然とした姿は、もうどこにもなかった。
瘴気の大蛇と暴走する飛竜――街は二重の脅威に晒された。
だが、竜騎士たちは怯まなかった。次々と槍を構え、2つの影の下に飛び込んでいく。
「行くぞ!」
ダリオスが剣を抜き、アレンたちも並び立つ。
戦場は轟音と悲鳴で満ちた。
大蛇が塔を締め上げ、石を砕き、ずるりと下りてくる。
その瞬間――尾が閃いた。
ジークは半歩踏み込み、剣を滑らせた。
金属音とともに衝撃が逸れ、尾の軌道がわずかにずれる。
人々の頭上をかすめた風が、壁を粉砕した。
刹那の静寂。
向こうでは飛竜が咆哮とともに翼を振り下ろす。
竜騎士がその一撃を受け流す。
イゼリアが必死に叫んでいる。
その中で、アレンは人々を背に庇いながら前へ踏み込んだ。
「こっちだ!」
咄嗟に叫び、崩れ落ちる石の雨を剣ではじきながら避難者を導く。
そして逃げ遅れがいなくなると、剣を振り上げ、瘴気魔獣に切りかかる。
鱗に瘴気の黒い火花が散った。刃は深くは通らない。
魔獣が尾を振り、アレンは吹き飛ばされる。左手と両足をついて着地し、歯を食いしばりながら顔を上げる。
周囲では仲間たちが必死に抗っていた。
ジークが詠唱する。
鋭い風の斬撃が大蛇の鱗を裂き、わずかに瘴気の血が飛び散った。
「ほらよ、隙くらい作ってやったぞ!」
その声に応えるように、竜騎士の一人が飛竜の背から急降下し、槍を巨体へ深々と突き立てる。
瘴気が炸裂し、地響きのような悲鳴が広場を揺らした。
「押せ!退くな!」
ダリオスの号令に、竜騎士たちが一斉に駆け寄る。
幾本もの槍が打ち込まれ、大蛇が叫ぶ。だが、鱗は厚く、致命傷には遠い。
飛竜の翼撃で巨体の動きを封じ、竜騎士たちが命を賭して足止めする。
その一瞬の積み重ねが、ようやく大蛇の動きを鈍らせていた。
アレンは血と瘴気の飛沫を浴びながら、再び立ち上がる。
「まだだ……!」
魔獣が再び尾を振り、瓦礫が飛び散った。
鋭い風圧が頬を打つ。
アレンはそれを身をひねってかわすと、近くにいた竜騎士の飛竜の背へと跳び乗った。
驚愕の声が背後から響く。
飛竜の背を蹴り、アレンはその反動で魔獣の尾へと跳び移る。
鱗の上を駆け上がり、うねる首が目前に迫る。
剣閃が閃き、黒い鱗に裂け目が刻まれる。
大蛇が苦痛の咆哮をあげ、広場全体が震えた。
「無茶をするな!」
遠くでダリオスの声が響く。だがアレンは止まらない。
瘴気魔獣の暴走をこのまま見過ごせば、街ごと呑まれる――それは許せなかった。
「フィオナ!」
アレンは、フィオナの名を叫びながらもう一度剣を振り上げる。
「ーーホーリー、ライト!」
阿吽の呼吸でフィオナの詠唱が終わり、杖が光り輝き魔法が発動する。
アレンの剣が白銀に輝く。振り抜かれた一閃は鱗を裂き、大蛇の首を半ばまで断ち切った。
だが、まだ繋がっている。瘴気を噴き上げ、なおも巨体がのたうつ。
アレンは歯を食いしばり、もう一度反対側から剣を振りかぶった。
街の悲鳴が遠のく。――音が、世界から消えた。
「これで……終われぇっ!」
白銀の閃光が奔り、大蛇の首を完全に断ち切る。
――首が飛んだ。轟音とともに石畳に落ちる。
支えを失って揺らめき倒れる巨体に、街全体が揺れる。
倒れる前にその巨体を蹴って距離を取ったアレンは、脚で勢いを殺しながら着地する。
大蛇が崩れ落ち、瘴気が風に溶けていく。
一瞬の静寂。
広場を包む沈黙が、わずかに安堵を孕んだその瞬間――フィオナの悲鳴響いた。
アレンは、はっとその声のする方を見る。
彼女は瓦礫の間に膝をつき、両手を暴れる飛竜へと差し伸べていた。
「お願い……戻って……!」
浄化の光が溢れ出し、飛竜を覆った瘴気を押し返す。
だが、黒い亀裂はさらに深く走り、光を侵食していく。
「やめろ!私の相棒に触れるな!」
イゼリアが叫び、飛び込もうとしたのをジークが必死に押さえた。
「落ち着け!今はあいつしか止められねぇ!」
光と闇が拮抗し、軋むような音が空気を裂く。
「もう少し……もう少しなの!」
フィオナの瞳から涙が溢れ、声が震える。
――足りない。
剣を鞘にしまったアレンが駆け寄り、片膝をついてフィオナの隣に座った。
飛竜に触れる彼女の手の上に、自分の手を重ねる。
「大丈夫だ。こいつはまだ、闘っている」
重なった手から、炎がふわりと広がった。
柔らかな白銀の炎。だがその熱はどこまでも温かい。
そのぬくもりが、荒れ狂う瘴気を穏やかに溶かしていき、飛竜の赤い瞳に――一瞬だけ理性が戻った。
「……嘘だろ……」
ジークが押さえる腕の中で、イゼリアが泣き叫んだ。
だが炎は飛竜を傷つけることなく、ただ優しく包み込んでいく。
「今はただ、眠れ──」
アレンの静かな声が響く。
飛竜は最後に弱々しく鳴き、まぶたを閉じた。
暴れる翼が力を失い、巨体が静かに石畳へ横たわる。
白銀の炎はゆっくりと揺らめき、やがて風に解けて消えた。
飛竜に手を伸ばしたまま、イゼリアの涙がぽつりと石畳に落ちる
広場を覆っていた瘴気も、少しずつ薄れていく。
アレンは眠りについた飛竜を見下ろし、そっと目を閉じる。
「……おやすみ」
誰に聞かせるでもない、穏やかな声だった。
戦いは、終わった。




